Pinky Promise 162

第7章 黄金の午後に還る日まで

27.ハートの女王の命令 162

 地下シェルターに大量の水が入り込む。
 時の水時計を水圧で一気に全て割る作戦だ。
「どこから……?!」
 白兎が大量の水に驚いて目を瞠る。
 彼はアリスたちのように魔導防壁を張る様子もない。このままでは死んでしまうのではないかと思い、彼の分も防壁を張るべきかとアリスたちが考えている間に、一気に水が押し寄せる。
 けれどそこで見たものは不思議な光景。
 あれだけの水流が白兎にはまったく影響しない。水の方で彼を傷つけるのを嫌うかのように、白兎は水流の中でもまったく変わらなかった。
 改めて彼が普通の人間ではないことを実感する。
 アリスとシャトン、ザーイエッツの三人は意識的なものから普段は意識していない分の魔導力まで総動員して防壁に集中していた。
 ただ水を流すだけで時計が割れないと困るので、この水には確実に時計を壊すよう魔力の攻撃性を加えてある。例えるなら、水浸しにした部屋に電流を流すようなものだ。
 爆弾を作り、水に魔力を流すような仕掛けをしたのはヴァイスである。発明が趣味と言う割にいつもろくでもないものばかり作っているが、今回は役に立った。
 魔導防壁は水の脅威だけでなくそういった攻撃からも自身を守るためのもの。
彼らが睡蓮教団の根拠地にすぐには乗り込まず、数日の猶予を置いたのはこの仕掛けのためだった。
 工場の裏手の山の川に目をつけて、地下から穴を掘って水を通しやすくした。
 作戦当日のアリスたちの行動は、実際に禁呪の本体である時の水時計の位置を確かめて、確実にその場所に激流を通すこと。
 ――作戦を考えた時、一番の問題だったのは、どうやってこの大量の時計を壊すかということだった。
 形が砂時計であるからには比較的割れやすい。けれどこの量、ちょっとやそっとの爆発ではものともしない頑丈な地下シェルター。
 そして何より厄介なのは、アリスたちの行動を妨害するだろう睡蓮教団の人間。
 アリス程度の魔導でも時計を壊すことは簡単だが、一つ一つ破壊していては夜が明ける。かといってこの無数の時の中から奪われた自分の時間を真っ先に見つけ出すことも難しい。
 そしてここにやってきた教団員にアリスたちが負ければ、この襲撃作戦自体が台無しになる。
 だから逆に、そうはならない策を練った。例えアリスたちが負けても、目的を達成できる仕組み。
 アリスたちはこの場所に来て、スイッチを入れる。それだけが役目だった。
 子どもの姿のアリスが考えだした、子どもでもできるような仕事だ。
 シャトンが作った、一時的に元のアリストに戻れる魔導時計も、怪盗ジャックが用意した、姿を大人に見せかける催眠能力付の仮面も必要ない。
 今の自分にできる、最少にして最大のこと。
 睡蓮教団内で最悪の敵である白兎が待ち構えていても、この作戦に変わりはない。
 押し寄せる水の攻撃的な勢いに負けて、巨大な砂時計が次々に割れていく。魔導を通した水が全てを壊そうとする。
 その攻撃で自分たちが傷つかないように張った防壁の中で、アリスたちはただその瞬間を待てば良かった。
「……来る!」
 硝子の砕け散る音が急に強く胸の奥に響いたと思ったその時。

「――ようやくの復活だぜ!」

 さよなら。アリス=アンファントリー。
 そして、おかえり。アリスト=レーヌ。

 彼らは、盗まれた時間を取り戻した。

 ◆◆◆◆◆

「時間が……再び世界に散っていく……」
 もう盗まれた持ち主自身が死んで戻る場所を知らないその光は、流れ星のように各地に散って行った。
 あれは残照。遠い星の光はその星自体が死んでも光だけがこの空に遅れて届くように、孤独な時の砂は僅かな輝きを残していずれ闇に消え去る。
 それを捕まえる手立ては、もう教団にはないのだ。
「では睡蓮の神の復活は……私たちの願いは……!」
 入り口の攻防では、神の復活が叶わないことを知ったニセウミガメが目論見通り戦意を喪しかけていた。
「先生……!」
「しっかりしなさい! ニセウミガメ! ここに来て今更、これまで我らを導いてくれた女王陛下を見捨てる気ですか!」
 ハートの王が叱咤するが、ニセウミガメはなかなか気力を取り戻さない。
「お前はあれを見てもまだ戦うつもりか。やれやれ、厄介だな」
「当然ですよ、天の使者!」
「!」
 銃撃戦を仕掛けた白の王ことマレク警部の声に、ハートの王は怒鳴り返す。
 その台詞にハートの王なる青年がかなりの事情を知っていることを感じ取り、マレク警部は表情を引き締めた。
「私は全てを知って、それでも女王陛下を選んだのです。今更我らに何もしてくれない無能な神々とその配下の思い通りになどさせるものか!」
「そうか。本当に厄介な奴だ」
 このまま彼らが戦意を喪失してくれるならと思ったが、まだやるつもりのようだ。
 ニセウミガメの動きも大分精彩を欠いてはいるが、まだ武器を手放してはいない。
「これだから宗教など厄介なだけだ!」
「いやあの、陛下。月神セーファ様の眷属であるあなた様がそれを言います?」
 苛立たしげに吼える白の王に、庭師の7はそれしか言えなかった。

 ◆◆◆◆◆

 誰にでも信じるものはある。
 誰にでも、信じられないものがある。

 ◆◆◆◆◆

「やられたね……!」
 ハートの女王が忌々しさを通り越し、もはや驚嘆の表情で口にした。
 地下から小規模な爆発と大きな地響きに似た衝撃が感じられたかと思うと、この有様だ。
「裏山の水源か。何、君らこの数日せっせと土木工事に励んでたわけ?」
「そうよ」
 今度こそ睡蓮教団を取り逃がしはしない。その野望を挫くためには、誰かが負けても確実に作戦を遂行する計画が必要だった。
「あっはっは。発案者はアリスかい? やれやれ、まったく主人公様は容赦がないよ」
 所詮お前たちはただのトランプだと、夢の中において現実を突きつけるアリス。
 大いなる水の流れの前には、人間など紙切れのように翻弄されるしかない。
「おいおい、どうする気だい? 女王様」
「撤退しかないだろう。これ以上やりあっても不利だ。グリフォン、皆にそう伝え――」
 ハートの女王はダイナを相手に一瞬も油断のならない攻防を交わしながら、部下であるグリフォンにそう指示を出す。
 次の瞬間目の前のダイナの表情が変わり、赤騎士の珍しく切羽詰まった叫びが聞こえてきた。
「避けろ、女王……! レジーナ!」
「レジーナ!」
 パン、と軽い銃声がする。
「ま、この辺が潮時ってことだよな」

 グリフォンが、ハートの女王のこめかみを撃ち抜いたのだった。