薔薇の皇帝 序曲(2)

薔薇の皇帝 序曲 02

007

 教主ローデリヒは数人の部下にうやうやしく付添われて自室へと戻って来た。しかし、その彼らを部屋の中には呼ばず、あっさりと追い払ってしまう。
「お前たちは下がれ」
「それでは、何かありましたらお呼びくださいませ」
 ひらりと手を振る教主の仕草にはどこか高貴な空気が滲み出ていて、応える部下たちは自然と畏まった態度になる。ローデリヒはそれを気にも留めず、さっさと部屋の中に入ると、ローブを乱暴に脱いで長椅子へ座り込んだ。
 眉間に皺を寄せながら彼が思い出すのは、先刻の光景だ。何者かが教会を荒らしまわっているという多少過剰な報告を受けて向かった先では、予想したような大集団での打ち壊しはなかったが、何故か教会が半壊していた。
 その理由はすぐに知れることとなる。崩れた瓦礫の足下に、白い影があった。白銀の髪に深紅の瞳のローゼンティア人。吸血鬼の腕力ならば、煉瓦造りの教会を半壊させることなど確かに容易いだろう。
 とりあえず地下牢にぶちこんでおいたが、安心はできない。この国に訪れた理由と背景を聞き出したら暴れられる前にすぐにでも殺してしまうのが得策だ。いくら地下牢が頑丈だとはいえ、教会を半壊させるような輩をいつまでも生かしておくわけにもいかない。
 シュタッフスを差し向けた、今頃彼らがどこの手の者か聞き出している最中だろう。無事に聞き出したらその足で再度始末に向かうよう命じてやればいい。
「おのれ、誰の差し金だ」
苛立ちが募り、ローデリヒはつい爪を噛む。綺麗に形の整ったつめが歪み、歯型がつくがかまいはしない。どうせローブと分厚い手袋の下なぞ、誰も見やしない。
さっさと殺せばいいと決めながら、それでもローデリヒが不愉快になるのは、先程出会ったヴァンピルの青年の顔に見覚えがあるからだった。あれは、薔薇の国の王家の一人――。
「ちっ。せめて偽名を使うべきだったか」
 彼の方は素顔を晒し、こちらはローブとヴェールで全身を隠した姿だった。向こうからローデリヒの顔はわからなかったはずだが、しかし名前と、死者を蘇らせるという触れ込みを合わせて考えればすでに相手にもこちらのことが知られている可能性は高い。ローデリヒはかの青年とさほど対面した覚えもないのだが、向こうの存在感は圧倒的だ。
 まったくもって忌々しい。
「あんな苦労知らずの若僧に、私の邪魔をされてたまるか!」
 ぎり、と爪が軋む。生え際の皮膚にまでその感触が伝わる。
 その時、部屋の外から扉が叩かれた。この規則正しい音の仕方は、シュタッフスのものだ。
「入って来い」
「……失礼いたします」
 扉を開けたシュタッフスの顔色はどこか悪い。彼は部屋の中でローデリヒが無防備に顔を晒しているのを見ると、慌てて部屋の中に滑り込み扉を閉めた。
「ローデリヒ様」
「何かわかったか?」
「いえ、それが……」
 シュタッフスの報告を聞いて、ローデリヒはもともと不機嫌だった顔つきを更に歪めると、長椅子にかけていたローブを乱暴に投げつける。
「結局何もわかっていないのと同じではないか! 貴様は一体何をやっている!」
 投げつけられたものは布なので、シュタッフスも実質的なダメージはほとんど受けていない。だが投げた物はともかくとして、そういうことをされたという事自体が問題だ。
「申し訳、ありません……」
 シュタッフスはあくまでも低姿勢に、ローデリヒへと頭を下げる。ローデリヒは役立たずな部下を眺め、ふんと鼻を鳴らす。
「まぁ、いい。思惑はどうであれ。奴らが私の邪魔であることに間違いはない」
「ですが……」
「シュタッフス」
 主の言うことに何事か反論しようとした青年の口が開かれようとするのを、ローデリヒは足下に跪いた彼の口に無理矢理指を差し込むことによって封じる。
「!」
「口ごたえするのか? わかっているだろう? お前は、私なしでは生きられないと」
青年の口内を指で犯しながら、ローデリヒは冷たく続ける。
「なぁ、シュタッフス、私はお前の命の恩人だ。あの時、馬車に轢かれて死んだお前を生き返らせた時にお前自身が泣いて私に縋ったのではないか」
 ローデリヒ教の教主ローデリヒがメイセイツで死者を蘇らせるその教えを広めた最初の大きな出来事は、街中での死者の蘇生だった。
 その時に、彼の力によって蘇らされたのがこのシュタッフスだ。馬車に轢かれて無惨な赤黒い肉塊と成り果てた彼を、ローデリヒは神の御業と呼ぶ術によって生き返らせた。
 もとは信者が減って廃れていた旧シレーナ教の教会の一つを街の住民から借り、ローデリヒはシュタッフスと共にそこへと滞在した。そこでシュタッフスは、本来なら言う必要もなかった事柄までローデリヒに打ち明けたのだった。
「お前は人殺し」
 ローデリヒの声が優美に残酷に告げる。シュタッフス自身にそれをしっかりと思い出させるように。
 舌を指で押さえられているシュタッフスは心と体、両方が苦しげな表情をするが何も言い返すことができない。
「覚えているかい? あの時、教会の礼拝堂でお前は私の足下に泣いて縋り、自らの過去を打ち明け出した。……お前は口減らしとして親に殺されかけたところを、逆にその親を殺してしまった親殺し。生きる価値などなかった自分をよく助けてくれたものだと」
 シュタッフスの胸に痛みが走る。
 彼がその過去を打ち明けたのは、ローデリヒが初めての相手だった。あの時、死の縁から蘇った自分はどうかしていたのだ。
 目の前にいる、教主と名乗るこの男はとても美しい。自分を虐げる今この瞬間でさえも、まるで天使のように神々しく輝かしい。
 だから神に懺悔するように、自らの罪をあの場所で告白してしまったのだ。それが後に自らを追い込むことになるとも知らず。あの時はローデリヒが自分の弱味を握って言う事を聞かせようとするような人物だとは思ってもいなかったのだ。
 全ての告白が終わった後に彼が言った言葉は。
「シュタッフス」
 耳元で甘く囁いて、ローデリヒは片手で彼の頬を包むと先程までシュタッフスの口内に差し入れていた指を抜いた。
 自らの指に絡んだシュタッフスの唾液を目の前でわざとらしく淫靡に舐めあげる。それはとても、神に仕える立場にある者のする仕草ではない。
「ん……」
 そしてローデリヒはそのままの流れで、跪く青年の顔を引き寄せるとその唇に深く口づけた。
「ローデリヒ、様……」
 つぅと銀糸を引かせながら唇を離した主君に向かい、シュタッフスが絶望の表情で力なく呼びかける。
「……ふふ。可愛いよ、シュタッフス。私がいなければ生きられないお前は、なんて可愛いのだろう」
 ローデリヒはこの国のあらゆる有力者の弱味を握っている。
 それは、彼の手によって生き返った者たちは、ローデリヒの存在なしにはそのまま生き続けることができないということ。シュタッフスも例外ではなく、彼はローデリヒに捨てられてはすぐにも身体が朽ち果ててしまうのだという。
 死ぬのは怖い。だからシュタッフスはローデリヒの側にいる。そして国の有力者たちもそうだった。後ろ暗い秘密をローデリヒに握られ、彼をメイセイツから追い出すことができない。
「王妃様も可愛らしかったよ。お可哀想に、国王陛下との仲がよろしくなくて、カウナードに帰りたいと泣いていらっしゃった。あんな美しい人のどこか今の陛下は不満なのだろうね。とても……くく、可愛らしかったというのに」
 言外に王妃と寝たのだと告げるローデリヒの言葉に、シュタッフスは僅かに眉根を寄せる。それをどうとったのか、ローデリヒは更に酷い言葉を続ける。
「ああ、王妃様は前回護衛で来ていたお前を気に入ったようだったよ」
「え……」
「だから、今度はお前も連れて行ってあげよう。せいぜい仲良くさせてもらうといい」
「ローデリヒ様!」
「だから今は一刻も早く、あいつらを殺してしまおう」
 突然変わったように思える話題に、咄嗟にシュタッフスはついていけなくなる。だがローデリヒはもともとここに話を繋げる予定だったようで、欠片の動揺もなく告げる。
「私はこの国での生活が楽しいよ。今更失いたくなどない。ねぇ、だからあの邪魔なヴァンピルを殺してしまおう」
 シュタッフスの灰色の髪をそっと梳きながら、洗脳するように囁く。
「お前もそうだろう? 惨めな暮らしに今更戻りたくはないだろう? いいじゃないか。私たちはここでようやく幸せを手に入れたのだから、それを守ろうとして何が悪い? そうだよシュタッフス、私の秘密もお前がこの街で生きて行く理由も守るには、あいつらを殺すのが一番だ。私は教主、お前はその護衛。過去なんてどうでもいいじゃないか。今さえあれば」
「それは……」
 シュタッフスに重く圧し掛かる、親殺しという過去。それをわざと突いてみせ、ローデリヒは腹心の剣士を唆す。
「奴らを殺せ」
「は――――」
 シュタッフスが頷きかけたその時。

「ふぅん、そういうこと」

 いつの間にか部屋の正面、開いた扉の向こうに白銀の髪の少年が立っていた。

 ◆◆◆◆◆

 ――返してよ! あの人を生き返らせてよ! 返してよ!
 少女の叫ぶ声が胸を打つ。
 ――あなたは皇帝なんでしょう!? だったら、何だってできるはず! だったらシェリダン様を生き返らせて! お願い! お願いよ……!
 ロゼウスの胸に縋り、金の髪を振り乱して泣き叫ぶローラ。思い切り彼の頬を叩いた彼女の手も赤くなっている。翡翠の瞳の中には、彼と同じ悲しみが宿っていた。
 ――生き返らせてよ! 生き返らせてよ! あの人を返してよ!
 あなたならできるでしょう、彼女は何度もそう繰り返した。何度も繰り返された。
 どうしてあの人を守ってくれなかったの。責める響はいつしか懇願に変わり、ロゼウスのシャツを掴む手は白く筋が浮いている。
 ――どうしても、できないのか……?
 目の前にいるのは自分と同じヴァンピルの二人。最後まで生き残ったローゼンティア王族、ロザリーとジャスパー。
 ――ごめんなさい、ロゼウス、私じゃ無理だわ……。
 もともと魔術の不得手なロザリーが酷く悲しげに首を振る。彼女も彼が好きだった。手に入れたいなどと思わないために誰もそれについて言及することはなかったが、本当に、好きだった……。
 ――申し訳ありません、兄様。
 ジャスパーも無理だと言う。文武両道はもちろん人知れず魔術にも優れていた優秀な王子である彼にも、死者の蘇生は叶わない。
 人間とヴァンピルでは身体構造が違う。ロゼウスたちヴァンピルは、同族であり自分たちと同じく魔力で身体を作られた者相手ならばその生命力を分け与えることもできるが、まったく魔力を持たない人間相手にそれは難しい。
 かといって、この世界で最高の蘇生術を持っているロゼウス自身はシェリダンを蘇らせることはできない。
 全知全能たる力を持つ皇帝は、己の愛している者だけは生き返らせることはできないのだという。
 ロゼウスが本気でシェリダンを生き返らせたいと願えば願うほどに叶わない。愛してしまったから、彼だけは生き返らせることができないというこの皮肉。
 薔薇の皇帝ロゼウスは、もともとはヴァンピルだった。ローゼンティアの吸血鬼には死者を蘇らせる力を持つ者がいる。ロゼウスもそれを持っていた。皇帝になる前であれば、ロゼウスにならシェリダンを生き返らせることができたはずなのだ。
 けれど、叶わない。
 ロゼウスはシェリダンを殺して、その瞬間に皇帝になった。皇帝になると同時に彼を殺した。皇帝になる前だったら生き返らせることができたはずの彼を、しかし皇帝になった途端それができなくなった。彼の命と引き換えに皇帝の資格を得て、彼を救う道を永遠に閉ざされた。
 ――何か、何か他に方法はないのか!
 愛した者の死が、しかも他でもない自分の手で与えたそれに耐えられず、ロゼウスの心は一瞬ごとにこそぎ落とされるように削られていく。絶望的な狂気の中で、形振り構わずに何とかシェリダンを取り戻す手立てを模索する。
 ――ローゼンティアに行けば、他にも死者を蘇らせる力を持つ者がきっと……。
 同じローゼンティア人であっても、その能力は個体差が大きい。死者蘇生の能力が高いのはロゼウスの母方の実家であるノスフェル家だ。《死人返りの一族》と呼ばれる彼らは、それ故にローゼンティア王国でも高い地位にいる。
 だが儚い望みさえも、残酷な現実の前に容易く打ち砕かれてしまう。
 ――兄様、それは無理です。
 事実を淡々と告げるジャスパーに罪はないはずなのに、何故かむしょうにその顔が小憎らしかった。
 ――ローゼンティアのノスフェル家の方々は皆、王国で重要な役職に就いていました。だからこそ一年前、国が侵略された際にことごとく殺害されています。
 その殺害を指示したのは、敵国総大将シェリダン=エヴェルシード王。
 シェリダン自身だった。
 ロゼウスの身体から一気に力が抜けて崩れ落ちる。
 もともとは敵同士だった。死んでほしいと、むしろ殺してやりたいとすら願った相手だった。
 最初から、愛してはいけない相手だった。愛してはいけない相手を愛して、その愛故に彼を殺し、今、それを後悔している。
 こんな形での終わりを迎えると知っていたなら、最初から愛さなければ、出会わなければよかったのに。いや……。
 彼を殺すくらいであれば、ロゼウスは自分が生まれて来ない方が良かった。その方が、ずっとずっと良かった。
 ――どうして……。
 取り戻せない。二度と還らない。
 自分が皇帝など、皇帝になる宿命などなければ彼を殺さずにすんだのに。そんなものいらなかった。世界を統べる支配者の権利など、シェリダンの命に比べれば何の価値もない。
 けれどいらないと叫び、振り捨てようとしたものだけが結局はこの手に残っている。自分にとって何の価値もなく、意味もないものだけが。
 何故神は自分を選んだのだろう。
 選ぶならもっと他の、何の欠点もないような立派な人物を選べば良かったのだ。ロゼウスより能力的に優れた人間は確かに少ないのかも知れない。彼の力はまさしく帝国最高峰のものだ。しかし王の器とはその単純な能力値だけで測れるものではないだろう。
意欲も目標も目的もない、皇帝としての責務に何の興味もない無気力な者が玉座にいたって無駄なだけだ。
 ロゼウスが共に生き、側にありたいと思った相手はもうこの世にいない。
 生きているだけ無意味なのに、それでも呼吸を、脈動を、機械仕掛けの玩具のように身体が勝手に繰り返す。それを止めようと首を折っても心臓を抉っても死ぬことの出来ないこの身は、一体誰の操り人形なのだろう。
 ――返して。
 頼むから、返して。
 シェリダンを返して。どうにか取り戻させて。
 自分の命程度差し出せば彼が戻ってくると言うのであれば、いくらだって差し出す。自分の命より間違いなく彼のそれの方が重い。
 だがどんなに願ったところで、その願いは叶わない。
 決して叶わない。
 ――どうして。
 この世界に彼がいないのに、どうして自分は生きているのだろう?
 自らですらその価値も必要性も見出せないその生。それを与えてくれるはずだった存在はいない。彼がいなければ自分が今ここに存在することとて無意味。
 だが何かがロゼウスを引き止めている。
 ――できれば、お前の……。

 それは確かに、呪いだったのかもしれない。