花は毒姫 04

第4章 一度だけの聖女

10.始める者と終わらせる者

 あなたが愛してくれたから、愛するということも理解できた。

 ◆◆◆◆◆

 シャウラとタラゼドは睨み合う。
 二人の間にはこれまで常にシャウラの想い人であり、タラゼドの主人であるレグルスの存在があった。彼の存在抜きで二人が顔を合わせるのは初めてと言ってもよい。
 だがそれでも、やはりタラゼドの主人はレグルスで、この場の空気を支配しているのもレグルスの存在だった。
 タラゼドが何かの合図を出したようで、突然周囲の気配に交じる異変にシャウラは身を硬くする。
 何か小さな鈴にも似たものをタラゼドが振った。シャウラにとってはそれだけに見えたのだが、次の瞬間、二人の周囲を取り囲むように幾つもの気配が出現したのだ。
 そしてその気配は、人間のものではない。風のざわめきに獣の臭いと唸りが交じる。
「まさか……」
「馴染み深いでしょう。あなたは十二年経っても人が好い。わざわざ王都に出た魔獣退治に自ら乗り出すなど」
 裾野に広がるアルバリの森からエニフの丘へ、紅い目を爛々と輝かせた狼型の魔獣たちが駆け上ってくる。
 シャウラは警備隊の者たちに渡しているのと同じ魔獣避けの香りを纏っているが、この場にいる魔獣たちはすでに十分殺気立っていてほとんど役に立たない。その意志に、目の前のタラゼドが関与しているようだった。
「あなたが、この魔獣たちを操っているの? そんなことができるなんて――」
「確かに、私だけの力では難しいでしょう。だから私は方々に協力を求めました。元々はあなたというよりも、あの第二王子を排除するための方法を探して」
 《鋼竜の民(ラス・アルグル)》にしろ《霊薬の民(イクシール)》にしろ、常人より遥かに高い身体能力や特殊能力を持つ種族を普通の手段で殺害するのは難しい。暗殺者を差し向け毒殺を目論むだけでは飽き足らず、タラゼドはついに魔獣までもゼノを殺すためにこの国に持ち込んだらしい。
 否、タラゼドがと言うより、その背後のサダクビア公爵家がと言うべきであろうか。あるいはその計画に、レグルス自身も関わっているかもしれない。
 セイリオスがゼノに講釈した貴族間の勢力図などは、当然シャウラの頭の中にも入っている。彼女は素早く、この一年ほどのナヴィガトリア王都近辺で起きた事件の流れと貴族の関与を整理した。
 王都に魔獣を侵入させたということで一時は警備隊の責任者であるサダルメリク公爵のことを疑ったりもしたものだが、それはゼノのおかげで直接彼と面識を持ったことによって晴らされた。セイリオスはそういうことをする人間ではない。証拠がなくとも彼女は直感で信じる。
 だとすると、犯人は別にいるのだ。それも辣腕で知られる王都警備の責任者が一年近く追い詰めることもできないでいたような強大な相手が。
 その相手というのが、サダクビア公爵家。
「あなたたちは何を考えているの? この国を滅ぼすつもり? いいえ、そもそも魔獣なんて一体どうやって――まさか」
 自分が考え付いた突拍子もないと思える推測に、シャウラは慄いた。これが笑い話ですまずに、もしも現実だとしたら?
「アルフィルクで魔獣の製造実験が行われているという噂は本当なの? サダクビアは外交の面でアルフィルクとの協調を支持していたわね」
「……これだけの情報でそこに気づかれるとは、やはりあなたは油断ならない方だ」
 タラゼドの顔つきがこれまでよりも一層厳しくなる。
 ナヴィガトリアの近隣で主に大きな力を持つ国は二つ、一つがトゥバン帝国、もう一つがアルフィルク王国。
 トゥバンはかつて大帝国としてこの大陸中の国々を次々と併合して栄えた。今では力任せに他国を侵略するようなことはないが、その名はいまだ大陸中の勢力図で大きな意味を持っている。
 また、他国を侵略・併合した過程で多くの民族を抱えることとなったトゥバンには、特殊民族が多い。ゼノが生まれ育ったのも母方の故郷であるトゥバンのラスタバン領だ。
 一方、アルフィルクには、特殊民族が一人もいない。民族の集落を離れて隠れ住んでいる場合はわからないが、少なくとも公式に存在する集落や庇護されている者はいないはずだ。
 今のアルフィルク王は野心に溢れる若き王で、大陸の平和を維持するために大帝国トゥバンに頭を抑えつけられることをよしとしないらしい。
 そのアルフィルクには、かねてよりある一つの噂が存在した。
 かの国は帝国に対抗する戦力を得るための方法として、魔獣を『製造』しているらしいと。
 実際にそんなことができるものだとは、魔獣製造の必要がないナヴィガトリアでは考えられもしなかった。現国王はシャウラの両親と親しかったし、特殊民族ならまだシャウラがいる。今ならばゼノもいる。特殊民族がいないという理由で焦るアルフィルクの気持ちにはなれない。
 特殊民族は元々魔獣に対抗するために造られたという種族だ。ならば特殊民族に対抗するのもまた魔獣並の力が必要となる。
 それなら魔獣を兵器のように『量産』してしまえばいいと。誰がそんなことを考えたのかは知らないが、悪夢のような妄想はすでに現実となっている。タラゼドの背後で彼を主人と仰ぐ軍団のように控えている狼型の魔獣たちがその証拠だ。
「なんて馬鹿なことを……! アルフィルクと手を組んで魔獣製造に加担するなど。そうやって無為な力に頼ることは、国の寿命を早めるわよ! あなたはそんなことのためにレグルスを王にしたかったの?!」
「時代は移り変わるものです、シャウラ様。特殊民族と魔獣の戦いに手を出さないなどという不文律は、もはや意味をなさない。先にゼノ・アルアラーフ=クルシスを王子として迎え、特殊民族に関する協定を破ったのはシェダル陛下です」
「それはゼノがクルシス公爵の息子だからでしょう! その言い分が、アルフィルクが魔獣を貸してまでサダクビア家と取引した理由なのね!」
「そのようですね。まぁ、私としてはもうどうでもいいことですが」
「あなた……」
「毒姫よ、あなたという憂いを亡くせば、ゼノなどレグルス様の敵ではない」
 まるでここでシャウラと刺し違えてもかまわないという様子で、タラゼドは告げる。
「あなたにもわかるでしょう。正当な王子ではないのに、この国にはもう自分しか国を継げる人間がいない。そうして幼い頃から自らの未来を決められていたレグルス様の苦しみが。そして王であることと、あなたと共に在ることは両立しない。あの方はあなたを一度は諦めようとした――なのに」
 男の視線は、恨みがましくシャウラを見据えた。
「今になって、あなたがあの方の目の前から去って十二年も経って、あの少年が王位継承者として現れた。だとしたらこれまでのレグルス様の血を吐くような努力と苦しみは――一体、何のためだったのです?」
「……」
「あの方は王にならなければならないのです。そうでなければ、あの方自身の心が耐え切れない。自らが王として選ばれなかった現実を受け止めて生きていけるほど、あの方は強くない」
 そう、シャウラたちは知っている。レグルスは見た目ほど、周囲が彼に望むほど完璧ではない。
 どれほど誉めそやされようが、彼だって生きた生身の人間なのだから。それを理解できるものがほとんどいなかったから、彼は人としては「強い」シャウラに惹かれた。
 けれど。
「そう思うのならば、私を殺してあの人を王にするなんていうお膳立てなんか企まずに、正々堂々とゼノと玉座を争わせればよかったじゃない! 例えその戦いに敗れても、あの人をあなたが支えてあげれば良かったじゃない!」
「――ッ!」
「人間はいくらだって挫折するわ。叶わない願いなんていくらだってあるわ。努力が報われるのは、一部の幸運な者だけよ」
 それは当たり前のことだ。世界は自分の願う通りには動かず、どんなに身分のある人間だってその身分の高さと命の価値は同じではない。人が人である以上、その役目に代わりなどいくらでもいる。
「生まれが正統じゃなかった。周囲の思惑に振り回されてころころと立場を変えられた。そんなの……誰もが味わうことじゃないの。クルシス公爵の息子でありながら王子として迎えられたゼノだってそうよ。少なくともレグルスは、それをわかっているから王になれない運命を受け入れようとしたんじゃないの!?」
 タラゼドが目を見開く。
「ふ、ふふ。ふふふふふ」
 彼も気づいたのだろう。
 レグルスが王に選ばれなかった。そのことに本当に耐えられないのは、主であるレグルスではなく、タラゼド自身だということに。
「やはり……そうなのですね。いつだってそうだ。私があの方を理解できない、あの方から頼られないと嘆く間に、あなたは簡単にあの方の本心に近づいてしまう。……私では、あの方を変えることも、支えることもできない」
 シャウラは何も言わなかった。彼女はそうは思わない。彼女にわからぬ場面で、レグルスとタラゼドが通じ合った時などいくらでもあるはずだ。
「毒姫よ、私はずっと……あの方の心の一番近くにいるあなたが嫌いだった。あなたに嫉妬していた。本当はサダクビアの思惑などどうでもいい。アルフィルクとの取引など知ったことではない。ただ――」
 ようやく零れた言葉は、初めて聞く彼の本心だった。
「私はあなたに嫉妬し、あなたが憎いからあなたを殺すのです」
「……なら、最初からそう言いなさいよ」
 だからと言って殺されてやるわけには行かないが、少なくとも王家のためだの国同士の思惑だのを盾にされるよりよほどわかりやすくて納得のできる理由だ。
「もう一度言うわ。私を簡単に殺せるとは思わないでちょうだい」
 手の中の小瓶を弄ぶ。すぐにでもその蓋を開けられるように。
 タラゼドが魔獣たちに指示を与えるよう、鈴を持って高く上げた腕を振り下ろした。戦いが始まる。
「やれ! あの忌々しい女を殺せ!」

 ◆◆◆◆◆

「アルファルド! 私の副官を知らないか?!」
「レグルス兄上? 一体どうしたのですか?」
 先日の綽綽とした態度とは打って変わって取り乱した様子で部屋を訪れた従兄弟の姿に、第一王子は目を丸くした。
「先日から様子がおかしかったんだ。今日一日姿が見えないので、馬鹿なことをしていないかと――。くそ、ここでもないか」
「馬鹿なことって、まさか私を殺すとかですか? それこそ馬鹿を言いなさい。そんなことをしてもゼノがいれば――ああ、そうか。その罪をゼノに着せるつもりだと兄上は考えているのですね」
 嫌な予感程的中するという。副官に対するレグルスの予測は当たっているだろう。だが実際にアルファルドに危害が加えられたことはない。だとしたら――。
 焦る従兄弟の様子を見ていたアルファルドの胸に、ある一つの予感が浮かぶ。
「兄上、今あなたにとって邪魔なのはもうすぐ死ぬ予定の私でも、奇行の第二王子でもない。あなたまでも玉座を放棄するという愚行に走らせようとする、その動機である存在ではないのか」
「まさか――シャウラに何かするつもりではないだろうな?!」
「たぶん。でも大丈夫です。簡単に殺されるような人ではありませんし、確か姉さんのもとには、今日はゼノが向かって――」
 滔々としゃべっていたアルファルドの声が不意に途切れる。
「ゼノがなんだ? アルファルド、お前はどこまで知って――アルファルド?」
 レグルスが一瞬目を離した隙に、第一王子は苦しげに胸を押さえて寝台の上に突っ伏していた。
「アルファルド? アルファルド、おい! お前まさか――!!」
 これまでにない大きさの発作が第一王子を襲ったのを知り、部屋を飛び出しかけていたレグルスはすぐに彼の下へ駆け寄り大声で人を呼んだ。
「すぐに医師を呼べ!! 王子殿下の容態が急変した!!」

 ◆◆◆◆◆

 ゼノとエルナトは、すぐにシャウラたちが向かったらしきエニフの丘へと駆けつけた。
 セイリオスはもう少しやることがあると言い、何か準備をしてから合流することになった。ゼノたちとて悠長に彼を待っている気はない。すぐさま行動を開始する。
 《鋼竜の民(ラス・アルグル)》のゼノと元《処刑人(ディミオス)》のエルナトは、馬車を使うよりも自分の足で人のいない屋根の上を走った方がよほど早いという非常識な人材だ。
 幸いにもタラゼドがシャウラを攫ったのはまだ日が高い時間だった。彼が思ったよりも毒薬屋の前に停まった馬車の行方を近隣住民が気にしてくれていた。この近辺に馬車でシャウラの家に乗りつける人間などゼノくらいしかいないため、気づいた者たちは皆興味本位で行方を見守っていたらしい。
 それが功を奏して、ゼノたちは恐らくタラゼドの予想以上の速さで現場に辿り着くことができた。
 シャウラの背後からとびかかろうとした魔獣の一匹を、ゼノが飛び込んで蹴り飛ばす。暮れかけた日の作り出す長い影を追うようにその身は地を滑った。
「ゼノ?!」
「エルナトに呼ばれた。で? なんだ、この魔獣たちをぶっ飛ばせばいいのか?!」
「どうして来るのよ?! あんたが今一番ここに来たらいけないのに!」
「あれ?」
 助けたはずなのに何故か怒られたゼノの背後に、唸りを上げて魔獣が迫る。驚きに一瞬隙を見せてしまったゼノの代わりに、シャウラが用意していた小瓶を投げつけた。
 牙の伸びる口に飛び込んだ小瓶が中で割れ、即死級の毒を魔獣の体内に広げる。もともと魔獣に対抗するために造られた特殊民族であるシャウラの作る毒は、魔獣に対してよく効くらしい。
「そんなもん何故持ち歩いている?! というか足りるのか?」
「足りないわよ。でも足りない時は血でもかけてやればいいわ。私は毒花の民なんだから」
「あんた、その腕……」
 シャウラが腕を押さえているのを見て、ゼノは顔色を変えた。いつもの深緑のドレスの袖部分が破れて、左腕から血を流している。
「やったのは、あいつか?」
「ゼノ」
「ゼノ・アルアラーフ殿下」
 低く感情を抑えつけた声で、タラゼドがゼノの名を呼んだ。
「まさかあなたまでこんなところに来ていただけるとは。こうなったらいっそ、シャウラ様があなたを殺害して、その後責任をもって自害したことにでもすればいいですね」
「全然よくないわよ!」
 シャウラが噛みつくのも構わず、タラゼドは手に持った小さな鈴を振る。するとまだ周囲に残っていた魔獣が一斉に二人目掛けて襲い掛かってきた。
 しかし負傷したシャウラだけならばともかく、その程度の魔獣、《鋼竜の民(ラス・アルグル)》のゼノの敵ではない。
 剣の一振りどころかナイフの一本も持たない素手のゼノは、千人からなる兵士たちをも簡単に蹴散らすはずの凶悪な魔獣の群れを瞬く間に駆逐する。
「忘れたのか? 俺がこの国の魔獣討伐隊の責任者だって。こうして魔獣を持ち出して来たからには、俺にもあんたをとっ捕まえる権利があるってことだよな?」
 酷く冷めた表情でゼノは言い、タラゼドは何故か微笑んだ。
「いいえ。あなたに私を責める権利はありませんよ。私を狂わせたあなたなどには」
「は?」
「まったくあなたのような人間が、どうしてこの世に存在しているのか。あなたさえいなければ、なにもかも上手く行ったのに。どうしてこの国に――」
「やめなさい」
 滔々と続く静かな罵倒を打ち破ったのは、シャウラだった。
「あなたにゼノを責める権利はないわ。そしてゼノにあなたを捕まえる権利もない。――何故ならあなたのことは、私が殺すのだから」
「な!」
 驚くゼノは、後ろから押さえつけられた。いつの間にか追いついたエルナトがこれまたいつやりとりしたのか、シャウラから指示を受けたらしい。脇の下から両腕を回してゼノを羽交い絞めにする。
「おい、シャウラ!」
「特殊民族を害してはならない。その協定に背いた者の末路は死。わかっているでしょう」
 恐らくタラゼドはゼノがこの現場に駆け付けた時点で、自らの負けを認めていたのだろう。
 抵抗もせずに、彼はこれまで魔獣を操っていた鈴を投げ捨てる。あの鈴は後で回収し、王都警備を通じて専門機関に解析してもらわねばならないだろう。
「やはりこうなりましたか。わかっていましたよ。所詮私の実力で、あなた方お二人に勝てないことはね。いいえ。私だけではない。この国にもはや、戦力と言う意味であなた方の敵になる人間はいないでしょう」
 そして彼は陰惨な光を瞳に浮かべる。
「けれど知るがいい。強すぎる力を持つ者は、やがてその存在そのものを忌まれるということを。最後の毒姫よ、あなたは所詮孤独な化け物として、虚しい生を生きるがいい」
 腹心のタラゼドを失って、レグルスだけが無傷な立場でいられるはずがない。タラゼドはそれすらわかっていて、恐らくこの先独りで生きていくことになるだろうシャウラに呪いをかける。
「さようなら、毒姫」
「――さようなら、最後まであなたの主を信じられなかった、可哀想な人」
 シャウラの手がタラゼドの頬に触れる。その手はすでに彼女自身の血に濡れている。タラゼド自身が魔獣に襲わせてつけた傷だ。この傷をつけた魔獣はその血に長く触れすぎたのか、すぐに泡を吹いて死んでしまった。
 シャウラの手が触れた端からタラゼドの肌が青黒く変色していく。
 彼は穏やかに微笑んで、その死を受け入れた。