第7章 黄金の午後に還る日まで
26.歩兵は白の女王へ 151
アリスたちは、白の王国と作戦会議をしていた屋敷にダイナを連れて行った。
まだほとんど事情がわからないのに関係者一同と会わせるのは危険かもしれない。
だが彼らは、危惧すると同時にダイナを信じていた。
彼女には決して疾しいことはないと。そして彼女自身がこの事態の解決を願っていることを。
――レジーナ、あなたにどんな事情があろうと、私の大切な生徒に手を出した。あなたを見逃す訳にはいかないわ。
ダイナの事情を、聞かねばならない。
◆◆◆◆◆
面識のある者もない者も、多くの人間に周囲をぐるりと囲まれて、それでもダイナは普段とまったく顔色を変えなかった。
いつも学院で生徒たちに授業をする時のように堂々としている。
白の王国の主導者の一人である白の王ことマレク警部は、彼を刑事だとばかり思っていたダイナに正体を明かした後、一通り事情を説明した。
「……そういうことだったんですのね」
「ああ」
身の上話をする程親しい間柄ではないが、相手が自分の認識していたものとは全く別の素性を隠していた以上はそれについても話さざるを得ない。
「今度はそちらの話を聞く番だ。――ダイナ=レーヌ。あなたにとって……ハートの女王は何だ?」
「友人です」
ダイナはきっぱりと言い切った。
「もう皆さんもお察しでしょうが、レジーナ=セールツェ……私の友人である彼女こそが、あなた方が睡蓮教団の首領と呼ぶ“ハートの女王”です」
シャトンも直接会ったことこそないが、ハートの女王の名は知っている。
けれどそのコードネームを聞いて、何人かが怪訝な顔をした。
「“ハートの女王”がトップ? 教祖は“赤の王”ではないのか?」
十年前、睡蓮教団を倒すために行動した際そのコードネームを知ったヴァイスが疑問を口にする。
「赤の王は、レジーナの父。……彼女は、自分の父親を殺してしまったそうよ。つい最近の話だわ」
「!」
思いがけないその報告に、部屋の中の一同は息を呑んだ。
彼らの知らないところで教団は権力争いでもしていたのか、倒すべき相手のトップがいつの間にか入れ替わっていたのである。
「……どうして?」
アリスは理由を尋ねる。
何故ハートの女王は、自らの父親を殺すような真似をしたのか。
アリスだけでなく、両親を殺された復讐のために動いていた怪盗ジャックことネイヴやギネカも、ダイナの返答に注目する。
「仲が悪かったから」
「でも」
端的なその言葉だけでは納得できないと食い下がるアリスに、ダイナはただ悲しそうな表情を向ける。
「レジーナ自身も背徳神の魂の欠片の持ち主よ。背徳神の復活を願うその父親は、レジーナを使って色々とやっていたそうなの。詳しいことは私にもわからないけれど、彼女は昔から、従順に従う振りで父親を酷く嫌っていたわ」
仲が悪かったとダイナは先に言ったが、もしかしたら父親である赤の王自身は、娘のそんな気持ちに気づいていなかったのかもしれない。
「私とレジーナは、学生時代からの友人なの。そして私自身も、背徳神の魂の欠片の持ち主。だからお互いが、人と比べて異質な存在であることにすぐに気づいたわ」
「異質……」
ダイナはどこにでもいる普通の女性だ。
少なくとも彼らはそう思っていた。
けれどここにいる者たちは皆が皆、多かれ少なかれ自身をそう思いながら、怪盗として活動したり、犯罪的宗教団体を追いかけたりと無茶をしている。
“普通”とは一体何? “異質”とは一体何?
本当はみんな普通で異質で……本当はどこにもそんなものないのかもしれない。
「私は両親が普通の人間だったからまだともかく、レジーナには昔からその父親しかいなかった。彼女は父に反発しながらも追従し、父の野望を手伝う傍ら、自らの野心もまた育てていた」
それが睡蓮教団内で部下を得てやがては教団自体の実権を握ることだとは、ダイナもつい最近まで知らなかったと言う。
「ダイナ、私たちが知りたいのは、君と“不思議の国”、そして睡蓮教団との関わりだ」
十年前から教団に人生を翻弄されてきたヴァイスとしては、彼女と教団の繋がりを否定したくてたまらないらしい。
冷静に考えれば十年前はダイナもまだ十五歳だ。いくらなんでも中学生が怪しい宗教団体と繋がりを持っている訳はない。
だがたった二歳しか変わらないヴァイスは、すでに教団と戦争をしていた。
どこにどんな真実が転がっているのか……もう、わからない。
「君は“ハートの女王”に“赤の女王”と呼ばれていたな」
「ええ。私のコードネームは“赤の女王”」
「コードネーム……」
それこそが“不思議の国の住人”との関連を示す最大の符丁。
けれど“赤の女王”というコードネームをこれまで誰も聞いたことがないと言う。
最近この問題に巻き込まれたアリスや、教団のことを外から探るだけだった怪盗とその相棒たちだけでなく。
十年以上前から教団と戦っていたヴァイスや白の王国の人間たちも、元々教団に所属していたシャトンやジェナーさえ聞き覚えのない謎のコードネームだ。
「“赤の女王”とは何だ? 私たちはそんな名を聞いたことはない」
「当然です」
彼らの疑問は尤もだと頷き、ダイナはどこか過去を懐かしむ表情で告げる。
「“赤の女王”に関して知っているのは私自身と、レジーナだけ。このコードネームは、元々私とレジーナの間だけで通じるお遊びだったんだもの」
一同は怪訝な顔になる。
「お遊びって、どういうこと? 元々はって……ダイナ先生とその、ハートの女王レジーナさんとは、どう教団に関わっているの?」
彼らが一番知りたいのは、その部分。
ダイナとレジーナが友人同士だと言うことは、アリスたちも理解した。アリスにだって実は怪盗だったりその相棒だったり殺人鬼だったりした友人がいたのだ。知人が裏の顔を持っているという話自体は珍しくもない。
問題は、ダイナが友人であるレジーナを介して睡蓮教団とどれだけ関わっているのかだ。
「……不思議の国のコードネームについて、構想をしたのは私なの」
「!」
「最初は文字通り、ただの遊びだったのよ。父親を嫌っているレジーナはいつも不安定で、私以外に友人はいなかった。私自身も他の人間と深く付き合って来なかったから、世界は二人だけで、それでも良かった」
どこか寂しい言い方をする、とアリスは思った。
ダイナに友人が少ない? ……言われてみれば、そうなのかもしれない。今初めてアリスはそのことを思った。そう言えば最近になってレジーナと顔を合わせ始めたこと以外に、ダイナがアリスたちの前で自身の旧友の話をしたことはないのだ。
アリスは自分が思っていたよりダイナのことを知らなかったことに気づく。今更気づかされる。五年も二人きりの姉弟として生きて来たのに。
「どうせ他人の入って来れない関係なら、いっそ徹底的にやりましょう、と。私はレジーナと二人の間だけで通じる符丁を作った。そしてそこに、自分たち以外の人間も含める箱庭の構想をしたの」
「その箱庭とは……」
「“赤の王国”……別名を“不思議の国”」
どんな狂気も異質も存在を許される、おかしくてけれど平和な世界。小さな少女のナンセンスな冒険物語。
「いつか私やレジーナのように背徳神の魂の欠片を持つ者たちが集って、私を、彼女を理解してくれるように。仲間が増えたら『不思議の国のアリス』になぞらえて名前をつけてあげましょう、と」
レジーナは彼女の名前自体に「心臓」と「女王」の意味があることから、不思議の国の“ハートの女王”になった。
ダイナは元々原作の中に「ダイナ」と言う名前の猫が出て来るので紛らわしい。けれど始めにこの物語を構想した人間なのだから女王様の一人だと、鏡の国の“赤の女王”になった。
二人の少女はお互いのコードネームを考えて付け合った。いつかこの「ごっこ遊び」に参加してくれる仲間が増えることを願って。
けれど。
「彼女はその“ごっこ遊び”を現実にしてしまった。いえ、彼女の父親に奪われたのかもしれない」
ダイナとレジーナ、二人の間だけで通じる幸福な箱庭は現実の睡蓮教団という形を伴って実現してしまった。
彼女の父の野望、背徳神の復活のためならどんな罪をも犯す、犯罪的宗教団体として。