第2章 神の刃は黄昏に砥がれる
5.朱に交われば赤くなる
025
山奥に倒壊音が響く。根元からへし折られた大木が周囲の木々や茂みを巻き込みながら倒れ、その下から二つの人影が飛び出してきた。
一つは白髪に藍色の瞳をした成人男性で、もう一つは淡い白金髪に金の瞳をした十にも満たない少年だ。
二つの人影はぶつかっては離れ、くるくると場所を入れ替えながら戦闘を続ける。
傍目には成人男性が年端もいかぬ子どもを襲っているようにしか見えないが、その力量は、ほぼ互角と言っていい。
「あらあら。鵠様も蚕も、さすがですわねー」
一人せっせと紙に文字を書き霊符づくりに励んでいた朱莉は、大木をへし折って地形まで変えながら戦闘訓練をする鵠と蚕をのんびりと見守っていた。
「さて、こちらの二人は……と」
視線をぐるりと動かすと、また別の戦いが繰り広げられていた。
「ほらほらどうした坊や! もっと本気でかかって来いよ! あの時みたいにさ!」
赤毛の青年に立ち向かう、濃紫の髪に緋色の瞳を持つ十代半ばの少年。桃浪と神刃だ。こちらの二人は鵠たちと違い、二人とも手に武器を握っている。
「何故、こんな奴と……!」
神刃は悔しげに顔を歪めながらも、桃浪との手合わせは良い鍛錬になるらしく、全力で攻撃を仕掛けている。
今は基本の剣技の上達を狙っているらしく、お互いに刀と小太刀を打ち合わせての一対一だ。
桜魔である桃浪は妖力、退魔師である神刃は霊力で得物を強化しているため、武器選択による不利はあまりない。勝負を決めるのは、純粋に力量のみであった。
しかし、桃浪はそちらも一流だ。
「これじゃ甘いぜ!」
「くっ」
素直に斬りかかっていく神刃は、彼の腕前ではまだまだ桃浪に遊ばれるようだ。
「……でもかなり強くなりましたわね」
肉体を鍛えても反映されない桜人になってしまったため、鍛錬にほとんど意味をもたない朱莉はせっせと霊符づくりに励む。
蚕や桃浪は桜魔ながら戦闘の技術を磨いて更に強くなると言うが、朱莉にはそのやり方はあまり向かない。男連中に交じるよりも、今は道具としもべの数で支援に回り、個人戦闘力の向上は陰で地道に続けることとする。
それでも彼らは日々強くなり、退魔師集団としての腕を上げている。
もともと神刃と朱莉の二人で行っていた活動に神刃が鵠を引きこみ、更にひょんなことから、桜魔でありながら桜魔王を倒す目的を持つ蚕と桃浪が加わった。
桃浪の目的は桜魔王に殺された養い親の仇討ちだが、蚕にいたっては彼自身が過去の記憶をあまりもたないため、何故桜魔王を倒したいのかもわからない謎の少年だ。
それでも今、五人は目的のために一丸となって動いている。
総ては、桜魔王を倒すために。
◆◆◆◆◆
夕暮れの時間を、黄昏という。
すれ違う相手の顔もわからぬ「誰そ彼」が変化したもので、これに対し明け方は「彼は誰」時と呼ぶ。その一方、夕暮れはこうも呼ばれることがある。
逢魔が時。
しかし現在、この緋色の大陸において薄闇の帳降りる黄昏時は、こう呼ばれる。
桜魔が刻、と。
桜の樹の魔力と、地上に溢れる瘴気、そして人間の憎悪や邪悪な思念。そのようなものが結びついて凝り、地中から生まれた妖魔、その名を桜魔という。
桜魔の被害は年々広がり、桜魔王と呼ばれる存在が出現したことから、ついに人類は存亡の危機に瀕することとなった。
桜魔が桜の樹の魔力を核として生まれるように両者には相関関係があるのか、桜魔の勢力が増すたびに桜の季節は長くなり、今では緋色の大陸では、一年中桜の咲かぬ日はない。
度々桜魔の襲撃に遭う人類は、滅びの運命を目の前にしながら、細々と生を繋いでいる。
だが、僅かながら希望もあった。人類の中には稀に桜魔に対抗できる能力者が生まれるのだ。
その能力者を、退魔師と言った。
人間はその身一つで桜魔と戦うにはあまりに非力だ。しかし退魔師ならば、霊力を用いて彼らの妖力に対抗できる。
退魔師協会に登録する正規退魔師、そして協会に登録していない非正規退魔師たちは、依頼を受けて桜魔を退治し謝礼を受け取って生活している。
しかし退魔師の数はあまりに少なく、その能力の強さも個人差が激しかった。各国の王も疲弊した国を支えきれず政府は形骸と化し、退魔師を集団で率いて桜魔に対抗するよう音頭をとれる存在がいない。
そのため、桜魔王の存在を掲げて襲撃を繰り返す桜魔に対抗できるだけの勢力が、現在この大陸には存在していなかった。
失われた平穏な時代を取り戻すため、人類は桜魔王を倒す勇者の登場を希求していた。
◆◆◆◆◆
「そろそろ、朱櫻国へ戻ろうと思うのですが」
依頼がないため一日を山奥での鍛錬に費やした鵠たちは、夕食の席で朱莉のその言葉を聞いた。
「朱櫻国?」
「戻る?」
朱櫻はこの花栄国の隣国だ。行き来するのにそれ程大変な場所ではない。
あくまでも地理的な問題においては、だが。
「朱莉は朱櫻国の人間だったのか?」
食べなくても生きていけるとのたまいながらも、普通に皆と同じように食事をしている蚕が無邪気な子どものように首を傾げて尋ねて来る。
「ええ。朱櫻国の嶺家という家に世話になっていました。今は桜人となったので戸籍上は死亡扱い……のはずなのですが、元々退魔師として活動していたので特に変わらず生活させてもらっていますね」
「退魔師程、第三者から見て実情不明の職業もないからな」
長期に家を空けても真夜中に外出しても怪しい武器を持ちこんでも「退魔師だから」の一言で事情説明が済む。普通の家庭はともかく、朱莉が貴族の令嬢として暮らしていた頃から家族にもそういう生活について説明していたのなら、それで納得が――行くわけがない。
「お嬢が桜人だということまで、家族は知っているのか?」
娘が自分の意志で人でなくなって納得する身内などいるはずがない。
「今の当主はお兄様ですが、元々は従兄弟なんです。私の実の家族が桜魔に殺されたことも、それで退魔師になったことも御存知です。私が桜人になることを決意した頃は朱櫻国そのものも国王陛下が桜魔対策に新しい方針を打ち出したりと、何かと騒がしかったもので」
「ああ……朱櫻国は、国王が退魔師協会と連携して桜魔への対抗に力を入れている国だったな」
朱櫻国。
その国は現在、大陸で最も桜魔に対抗する力を集めている国。しかし同時に、近隣諸国からは桜魔の大量発生の原因として忌み嫌われている国でもある。
今の国王の父、先代朱櫻王・緋閃は、周辺諸国に戦乱を広げ大陸を嘆きの炎で包み込んだ。その嘆きが桜魔と言う新たな火種となり、現在緋色の大陸が人類滅亡の危機に瀕している原因である。
「朱櫻の国王が代替わりしてから今三年だったか……父親の失態を取り戻そうと頑張ってはいるんだろうが、あんまり芳しい成果は得られていないようだな」
鵠が言うと、何故か朱櫻出身の二人が意味深に目を見交わした。
「うふふふ。そうかしら。ねぇ、神刃様」
「……この話題で俺に振るんですか、朱莉様……」
楽しそうな朱莉と違い、神刃は複雑な表情をしている。鵠はその表情に不審を感じた。
神刃の顔の中には朱莉の態度に呆れている様子の他に、若干の申し訳なさが含まれている気がする。申し訳なさ。それは、誰に対するものだ?
鵠の疑問が追求される前に、横から興味津々といった顔つきの蚕が口を挟んだ。
「朱櫻国はそれでも桜魔対策について一定の効果は発揮しているな。私も興味がある」
「お前さんの目的からすればそうだろうが、まさか桜魔が退魔師協会の門を一人で直接叩くわけにはいかないだろうからなぁ」
「その通り」
こちらはあまり興味のない顔で話を聞いていた桃浪が、蚕の事情とその後の選択を揶揄するように笑う。
一人で退魔師協会の門を叩くことができないからこそ、蚕や、同じく桜魔王を倒す目的を持った桜魔の桃浪は、鵠たちと知り合ったことをこれ幸いと押しかけて来たのだ。
「退魔師協会の目標は退魔師の数を増やして桜魔王に対抗するってところだろ? そんなに上手く行くかな?」
「実際にそれで桜魔王を倒せるかはともかく、桜魔の襲撃被害に対する効果は出ているな。徒党を組んだ雑魚共に対しては弱い退魔師を組ませて当て、実力者には高位桜魔と当たらせる」
「それに、大陸中に桜魔被害を広げた緋閃王の悪名を祓い、朱櫻国の立場を取り戻すためには、積極的に桜魔から大陸を救うために音頭をとる必要があったのです」
朱莉は先程とは一転して憂いを帯びた瞳で語る。朱櫻国民や朱櫻国の退魔師に対する心象はまだしも、朱櫻国王緋閃に対する各国の印象はまだ悪い。
ただ、この世界で最も緋閃王を嫌っているのは他でもないその朱櫻国民であろう。
そして、今の国王は父親の尻拭いをすることが生まれた時から決定されている、ある意味可哀想な存在とも言える。
一歩間違えれば父親の代わりに憎悪を向けられそうなものだが、現在十三歳、即位はそれよりも幼かった少年王が真っ先に掲げた目標が桜魔の殲滅により大陸に平和を取り戻すことであったために、周囲は何も言えなくなった。
そんなわけで朱櫻国は、あらゆる意味で退魔師と桜魔の戦いの中心部なのだ。
「ここのところ桜魔の襲撃が少なくて依頼もないですし、皆様も一緒に行きましょうよ」
朱莉はまるで観光にでも誘うような口調で、いつも通りに内情は酷いことを平然と口にした。
「望まなくても桜魔の襲撃が降ってくるような、大陸最悪の戦場へ」