第2章 神の刃は黄昏に砥がれる
6.朱き桜赤き川に流れ
031
朔は日向でのんびりと昼寝を楽しんでいた。春の陽気が心地よい。
風が吹く度にひらひらと桜の白い花びらが散って、朔の上にも降りかかる。
一体誰が今の彼を見て、この大陸を恐怖と絶望に陥れている桜魔王などと気づくだろうか。
むしろ彼が桜魔の王としての責務を放棄しがちなせいで、人間たちはここ数年、朱櫻国王を中心に反桜魔の対策を取り抗戦への気運を高めているらしい。
「陛下」
いつも通り側近の一人、早花が彼を呼びに来た。
「なんだよ。今いいところだったのに」
心地良い夢を中断されて、朔は不機嫌な顔で一の配下を睨んだ。
元来真面目な性質とはいえ、いい加減桜魔王のこの性格にも慣れた早花は、はいはいと幼子にするように文句をいなす。
「お昼寝の続きはまた後でなさってください。御来客です」
「またかよ。今度は誰だ? 華節みたいな奴はもうこっちも懲り懲りなんだが」
先日と似たような展開になって、朔は盛大に溜息を吐き出した。
朔に代わる桜魔王の立場を望み、彼らに近づいてきた高位桜魔、華節。彼女は辻斬り事件を起こすことによって有力な退魔師を優先的に排除し、一気に花栄国に攻め込む計画を立てていた。
しかしその思惑は、ある退魔師の集団に阻まれた。
鵠と呼ばれていた、人界で最強の名を冠している退魔師。
確かにあの男は強かった。何せあの華節を軽々倒すくらいだ。朔はこれ以上華節が「花栄国の退魔師」を刺激しないように彼女を処分しに出て行っただけで鵠と戦闘はしていないのだが、それでも他の退魔師とは段違いの実力は感じ取れた。
退魔師協会の本拠地は朱櫻国とされているが、花栄にも腕利きの退魔師は多い。
あの国には昔から退魔・除霊の仕事を請け負っていた家系「天望家」が存在するからだ。
例え鵠が乗り出さずとも、華節の辻斬り計画はきっと半ばで頓挫していたことだろう。彼女の犯行が上手く行っていたのは、天望家の現当主がその時朱櫻国に呼ばれて赴いていたからだ。
「今度はどんな奴らだ?」
「それが……」
華節の時ともまた違い、早花が顔を困惑するように歪める。朔はおや、と思った。確かに真面目過ぎて年長者に対しては押しが弱い早花だが、こんな顔をするのも珍しい。
「どうした? そんなに『困った』奴らなのか?」
暗に殺してしまおうかと尋ねる朔に対し、早花は首を横に振る。
「いえ、華節のような下心はないようです。彼らは、陛下が桜魔王として相応しい態度をとるよう求めています」
「桜魔王として、ねぇ……」
朔の脳裏に、華節より更に面倒という言葉が過ぎった。
「実は今回の客人方は、夬の旧知だそうなんです。なんでも夬の師匠にあたる人物だとか」
夬とは、早花と同じく桜魔王の側近を務める桜魔の一人だ。外見は朔とほとんど変わらぬ年齢の青年である。
「ほぉ。一人か?」
「いいえ。私程の見た目の女と、少年を連れています」
桜魔の外見に関し正確な年齢は意味をなさないが、それでも青年、少年、子どもなど、人間の姿に照らし合わせた大雑把な基準は存在する。
早花と同じくらいならその女は二十代半ば、少年と呼ばれた方は十代半ば程度だろうか。
「夬の師匠と言う方は、壮年の男性です」
「まぁ、そうだろうな」
正確な年齢は意味をなさないが、それでも彼らほど人間に近い見た目の桜魔は、多少は見た目の年齢に影響される。中年の華節の養い子が、青年の桃浪であったように。
「仕方がない。ここは夬の顔を立てて会ってやるとするか」
◆◆◆◆◆
「お初にお目にかかります、桜魔王朔陛下」
男は、載陽(さいよう)と名乗った。
灰色の髪にきつい目つき。厳しい教師か軍の上官のような風格を持つ男性だ。
朔に対しての態度も必要以上に謙ることはないが、逆に腹に一物抱えている風情ではない。恐らく自分にも他者にも厳しい性格と推察される。
その載陽が部下として連れてきたのは二人。女が一人、少年が一人。
女の方は、異様な風体だった。
蒼い髪に紅い瞳を持つ夢見(ゆめみ)と言う名の女はその名の通り、まるで常に夢を見ているかのようにきゃらきゃらと笑っている。狂気に侵されている者が多い桜魔の中でも、高位桜魔でこういった存在は珍しい。
「うふふふふふふ」
意味のない笑い声が響き、先程から相手をしていたらしき夬がすでにげんなりとしている。
もう一人の少年は、普通だった。一言でそう言ってしまうのは難だが、夢見と比べてしまえば随分とまともである。
少年の名は祓(はらえ)というらしい。見た目の年齢は人間で言えば十五、六と言ったところか。淡い茶の髪に紫の瞳だが、彼を見て朔も早花も、何となく先日戦った退魔師の少年を思い出した。
如何にも真面目そうなその様子は、厳格な載陽の弟子と言われれば誰もが納得できるものである。
彼よりも、飄々とした夬や半分狂っているような夢見が載陽の弟子や部下であることの方が信じがたい。
「それで、何の用だ?」
一頻り挨拶を述べた載陽たち三人に、朔はいつも通り直截に話を聞く。
王の威厳らしきものも何もないその態度に載陽は早速顔を顰めた。そんなことでは、彼が統べる無数の桜魔たちに示しがつかないと言いたげに。
だがそもそも朔は、望んで桜魔王になったわけではない。生まれる前から押し付けられていた運命に抗うたった一つの術が、こうしてのんびりと暮らすことなのだ。そこに横槍を入れてきた闖入者に対し王らしく振る舞ってやる義理など欠片もない。
早花に起こされて途切れてしまった夢を想う。
あれは過去の記憶か、自身が母を恋うあまりに作り出した幻覚なのか。
女の優しい手に撫でられていた子どもの頃の夢。
でももう、そんな日々は手に入るはずもない。
一体桜魔は何のために生まれて来るのか。そして何のためにこんな風に生きているのか。
全ての桜魔を統べると言われているこの桜魔王でさえ、自らが作り出されたその訳を知らないと言うのに。
否、知らないからこそ桜魔は人に憎悪を向けるのだろう。
滅びるために生まれた彼らだからこそ、自らを生み出した怨嗟の親である人間と共に死にたいのだ。
そして載陽の望みは、もっと効率よく人間を滅ぼすことだという。
そのために桜魔王である朔の存在が必要だと。それが中身の伴わない虚しいだけの旗印だとしても。
「貴方様の存在は、我々桜魔にとっての希望なのです」
「……」
「我々の情報網では、朱櫻国が先導して桜魔を殲滅するための策を練っているところと聞きます。もはやあの国を野放しにするわけには行きません。陛下、あなたには桜魔王として、朱櫻国王と対峙する義務がある」
「対峙ってなんだよ。確かあそこの王はまだ緋閃王の後を継いだばかりの子どもだろう? 直接戦闘力はない。それに朱櫻国は退魔師協会の護りが硬い」
「だからこそです。目障りな退魔師共を殺し、朱櫻国に攻め入り今度こそ人類の希望を叩き潰せば、我々桜魔の時代がやってくるはず」
皮肉なことに退魔師協会の総本山であり、長い戦争を仕掛け国力を増していた朱櫻国しか、もはや国を挙げて桜魔に抵抗できる国はないのだ。
桜魔から見れば、朱櫻国さえ落とせばこれからの戦闘が随分楽になる。人類は希望を失い、桜魔の蹂躙に対する抵抗力をも失くす筈。
だが、それには桜魔側も相当の戦力を出す必要がある。朱櫻国王がまとめ上げた退魔師連合相手にいくら雑魚を放っても返り討ちにされるだけだ。
「俺を王として祀り上げても無意味だぞ。俺を王として崇める奴なんていない。この二人が物好きなだけだ」
「陛下……」
早花と夬が微妙な表情になる。彼らとて朔に立派な桜魔王になってもらいたいと思ってはいるが、彼が望まないままに王としての責務を果たせとせっつくつもりはないのだ。そんな暇があるなら自分たちだけで人間に襲撃を仕掛ける方がマシである。
しかし載陽の意見は違った。彼は桜魔王相手にすら一歩も退かない。
「それは貴方様が、そもそも王の責務を放棄しているからです。我々は王と言う名前に盲目に従うのではありません。王に相応しき行動をとるものを王と崇めるのです」
正論だ。
「……わかったよ」
これ以上駄々をこねても退かなそうな男を前に、ついに朔は折れた。やはり華節の時よりずっとやりづらい相手だ。
「で、俺は何をすればいいって」
行動の主導権は指導役として握る気の載陽を前に、朔はそれこそ不出来な弟子のように両手を上げて指示を乞うのだった。