薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 01
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青い空が頭上に広がっている。雲一つない穏やかな晴天から、暖かな陽光が降り注いでいた。
この辺りの気候は一年を通して安定していて、今の時期は滅多に雨も降らない。旅人にとっては距離を稼ぎやすく、定住の民も続く晴れ間に太陽の恵みを感じ取る頃だった。ある一つの懸念を除けば、天候の心配はまったくと言っていいほどない。
そんな時期だからこそ、祭りだなんだで穏やかな暮らしを送る民たちが浮かれるのも無理はないだろう。雨の多い季節を越えてようやく終わった実りの収穫を掲げて、街は連日賑やかだ。
「おや、もう帰るのかい?」
「はい。叔母さん、今までありがとうございました」
街中のほんの一画、特に何の特徴もない素朴な木造の家の前で、恰幅の良い中年の女性と若い娘が話していた。どちらの顔にも笑顔があり、もう数日後に控えた収穫の祭を祝う空気に心地よく呑まれていた。
娘の手には簡素な布袋の包みがあり、彼女はそれを大事そうに胸元に抱えながら笑顔で叔母を見ている。礼を言われて、これまで姪っ子の面倒を見ていた女性の方も人の良さそうな笑顔で、また彼女の悪い癖でもある滑らかなお喋りをはじめた。
「それにしてもまぁ、何とか祭礼に間に合って良かったねぇ。あんた、それをどうせいい人に渡すつもりなんだろう?」
「ちょ、いきなり何を言い出すのよ、叔母さん」
「駄目だよ隠したって。男物の上着なんか、あんたのうちじゃ必要としないでしょ? 父親の物ならあんたのお母さんが縫うはずだしねぇ。今度の祭のために、この前話してた相手に贈るんだろう? 若い人はいいよねぇ」
「そんなんじゃないったら! もう、からかわないでよ」
娘がこれまで自宅からはかなり離れた叔母の家で取り掛かっていたのは、今年の収穫祭に寄せた贈り物の製作である。裁縫が得意な叔母に、恋人に送る上着の縫い方を教えてもらっていたのだ。
叔母の言うことは確かに当たっている。出来上がった服を大切そうに布に包んで抱く娘の様子は幸せそうな若者そのもので、頬を染める彼女に対し、もともと雀のようにピーチクお喋り好きな叔母がさっさと彼女を解放するはずもなかった。そして娘の方も、なんだかんだ言って、彼女の協力のもと、自分一人でようやく恋人への贈り物を完成させることができたのが嬉しくて、つい長居をしてしまう様子だ。
空は晴れているし、吹いてくる風は穏やかで気持ちよい。小さな花壇に咲いた、食用の花が揺れている。家の前での立ち話と言っても、迷惑がる人もいないような田舎だ。祭礼を控えてどこか浮かれながらも長閑な日常の中、ほんの小さな幸せのために彼女らは立ち止まり、話し続ける。
これがまた別の日だったら違っただろう。娘は叔母への感謝はもちろん感じているが、それでも長いお喋りにつき合わされるのが嫌でいつもは作業が終わるとさっさと少し離れた自分の家へと帰宅していたのだ。あるいは祭の前でなければ、そもそも用事もなくこの叔母の家を訪れることはなかった。
贈り物が完成して、愛しい相手の驚く顔を想像しただけで、娘の胸に喜びが走る。目の前に迫った祭の日を心待ちにしながら、その瞬間を思い浮かべる娘はつい叔母のもとに長居をし……
それを、後悔すらできないようになる。
「おや、雨かい?」
ぽつ、と地面を打ったその一滴に、初めに叔母が気づいてふくよかな顔の中の丸い目をぱちくりとさせた。娘もその声に驚いて彼女の視線の先を辿り、けれど前触れもなく雨が降る天気でもなかったと空を仰いで、愕然とした。
「そ、空が……」
震える娘の声に、叔母も同じように天上を仰ぐ。そして娘と同じものを認めて、もとから丸い目をさらに丸くした。その中には驚愕と恐怖の色がある。
「まさか、もう《紅雨(こうう)》が始まるのかい!?」
それは、絶望的な叫びだった。紅の雨はその通り、赤く染まった空から降る血の雨。それに触れる事は、この世でもっとも凄惨な死を迎えることを意味する。
彼女たちの視線の先で、夕刻でも夜明けでもないのに空が灰色の雲を引き連れた紅色に染まっている。これまで気づかなかったのは、雲が多少忍び寄っても、それが太陽を隠す事がなかったからだ。降り注ぐ光の優しさは変わらないのに、ただ不気味な色をした雲だけが異常な空と共に音もなく忍び寄っている。
そこでようやく彼女たちは、さきほど地に注いだ最初の一滴が赤色をしていたことに気づいた。自らの身体に触れたわけでもない雨の一滴が簡単に視認できたのは、それが透明な水ではなく、赤い、血だったからだ。
そして気づいた頃にはもう遅い。恐ろしい事態に自らが直面した現実に対処の方法などなんら見出せないまま、降ってくる赤い血の雨を受けるしかない。
「嫌……」
娘は全身を小刻みに震わせて呟いた。
「嫌…、あたし死にたくないぃい!!」
それをかわぎりとするかのように、雨はついに天上の雲から零れ落ち、地上を連なって穿ち始めた。街のあちこちで、娘と同じように人々が悲鳴をあげる。
「いやぁあああああ!!」
「うわぁああああ!!」
絶叫と共に、赤い雨に触れた人々が体中を爛れさせ焼かれながら全身から血を流し朽ちていく。酸でもあり炎でもあり鉄の刃でもあるような紅の雨に打たれた人々に必ず待ち受けるのは絶望の死。娘と一緒に絶叫しようとした叔母もまもなく雨を受けて悶え苦しみながら死んでいった。
「どうして……」
激しい苦痛と絶望の中、事切れる寸前の娘が呆然と呟く。呪われた雨に触れたせいでその顔は爛れ皮膚が剥がれて血みどろになっている。彼女の恋人が愛してくれた瞳も、いまや見る影もない。
撒き散らされた大量の血。ある者は業火に呑まれたように、ある者は全身に強酸を浴びせられたかのように例外なく皆無惨な死に様である。建物や自然も例外ではなく、血の雨に降られた一体はどこもかしこもがどす黒く変色し始めた赤に染まっていた。
「どうして……」
自らの作り上げた贈り物さえも、相手に渡してその笑顔を見る前にぼろぼろの布きれとなって地に打ち捨てられている。
「どうして……」
最後までこの悲惨な死の答を得られないまま、そうして娘は赤い雨に全身を打たれながら絶命した。
◆◆◆◆◆
「情報が入ったよ」
忌々しい女占い師のもとに通うのは彼の日課となっている。ジェットは顔を出した瞬間にそう言われて、思わず扉にかけた手を止めた。
ここはシュルト大陸エヴェルシード王国の辺境にある小さな町の、さびれた占い小屋である。ジェット自身は蒼い髪と橙色の瞳を持つ典型的なエヴェルシード人であり、今年三十二歳にもなる男だが、中にいるこの小屋の主たる女占い師は違った。黒髪に黒い瞳というこの国には滅多にいないはずの容姿をした女は、ジェットとはもう二十年以上の付き合いになる。しかし付き合った年数がその二人の友好関係を示すというのは大間違いであり、この二人は決して仲が良くない。
つんけんした態度はいつものことだが、嫌味ですらない先程の台詞はいつもとは勝手が違う。出会いばなの一言に反応に戸惑っていると、顔馴染みの女占い師は薄暗い部屋の奥から、明らかに苛々した口調で言葉を足した。
「だから、お前さんの求める《夢遊病者(ノクタンビュール)》に関する情報が入ったんだよ」
「何!?」
ジェットは驚きのあまり、ずかずかと無遠慮に占い小屋に入りこんだ。もともとこの女相手に遠慮などする間柄ではないが、いつにも増してお互い態度が悪い。
「見つかったのか! 誰だ!? どこの国にいる!?」
「騒がしい。そう喚かなくったって、今教えてやるよ。そう……あんたがこの二十年待ち続けた相手は、バロック大陸アストラスト国にいるようだ」
占い師と言うだけあって、目の前の黒檀の机の上に置いた水晶球を覗き込みながらそう告げる女の言葉を、ジェットは鸚鵡返しに呟いた。
「アストラスト」
「ああ。それに、相手の容姿の特徴は……」
続く女の言葉を、一字一句逃さぬとでも言うように真剣に聞き取り、覚えこむ。
いかにも剣士然とした髪の長い男は、腰に佩いた剣の柄にそっと手をかけて表情を険しくした。女占い師の語る声を聞きながら、その眼光が鋭い色を帯びる。
やっと、やっとだ。やっとこれで約束を果たせる。ジェットは胸中でそう考えた。
「で、どうするんだい? 行くのか? バロック大陸に」
「ああ。もちろんだ」
「ふうん。本当に世界に対して喧嘩を売る気なのか。まぁ、ワタシみたいなはぐれ者は別にいいけどね。楽な道じゃないよ」
「覚悟なんざとっくにできてる」
「本当かねぇ?」
美しい女占い師は、あまり若さを感じさせない口調と底の知れない瞳でジェットに対しからかいの言葉を吐いた。一瞬ムッとした彼だが、すぐに今はこんな女にかかずらっている場合ではないと思い直す。
「俺はすぐにアストラストに向かう。じゃあな。悪かったな。これまで二十年」
「って言うなら見料払えと言いたいところだけど、まぁ、お前さんに今更そんなこと言っても仕方ないか。朗報を期待して待ってるよ。今度こそ頑張りな」
女の言葉に、ジェットは小屋を出て行く間際、いっそう眼光をきつくして振り返った。それでもただ、睨みつける以上の事はせずにあっさりと扉をくぐる。バタン、と小さな占い小屋が倒れそうなほど乱暴に立ち去った男のいかつい背中を瞼の裏に描きながら、女は深く溜め息をついた。
「さぁて、やれやれ……世界はこれから、どうなることかねぇ?」
その呆れたような、嘆くような、それでいて傍観者じみた乾いた呟きは他に聞く者のない小屋の中で、反響して消えた。