第7章 黄金の午後に還る日まで
27.ハートの女王の命令 160
艶やかな銀糸の髪に真っ赤な瞳。
黒いベストを身に着けた、物語の中の印象そのままの白兎。
否、物語中の老いた兎になぞらえるには、彼はあまりに美しすぎる。
コードネーム“白兎”、アルブス=ハーゼ。
アリスに時を盗む禁呪をかけこの姿にした、全ての元凶。
「来ると思っていたよ」
「お見通しだったわけか」
人から時を奪っておきながら、彼自身はまるで流れる時の干渉など受け付けないかのような容姿をしている。
白兎の背後、シェルターに並んでいるのは、無数の巨大な砂時計だった。
否、砂時計ではなく、水時計の方が近いだろうか。
一方通行に上から下へ落ちていくものではなく、中心に並んだ二つの管の一方は上から下へ落ち、もう一方は下から上へと昇り循環している。
色とりどりの光の粒のような時の砂が舞い落ち舞い上がる、終わることのない輪。
シャトンから簡単に様子を聞いていたとはいえ、アリスとザーイエッツは、思わずその光景に見入った。
「これが、禁呪の本体。そこにいるチェシャ猫はよく知っているだろう」
「……ええ」
シャトン――コードネーム“チェシャ猫”が作り出した、人々の時を盗み神の復活のためのエネルギーに転用するという禁断の魔導。
ここに並ぶ美しい光は、けれどそのほとんどが人を殺して奪い取った生の残骸でしかない。
「この時計の一つ一つが、一人の人間から盗み取った時間」
時計の大きさは全て同じだが、中で舞う時の砂とも水ともつかぬものの量はそれぞれで違う。
それこそが、白兎が人間たちから盗んだ時間の長さの違いを現す。
「こんなに……被害者が」
広大な敷地全てと同じ大きさの頑丈な地下シェルターの中に並ぶ水時計の数は千や二千ではきかない。
「涙ぐましい努力だろう? これだけ集めても、まだ、まだ、まぁだ足りないんだってさ」
神を復活させるための、途方もない道のり――。
「もっともっと人を殺さなきゃ、彼らの神を蘇らせるには足りない」
「本当に人から盗んだ時間を集めて、神を蘇らせることはできるのか?」
「できないよ」
「?!」
白兎のあっさりとした返答に、全員が驚愕する。
できない? 今、できないと言ったのかこの男は。
「チェシャ猫には悪いけど、君の作った術は机上の空論だ。いくら盗み取った時間を集めて、背徳神自身の魂の欠片を集めても、そんなことで喪われた神が蘇るはずないだろ」
そんなことで蘇るなら、背徳神自身がとっくに実行しているはずだと。
魂の欠片が世界中に無数に散らばっていると言うことは、世界中に背徳神の複製がいるということ。
その中にはまさしく背徳神自身の人格を持つ者もいると言う。
「な……ちょ、待って、待ってよ!」
他でもない禁呪の開発者であるチェシャ猫が動揺する。
「白兎、あなたは最初からそれを知っていたの?! だったらどうしてそれをハートの女王と赤の王に――」
時間を盗んでも神を復活させることができないとあらかじめわかっていれば、そんなことをする必要はなかった。
アリスのように、ザーイエッツのように、他の時間を盗まれて生まれる前まで若返り消えてしまった人々のように、たくさんの被害者を出さずに済んだのだ。
「このことを知っているのが」
しかし白兎の返答は、チェシャ猫の困惑と当然の疑問を遥かに超える事実だった。
「本当に、俺だけだと思っている?」
白兎がにっこりと笑う。
彼がただ歳を取らないと言うだけではなく、人間より上の次元に属する者だとわかる美しくも恐ろしい笑み。
「――まさか……」
「そうだ。ハートの女王は、最初からそれを知っている。知っていて、君の禁呪の力によって神が復活すると父親である赤の王に信じ込ませたんだよ」
彼の言っていることは恐ろしいが理解できる。
だが、何故そんなことをするのかが理解できない。
「覚えているかい? チェシャ猫。確かに時間を盗む禁呪を開発したのは君だ。けれど、それで人々の時間を盗み取り神の復活のためのエネルギーにしようと発案したのは別の人間だと言うことを」
「もしかして」
「そうだ、それこそハートの女王」
だからレジーナは、同じ教団内にいながら十年以上チェシャ猫と接触しないよう気を遣っていたのだ。
直接会って禁呪の話をするようなことがあれば、真実に気づかれる恐れがあると。
「そうだったのか……」
アリスとザーイエッツは驚き、けれど納得もしていた。
チェシャ猫自身が、その才能をいいように利用されていたのだ。彼女の知らないところで、彼女が知らないうちにその才能に目をつけ自分に都合よく操る輩がいた。
「そんな……じゃあ……私のしてきたことは一体……」
「落ち着けよ、シャトン」
隣に立っていたアリスが、ふらつくシャトンを支える。
「そう、気にすることはないさ、チェシャ猫。君の開発した禁呪は、ハートの女王の望みに適うものだった。だから彼女はそれを建前として使ったんだよ」
「建前?」
そこで白兎は、ほんの少しだけ悲しそうな、誰かを憐れむような表情を浮かべた。
誰を? ……ハートの女王を?
「彼女にも理由があるということさ。少なくとも、時を盗む禁呪の存在が当時のレジーナを救ったことは事実だ」
救う?
「……どういうことなんだ?」
「俺が話すと思うのか? そして、それを聞いたらお前らは俺たちを見逃してくれるわけ?」
「……いいや」
「なら、聞いても仕方ないんじゃないか? それに、お前たちがここに来たと言うことは、女王陛下の方にも手勢を向かわせたんだろう? どうせすぐにわかる」
「すぐにわかる……?」
ザーイエッツが怪訝な表情をした。
ハートの女王の方へはダイナたちが行っている。戦闘も行われるはずだ。
白兎の言い方だと、まるでその場面で、何か起こるとでも言いたげだ。
「――」
アリスたちもそれに気づき不安になるが、今はダイナとヴァイスたちを信じるしかない。
自分たちの役目は、ここにある水時計を破壊すること。アリス、シャトン、ザーイエッツの三人は盗まれた時間を取り返し、すでに死んだ者たちの時を解放する。
闇雲に睡蓮教団を信じる者たちから希望を奪い取り、現実を突きつける。
不思議の国の夢を見るのはもう終わりだと。
「俺たちが不利だとしても、姉さんたちは負けないだろう」
アリスは姉を信じている。
「その通りだな。だが気を抜く暇はないぞ」
またしても不穏な言葉に、アリスたちは白兎の挙動へと注目した。
「教団がお前らの襲撃を何も警戒してなかったと思うか? 対策はさせてもらったよ」
彼が発した言葉は、すでに教団の方が一手早く行動を起こしているという宣言だった。
「表社会の住人は、守るべき大切な人間がいて大変だな」
「っ! お前、何を……っ!」
「ハートの女王はかつての友人に出来る限り穏便に手を引いて欲しいらしくてね。だから本格的な戦闘に入る前に、手を打った訳さ。彼女と白騎士の大事なものに対して」
「それで学院を襲撃?」
通信を受けたシャトンが険しい顔をしている。
アリスとザーイエッツが焦燥の浮かぶ顔でシャトンを見る。
「フォリーさんから連絡があったの」
「「!」」
「向こうは今――」