第11章 Miserere 02
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「やはりここでしたか」
子どものように木に登り高いところから黎明の城下町の光景を眺めていたシェリダンは、足下からかけられた声に視線を落とした。
「リチャード」
昔と同じ従者のお仕着せを身につけたリチャードが、穏やかな表情を浮かべてこちらを見上げている。
「シェリダン様、お好きですよねこの場所。エヴェルシード王城の風景は昔から変わっていませんから、きっとここにいると思いました」
「……やはり私を見つけるのは、いつもお前なんだな。リチャード」
樹齢何千年という大木は、大人の男の体重程度ではびくともしない。靴を履いたまま身軽にシェリダンの腰かける枝のすぐ近くまで登ってきたリチャードは、主と同じように視線を城下町へ向けた。
城の近くの森の、入り口付近にある大木の上。頂上とまでは行かないが、木のかなり高い部分にまで登っている。そこから眺める景色は素晴らしく、王都の風景が一望できる見晴らしの良さだ。
当代のエヴェルシード王子たちは二人とも国外へ出ていることが多く、こんな場所とは縁遠いだろう。シェリダンが生きている間、実質一年にも満たない長さしか付き合いのなかったロゼウスは、その頃シェリダンが国王として多忙だったこともあり、気分転換にここに来る癖を知らないはずだ。
結局身内の中でも、シェリダンと最も付き合いが長いのはこのリチャードなのだ。それだけは、彼らより百歳近く年上のハデスも、現皇帝であるロゼウスも敵わない。
「エヴェルシードは変わったな。ここから眺める景色だけなら一見大きな変化はないように見える。だが、人々の活気が違う」
「街へ出られたのですか」
昨日のゼファードとの決闘騒ぎの後、シェリダンはしばらく城から姿を消していた。
彼の腕前なら生半な相手に後れをとるはずもなく、自棄になって暴れるような柄でもない。皇帝であるロゼウスや魔術師であるハデスはその気になればいつでもその足跡を追うこともできるということで、彼らは蘇った王をしばしの間一人にさせていた。
その間にどうやらシェリダンは街に出て、四千年の歳月が彼の知る故郷をどのように変えてしまったのかを観察していたらしい。
「大きな建物はそう変わらないように見えたが、それでもやはり王都の規模は拡大して、頑丈な建築物が増えていたな。以前より治安もよく、下町を女子供が怯えながら歩く様子が少なかった」
シェリダンが見に行った場所の一つに、かつて彼の叔父が経営していた『炎の鳥と紅い花亭』という酒場がある。
だが、そこにはもう何もなかった。その場所にはまた別の建物が存在していたが、あの店の名残のようなものはどこにもなかった。母方の叔父の血脈は、この四千年の間に絶えたということだろう。
「妙な感じだ。死んでいた、と継続を語るのも変な言葉だが、私はこの四千年間死んでいた。だから私にとっては、今ここにいることは四千年前の日々の続きなんだ。なのに私が死ぬまでの間くらいはずっと存在するだろうと思っていたものの何もかもがすでに失われ消えている」
知っているはずの知らない街並み。記憶通りの場所に存在する見覚えのない建物。面影もない人々。街を彩る空気でさえ違う。
今のこの国は、シェリダンの知るエヴェルシードではない。
「お寂しいのですか?」
「そうだろうな。くだらない感傷とはいえ、虚しさを感じるのは止められない」
昔と少しだけ感触の違う木の幹に頭を預けてもたれかかる。限られた時間しかここにこうしていられないとわかっているのに、誰かと四千年の空白を埋めるように途切れない話を続けるよりも、一人でその変化を体感しに行くことをシェリダンは選んだ。
「突然目覚めたら四千年後の世界で、自分が知っている人間も私たちの他にはおらず、かつて住んでいた城はもう子孫と言っても実感のできないほど未来の人物のものとなっていて……シェリダン様がそう感じられるのは当然のことですよ」
諌めるでも慰めるでもなくただシェリダンの心情に寄り添おうとするように、リチャードは穏やかに言葉を紡ぐ。シェリダンを唯一絶対の主君と崇拝するリチャードは、基本的に彼を叱るということをしない。その代わりにシェリダンが塞ぎこんだ際には、ただただその痛みを癒すように心からの言葉を紡ぐのでシェリダンにとってもリチャードは誰よりも信用できた。
そして今のリチャードは、シェリダンだけでなくロゼウスの部下でもある。
「この四千年間、ロゼウス様は大変努力しておいででした。シェリダン様の命を奪って皇帝の座に着いたことを無駄にしないために、この世界を良くするために、あの方なりに必死でした」
「あいつは巷では殺戮皇帝などと呼ばれているらしいな」
「ええ。苦渋の末の決断でも、表面上は何も感じていないかのように傲然と振る舞いますから。あの方も不器用な方です。陛下を失ってからはますます、自分の気持ちを言葉にするのが苦手となったようです。それにもともと長命な吸血鬼一族の上に皇帝として人より長い寿命を与えられているのは確実でしたから、多少迂遠でも確実な方法で世界の変革を選んだせいで、あの方の真意に気づける者は滅多におりません」
その数少ない真意に気づけた人間の一人が皇帝に興味を持ちその業績を調べた歴史学者ルルティスなのだが、今は関係のない話。
リチャードは穏やかな表情を崩さないままに続ける。
「シェリダン様の流儀とは正反対であるロゼウス様の治世が素晴らしいと認めることは、シェリダン様にとってはこの世界に自分の居場所がないのだと自覚することでしかないのでしょう。ですが、あの方はシェリダン様の意志も確かに尊重しておりました。即位を巡る反逆戦争の直後、この世界を支える役割の一端を担ったカミラ女王の治世の一部に、それは反映されています。カミラ女王が正式に発布した法令のいくつかは、シェリダン様がお考えになったものです」
「私が……」
「ええ」
シェリダンが死んだ後も、彼の意志はこの世界に残った。それらがカミラや他の面々を支え、崩壊しかけたエヴェルシードを支えるのに一役買ったという。
そして何より、シェリダン=エヴェルシードは彼の血をこの世界に残した。その血脈からついにフェルザード=エヴェルシードという完璧な次代皇帝が生まれた。シェリダン自身はそれを知らずとも。
「シェリダン様、どうして人は死ぬんでしょうね」
「……いきなり何を言い出すんだ、リチャード」
何故人は死ぬのか。そんなことを聞かれてもシェリダンに答えられるはずもない。
「人は不老不死ではない」
「ええ。そうです。でも限りなく不老不死に近い生き物はいますね。今の皇帝ロゼウスと、その臣下となった私たち。永遠にも等しいこの四千年間を生きた私たちは、何度も何度も親しい人の死を見送ってきました。それはカミラ女王やロザリー女王といったシェリダン様も知る人々であったり、その後に私たちが出会った人々でもある。けれどシェリダン様、どれだけ生きても私たちは、人が生きて死ぬことを当たり前だと納得することはできませんした」
生まれたからには、いつか死ぬ。それが世の理。それはわかっている。
けれど理解していることと、納得することは別なのだ。
四千年の時を過ごし、幾度となく出会いと別れを繰り返してきた今でもわからない。
どうして死んでしまうの。――私を、私たちを遺して。
「それでも私は、こうしてまた一度シェリダン様にお目見えすることが叶い、嬉しい。そのためだけに、四千年の時を何人も何十人も何百人も、親しい人々の死を見送ってきた甲斐があります」
東の空が白みはじめ、世界が薄紫に染められていく。微睡を揺り起こすような淡い光が、藍色の闇を少しずつ、確かに切り裂いて。
「けれど中には、別れを惜しむばかりに、出会いを嘆く方もいらっしゃるようですね。出会いがあったからこそ、喪うことを惜しむほどの執着が存在するというのに」
何度朝を呪っても、時を止めることも巻き戻すこともできない。
「……もうこの世界に、本当に私の居場所はないのだな」
「シェリダン様?」
くすっと微笑みながら、過去の王はかつての従者の顔を見つめて言った。
「今まで誰よりも私に近かったお前も、今はもうロゼウスの従者。それがよくわかった」
かつてのリチャードなら強いて積極的にロゼウスを擁護する発言や、彼があえて隠した言葉を代弁などしなかっただろう。それをよくわかっているのは、ある意味ではリチャード自身よりも、彼をよく知っているシェリダンの方だった。
リチャードにとって、ロゼウスは現在の主君であると同時に、誰よりも尊敬し崇拝していたシェリダンの仇。
けれどそうした遺恨を抱えながらも、彼らはこの四千年間、主従として生きてきたのだ。
リチャードがロゼウスにただのシェリダンの付属物以上の関心を持って生きてきたことが、先の一言でよくわかった。
「なんによせ、お前たちが楽しそうで良かったよ」
四千年前のあの時、カミラに玉座を押し付けてできる限りの憂いは断つようにしたとはいえ、リチャードたちを含めた多くのものを遺して逝くことに不安がなかったわけではない。だが、どうやらそれは杞憂だったようだ。彼らがあえて口にしない名の中には痛ましい結末を選んだ者も少ないわけではないようだが、それでも。
「――私は、幸せだ」
◆◆◆◆◆
その頃、ゼファードはようやくのことで捕まえたハデスと睨み合っていた。
「もう逃がさないからな」
「ちょ、この体勢でその台詞は誤解を招くと思うよ!」
「ここには俺たち以外誰もいないだろ。ったく、さんざん手こずらせやがって」
昨日の決闘騒ぎから半日ほど、どこにどう隠れたものか城内を逃げ回っていたらしいハデスを、ゼファードは手当たり次第に探すと言う純粋に運動量がものをいう作戦で見つけ出した。いくらなんでもこの広い城の中でありえないとハデスなどは思うが、そもそもエヴェルシードに常識など通用しない。
ちなみにこの時点で決闘騒ぎからこちらゼファードは一睡もしていない状態なのだが、まったく堪えていないらしい。
「ああもう、なんで見つかるんだよ――君より、僕の方がずっとこの城に詳しいのに」
「お前……」
ゼファードは顔を顰めた。
「アドニス、お前はやっぱり、あの“ハデス”なんだな? ロゼウスたちと同じく四千年の時を生きる大魔術師」
「そんな風に言われると照れるね」
「ふざけてないで真面目に答えろ――お前は、ずっと俺を騙してたのか? 俺に近づいてきたのは、ロゼウスの命令か何かだったのか?」
アドニスが“あの”ハデスだと知らされていた時からゼファードの心を支配するのはその疑問だった。
大魔術師、冥府の王と呼ばれるハデス卿。その名はロゼウスたちからも聞いている。シェリダン=エヴェルシードの関係者として。
ただでさえ兄のフェルザードが皇帝の愛人で収まる人間ではなく、次期皇帝そのものだと知らされて混乱しているところにシェリダン=エヴェルシードの復活騒ぎとその表裏であるルルティス=ランシェットの不在。加えてアドニスの正体の露見。
もはやゼファードは、何を信じていいのかわからなかった。
シェリダンがどういう人物かはあの決闘とその後のロゼウスとの対話でなんとなくわかったが、それでも彼に対する根本的な不信と反発は根深い。
そしてアドニスがハデスだということは――彼はシェリダンの関係者。
この四千年間、薔薇の皇帝の心を縛り続けた男。ローラやエチエンヌやリチャードが、あっさりとロゼウスを見捨ててその足元に跪くような男。
そしてハデスという名前の魔術師は、これまでゼファードの中では彼らと同類のシェリダン信者でしかなかった。それが自分の友人、勇者としての相棒でもあるアドニスと同一人物などとは、考えたこともなかった。
「答えろよ!」
強気な口調とは裏腹に、ゼファードの目はすでに泣きそうに潤んでいた。両手を壁につけてその間にハデスを挟み込むような形で拘束しているのに、自分の方がどこかに閉じ込められているかのように涙ぐむ。
「僕は……」
記憶の中からゼファードと出会った経緯をゆっくりと思い返すし、ハデスは告げる。
「僕が、君と出会ったのは偶然だ。そこには何の作為も、ロゼウスの指図もない」
「お前が、髪と目の色を変えてシルヴァーニ人の振りをしていたのは? あれは何の作為なんだよ」
「……ゼファードにはわからないかもしれない」
「何が」
「黒の末裔という存在はね、世界中の憎悪の的なんだよ。ロゼウスが帝国臣民の意識を変えたここ数百年前くらいで大分良くなったけれど」
「え――だって、でも、今でも」
ゼファードが戸惑って口ごもる。
彼の目から見れば、黒の末裔はいまだに他民族から差別され続けている。そしてそれでも、姿を変えて誤魔化しを入れるほどに身の危険を感じているほどのものではないと思っている。
二人は同時にロゼウスとシェリダンの対立を思い出した。シェリダンには嘲笑われたが、ロゼウスは確かに、この世界を以前よりも、誰にとっても良い方向に変えていった。
「そうだね。差別はなくならない。そして昔は、あんなものの比ではなかった。姿を変えているのは、そのただの用心で習慣だ」
それでも黒の末裔への差別がなくならないのは、あの薔薇の皇帝の心に一つのしこりが残っているためか。七千年前の帝国の成立をかけた戦いは、そもそもが黒の末裔とその反乱軍との戦闘を発端としていた。ローゼンティアとエヴェルシード、そして黒の末裔ことゼルアータの確執は根深い。
だが、ロゼウスとハデスの確執に関しては、それが直接の原因ということでもない。
ロゼウスがハデスを嫌うのは――かつてハデスが、シェリダンを裏切ったからだ。
「僕はね、その昔に友人を裏切ったんだよ。当時の皇帝であった姉さんの愛玩動物でしかなかった僕の、たった一人の友人を」