第2章 神の刃は黄昏に砥がれる
8.花は根に鳥は故巣に
043
結局桜魔王の屋敷に足を踏み入れることなく、その庭先とも言える森の中で戦闘は始まる。
鵠は桜魔王へと飛び掛かった。顔を合わせたことは何度かあるが、こうして実際に戦闘を行うのは初めてだ。
鵠が徒手での格闘を得意とするように、桜魔王も得物を使わない型のようだった。
しかし技が肉弾戦に限られるわけではなく、隙あらば妖力で作り出した矢や刃、目晦ましの光弾などを仕掛けてくる。
蚕は載陽と、これで三度目の戦いだ。これだけ剣を交えてもまったく正体の掴めない蚕に、載陽はかなり焦れているようだった。
桃浪は再び変則的同士で夢見と、他の者たちのことを一切気にせず戦い出していた。
朱莉は祓の相手をしながら、夬を紅雅に抑えさせている。その周囲は朱莉の配下の桜魔に溢れて、一見どちらが敵か味方かも迷う様子だ。
神刃は早花に向かって行った。剣を使う早花には、同じく剣を使う神刃の方があるいは霊符使いの朱莉よりも向いているかもしれない。
鵠は周囲の状況も頭に入れながら、まずは自分の戦いに集中する。
今自分が戦っているのはこの場で一番強い相手で、この男を倒せば大陸を桜魔の脅威から解放することができる、桜魔にとって無二の王だ。余計なことを考える余裕はない。ここで桜魔王を倒す。
大陸に戦火をもたらしたのは緋閃王だが、全ての始まりはそれでもやはり桜魔王の存在だと思うのだ。
桜魔などと言う脅威がなければ、人々は緋閃が殺された時点で彼への恐れを忘れられた。火陵の死は無駄にならず大陸に平和を取り戻せた。
神刃だってただの少年として生きられただろう。
それができなかったのは、桜魔王という存在のせいである。
緋閃の行状まで彼に背負わせるのは責任転嫁かもしれないが、それを差し引いても人を殺してこの大陸を滅びの危機に陥れた妖だ。
ここで彼を倒す。
大陸に平和を取り戻す。
そして人々が再び未来を望むことができるようにするのだ。
鵠は彼に勝たねばならない。
「はっ!」
剣もなく弓もなく、ただ相手を殴り、蹴る。そこに洗練も何もない。ただ力と技のぶつかり合いだ。
仕掛けては躱され、躱しては仕掛けられの攻防を目まぐるしい速さで繰り返す。
渾身の蹴りを後方に距離をとって躱され、鵠は反射的に舌打ちした。
「さすがに強いな」
「お前もな。伊達に勇者扱いされてはいないか」
別に鵠は勇者でもなんでもないのだが、桜魔側では王を倒そうと立ち向かってくる者を勇者と呼んでいるらしい。
再び地を蹴りどちらともなく距離を詰める。
そう見せかけて鵠は咄嗟に生成した霊力の刃を放つ。
桜魔王がそれを躱したところで、できた隙に一気に飛び込んだ。
だがそんな思考は簡単に見抜かれ、あちらからも似たような攻撃がやってくる。
息を継ぐ暇もない攻防が続く。
鵠はだんだん焦りを感じ始めてきた。
桜魔王と自分の力は、単純な戦闘力ではほとんど互角らしい。
だがその分、長引けば長引くほど桜魔側が有利になる。体力や持久力と言ったものに関しては、人間ではない彼らの方が有利だからだ。
持久戦に持ち込むのはまずい。短時間で決着をつけねば。
だが、見事なまでに互角ではそれもままならない。
桜魔王の力を破るには、膠着状態に陥らないよう、もう一歩踏み込むための手が必要だ。
考える鵠だったが即座にそんな手が思いつくはずもない。そして何より、彼の思考を、攻防を、咄嗟に中断させるような出来事が起きた。
「神刃!」
鵠は桜魔王の相手を放り出して、仲間の下へと駆け出した。
◆◆◆◆◆
神刃は早花と剣を交えていた。
ここに来るまでの作戦会議で、朱莉と桃浪から提案されていたのだ。戦う相手を相性の良い相手と換えようと。
朱莉は魅了者としての能力は強力だが、身体能力は決して高い方ではない。桜人となったことで人間の少女だった頃よりは断然動けているが、その程度だ。
早花の動きは剣士のものであって、正面からやりあうのはきついのだという。
一方、前回神刃が相手をしていた祓は、近距離は小刀の二刀流、中距離での手裏剣を使い分ける。距離を取って戦えば霊符使いの朱莉とも勝負になるという。
『頼みましたわよ、神刃様』
そして確かに、神刃は納得した。剣士としての強さは桁違いだが、早花は祓よりはまだやりやすい。
「なかなかやるな」
女は冷静に言った。
「祓に負けそうになっていたから、それほどの腕ではないと思っていた」
「……」
悪かったな、雑魚で。神刃は内心で言い返す。
早花は桜魔王の側近。強さが全ての桜魔の世界でその位置にいるのであれば、並大抵の相手ではない。
「考えてみればお前の傍には、桃浪がいるんだったな。あの戦闘狂は見込みのない相手には一切構わない。お前を侮る方が愚かだったか。だが」
早花の一撃が重くなる。
急に強くなったように感じた。今までは様子見に徹していたということなのか!
元より人間とは腕力の違う桜魔。その上型の鋭さも剣の速さも、神刃とは比べ物にならない。
一方的な守勢に回るのはまずいと考えながらも、神刃はだんだん早花の剣に押されていく。反撃を仕掛ける隙はなくなり、早花の攻撃を受け止め、受け流すので精一杯だ。
このままではまずい。
「その程度の腕では私には通じない」
神刃がなんとか攻撃を上手く躱したと思ったら、それは罠だった。白刃の軌跡が煌めいて、まったく別の方向から本命の一撃がやってくる。
早花の剣は、まるで自由自在に動く生き物のようだ。
永遠にも思えるその一瞬を、蛇に呑まれる蛙のような心地で神刃は迎える――。
「神刃!」
朱い花が、目の前に散った。
ぱたぱたと軽い音を立てて、その花が――桜魔のそれと違って消えることのない血の雫が、神刃の頬にも散っていく。
「鵠さん?!」
咄嗟に二人の間に飛び込んできた鵠が、早花の攻撃から神刃を庇ったのだった。
◆◆◆◆◆
「鵠!」
「鵠様?!」
身に纏う霊力が弱まったために、鵠の負傷はすぐに他の者たちも気づいた。蚕と朱莉が名を呼ぶが、少し離れた場所にいる鵠に届いている様子はない。
「ちっ!」
蚕は目の前の敵だけでなく、桜魔王の方にも糸での攻撃を放った。今鵠を追わせるわけには行かない。
朱莉も同じ考えのようで、配下の桜魔たちの一部を朔へとけしかけていた。可愛そうなことに魅了者の支配下とされた下位桜魔たちは、彼らの王の力に抗えるはずもなく羽虫のように燃やし尽くされていく。
桃浪も状況に気づいてはいるようだが、彼は動けない。この中で一番どう動くかわからない夢見の相手を放り出すわけにはいかない。
「勇者は敗れ去ったようだな」
「いーや、まだわからんぞ。あいつは結構しぶといからな」
傷の状態をしっかり見たわけではないが、鵠の霊力はまだ消えてはいない。日々の鍛錬で、鵠の打たれ強さは蚕も知っている。
挑発してくる載陽に笑顔で返し、蚕はお返しとばかりに反撃の手を強める。
「ぐっ!」
「お前こそ、他人の心配をしている場合か? 載陽」
「貴様は、一体何者だ……!」
すでに投げかけた問いを載陽はもう一度繰り返す。
彼とのやり取りでは、記憶に欠落のある蚕もそれなりに色々な情報を得た。だがこれ以上は限界だ。他の者の手が空かない以上、早く載陽を倒して朔と早花を足止めしないと鵠が殺されてしまう。
蚕は早花にも糸を放った。攻撃としては大したことはないが、とにかく鵠と神刃の元へ行くのを邪魔してやる。
桜魔王が早花に指示を出す。負傷した鵠よりもこちらを先に仕留めるべきだと指示を出しているのが聞こえた。
これは好都合だと、わざわざ引きつけなくてもこちらに来てくれそうな二人の会話に耳を澄ませている中、突然載陽のその声は蚕の耳に飛び込んできた。
「ふん、桜魔王を倒すなどと! 貴様もはや、自分が次の桜魔王になるつもりではあるまいな!」
「え……」
その瞬間、普段は奥底に沈んでいたあらゆる情報が蚕の脳裏を駆け巡った。