Calamity Children

【1】 Calamity Children

夜語り

 01.
 
 闇は深く舞い降りて、木々の狭間で静謐と変わっていた。空と地を分ける境界線も、夜と言うこの時間の間はその身を休めている。世界は天も地もなく、等しく黒に塗りつぶされていた。今宵は朔月。星の影もない。
 濃い緑の葉もすべて黒々と塗りつぶされた夜陰の中、夜行性の動物たちの息づかいは慎ましく潜められている。時折どこからか、獲物を捕食する梟の羽ばたきが微かに聞こえて来た。唯一騒がしい虫たちの気配の向こうには、それ以外何もない。
 ――否、何かはあった。あったというよりも、今ようやくやってきたようだ。
 鬱蒼とした茂みの向こうから、白っぽい姿が覗く。体の部分は闇に紛れる濃い色の服を着ているようだが、顔と髪の色の色素が薄くて目立つのだ。一見すれば幽鬼のようにも見えたが、気配は紛れもなく生身の生き物のものだ。だから彼は、躊躇わずに声をあげる。
「誰だ」
 一人旅では用心などいくらしすぎてもしすぎることはない。短い旅の間ですらそれをよく知っていたファタルは、手元に引き寄せた短剣をひっそりと抜きながら誰何した。
「旅の者です――火に、当たらせてはもらえませんでしょうか。火打石を失くして困っていたところに、こちらから灯りが見えたもので。もしも火種を分けていただけるのであれば、すぐに立ち去りますから」
 滑らかに紡がれた声は、困っていると言う割には落ち着いていた。現れた顔とその声音から確信できたことに、ファタルのもとへとやってきたのはまだ年若い少年だった。十三、四歳と言ったところか。
 周囲を伺う限り他に人影はなく、少年もまた一人のようだった。仲間が茂みに潜んでいるようでもないし、何より少年の身なりから察するに、追剥の類ではなさそうだ。
 ファタルはしばし逡巡した後に、少年に向けて軽く顎を引き頷いた。
「……かまわない。どうやら、そちらにも事情がありそうだしな」
「ありがとうございます」
 少年はほっとした様子で、ファタルが手で示した丸太の上に腰を下ろした。その様子には、歩きづめで疲労した者が休む場所を見つけた時特有の安堵がある。
 こんな夜分に明かりも持たず、簡素だが上質な衣装を身につけて深い森の中。少年の姿は限りなく不審であったが、ファタルは結局のところ彼の頼みを断ることはできなかった。この少年が真実困窮している人間であるならば見捨てるのは後味が悪いし、そうでない――憐れさを装って獲物に近づく魔性の類である――ならば、決してそういった存在にファタルが害されることはない。
 人に嫌われるという体験は祖国でこれ以上ないほどに経験したのだ。たまには人に恩を売って感謝されたり、良い人だと好意的な眼差しで見られるような行動をしてみたくなるものである。それでもやってきた相手があからさまに胡散臭げな風体の大男だったならば考えただろうが、今ファタルに頼ってきたのは、年端もいかない可憐な少年なのだ。
 ファタルは一瞬焚き火の具合を見た眼差しを、再び少年に向ける。こちらを見つめていた彼と目が合った。
 間近で炎の明かりを頼りに見てみれば、少年は本当に綺麗な顔立ちをしていた。線が細く、微かに憂いを帯びた目元をしている。焚き火の照り返しで赤く染まる髪は、日の下ではきらきらと光を放つのだろう見事な銀髪だ。瞳の色は、たぶん緑。衣装は若干ラフだがどこか貴族的な雰囲気のする暗い色の上下で、シャツの襟元に結ばれたリボンが彼の少女めいた美貌を引きたてていた。
「君は……一人かい?」
「ええ」
 ファタルの問いかけに、少年は穏やかに頷く。
「夕食は?」
「もう、食べました」
 お気づかいなく、と告げるその言葉に、ファタルは違和感を覚える。ファタルの目から見れば、少年は巧妙に隠しているようだが腹を空かしているように見えたからだ。しかし謙虚な旅人の遠慮という本人がどうであれいささかわざとらしく見える辞退の台詞というようなものでもなく、少年は本当にファタルから食料を恵んでもらおうと考えてはいない様子だった。ならば、とファタルは少年を放っておくことにした。これから自身も食事を始めるならば一緒にどうですかと誘いやすいが、生憎とファタル自身は夕食を済ませている。
「ああ、その前に、これを聞くべきだった。私はファタル。ファルディランタル。――君の名前は?」
「ソーン」
「ソーン、か」
 囁くように零された名前を、ファタルは口の中で転がすように鸚鵡返しに呟く。同じようにファタルの本名を口にしようとした少年が、舌をもつれさせているのが見えた。
「ファルディ……」
「ファタルでいいよ。呼びにくいだろう?」
「すみません、ファタルさん」
 ソーン少年は綺麗に整った面をすまなさそうに歪めて謝罪した。ファタルとしては彼の態度はファタルの本名を聞いた人々にありがちなものだったのでまったく気にしていないのだが、少年自身は相手の名前を呼べなかったことに罪悪感を抱いているようだ。
 それよりも、とファタルは声をかけた。
「何か話をしないかい? 沈黙の静寂というのは、一人旅でならいざ知らず二人になると途端に気づまりになるものだ」
「話……」
 ソーンは戸惑ったようだった。ファタルは彼のそんな反応を予想していたため、先陣切って自ら口を開いた。
「とは言ってもいきなりじゃ当然難しいだろう。だからここは私が一つ、物語でもさせてもらおうか。何せそれが本職なのでね」
「本職?」
 きょとんとした顔を見せるソーンの目に入るよう、ファタルは自分の体の脇に置いてあった竪琴を指し示す。
「これだよ」
「あなたは……吟遊詩人なんですか?」
「正解だ。歌に命をかけるほどの真面目な熱血詩人ではないが、どうやって食い扶持を稼ぐかと問われればこれだね。でも生憎と、今は竪琴を弾く気分じゃなくて悪いね」
「……いいですよ。僕も、あなたの竪琴に金を払えるほど、今は余裕がないので」
 ソーンの返答は、素っ気ないとも言える言葉だった。この少年は人との付き合い方を上手くは知らないものと見え、相手の様子を気にかけながらも、なかなか気の利いた言葉は選びとれないようだ。今もそっとファタルの顔から視線をそらしながら言う。
「代わりに今は、むしょうに語りたい気分なんだ。付き合ってくれるかい?」
「――いいですよ」
 先程と同じ言葉を返しながらも、今度はソーンの視線は物語を紡ぎだそうとするファタルの顔にまっすぐ向けられた。ファタルはそれを受けて、薄く笑みを浮かべる。
 この一晩を何事もなく無事に過ぎれば、明日にはさよならと手を振って別れる相手だ。相手の素性を根掘り葉掘り聞き出して酒の肴にしたところで、二度と会わなければ三日もすれば忘れてしまう。向かう方角が同じならば意気投合してこのまま次の街まで共に旅を、というやりとりも世にはありえるだろうが、生憎と目の前の少年の態度に人肌を切望するような必死さはない。それはファタルも同じことで、眠りにつくまでのほんの僅かな間の時間潰しとして、相手の身分を詮索するのではなく、物語という手段を選んだ。
 語り。物語。
 便利な言葉だ。“これは物語なんだよ”と前置きしておけば、何を言ったところで話者が咎めたてられるところではない。そうして作中の人々の苦痛も悲しみも、いかに現実めいて聞こえたところで、聴衆にそれを解決する義務を負わせるべきものとはなりえない。
 気楽な語り、何の意味もない物語。多くの物語がそうであるように、紐解く者が現れねば、ただ時の流れに風化して忘れ去られていくだけだろう、ただの唯一の物語。どんな幸せなお伽噺も、残酷な悲劇も、いつかは必ず失われる。人の命と同じように。人が生み出す物語もまた。
 ぱちりと音を立てて弾けた薪が炎の中で崩れ落ちるのを合図に、ファタルは語り始めた。

 ◆◆◆◆◆

 やれ飽くなき人の欲望というものは、本当に恐ろしいものだ。これ以上は果てがないという境界線に至っても、その境界線すらきりきりと削り取って領域を広げてしまう。越えてはいけない一歩だろうと、禁忌を禁忌と知りつつ人はたやすく足元に引かれた線をまたぎ越えてしまうのだ。動的な作業はもちろん、物体が静止し続けるのにもエネルギーは必要だが、人は前者を意識する割に後者を忘れやすい。どんな神の御業も救えはしないこの愚かさよ。
 さて、物語を始めようか。舞台はとある小さな王国。かつては神の託宣を受けて導かれた大国だったが、神を失ったその果てに昔日の面影もない滅亡寸前の国家となった。それでも王がいて、民がいて、王が民を治めているのであれば王国と称するべきだろう。誰もが細々と自分たちの生活を営むだけで精一杯の小さな王国で、事件は起こった。
 その事件について語る前に、まずは王国の事情について補足しておかねばならないだろう。その王国の王家の人間たちについてだが、彼らは呪われていた。何故って、それは彼らが罪を犯したからだ。彼らは親を殺し兄弟を殺し我が子を殺した。夫を殺し妻を殺し舅を殺し姑を殺した。叔父叔母を殺し甥姪を殺し従兄弟同士で殺し合った。
 かつての大国の王家の末裔は残り少ない栄華を手にせんとすべく、血族同士で殺し合ったのだ。富と権力を巡って争い続けた王家の人間の様子を見かねて、神は王国を呪った。王家の人間がこの先永劫生まれ変わることのないように、不老不死という呪いをかけたのだ。それ以来、王家の人間は死ぬこともできず、また生まれ変わることもない。
 血族で殺し合うことを当然としていた王家の人間たちは、不老不死の呪いをかけられて困った。どんなに憎い相手、政敵や恨み妬みを向ける相手を殺そうと、彼らは何度でも蘇る。柔らかい腹部をめった刺しにする憎しみも笑いながら相手の皿に毒を盛る野心も決して減りはしないのに、相手は殺しても殺しても蘇ってしまうのだ。王家の血族は、皆がその苦しみに巻き込まれた。だが彼らの最も愚かなところは、それでも憎しみを捨てきれなかったところだろう。
 死なないのであれば仕方がないと、血で血を洗う謀略自体は減ったが、それで関係が改善するはずもない。むしろその王家では、相手を殺せないからこそなお憎しみが募っていった。殺したいほどに憎いが愛してもいた家族、などという幻想はもはや存在せず、永劫の時眺め続けた家族の顔を、ただ目障りな相手としか認識できなくなったのだ。
 それでも彼らは王族だった。国を維持するために、彼らはかけられた呪いを除けば表面上は常通りに振る舞った。呪いのせいでますます他国から遠ざかり、国の貴族たちも政略とはいえ王族との婚姻を望まず、死なない王族たちは何百年も変わらぬ顔ぶれを眺めながら、果てない憎しみを繰り返した。
 その連鎖を歪ませたのは、二人の兄妹だった。

 ◆◆◆◆◆

 ぱちり、とまた薪が爆ぜた。炎の中でからりと音を立てて黒い墨が崩れていく。
「それで、その兄妹が何をしたっていうんです?」
 静かに話を聞いていたソーンが、社交辞令代わりか続きを促した。乾いた枝を舐める炎に新たな餌となる薪をやりながら、ファタルは言う。
「二人はね、子を成したんだよ」
「それのどこがおかしいんですか?」
 ソーンの顔ではなく、薪を燃やす炎の紅を眺めながらファタルは告げた。
「彼らは実の兄と妹でありながら、お互いの間に子を作ったんだよ。妹が兄の子を産んだんだ」
 銀髪の少年は今度こそ息を呑んだ。事の重大さがようやく彼にも呑み込めたのだ。
「兄妹で……」
 それは禁忌だ。この世界の人の社会において赦されざる禁忌。そして血族同士殺し合うのが当然だった国においては、極めて異例の事態。
 言葉を失うソーンにちらりと一瞥を向け、ファタルは物語の続きを口にする。
「殺し合い、憎み合うのが当たり前だったその国において、彼ら二人に一体何が起きたのだろうか。兄と妹が肌を重ねたのは、愛情からか、それとも何らかの思惑からか。しかし今ではそれを知る者はどこにもいない。――二人ともいなくなってしまったからだ」
「え?」
「不老不死の王国では、もちろん王族である母親が産褥で死ぬということはありえない。だが彼女は姿を消した。それと同時に、父親である兄もいずこかへと消え去った。そして王家には、禁忌の結晶とも言うべき、近親相姦の子だけが残された」

 ◆◆◆◆◆

 目の前にいない相手が何を考えているのかなどわかるものではない。――目の前にいる相手の考えていることすらわからないのに。
 華やかな虚飾に彩られし伏魔殿。王宮なんてものはどこでもそう変わりはないのかもしれないし、なまじ自分がその裏側を知っているからと言って祖国がこの世で一番陰惨だなどと思うのは間違いだ。けれどそれらの過剰すぎる装飾語を抜かせば、あそこは確かに陰惨な、伏魔殿には違いない。
 永遠に死ぬことのない王のもとで、永く王子と呼ばれ続けた男は実妹に子を産ませるという罪を犯したあと姿を消した。残された子ども――男子だったが――はやはり呪われた王家の一員らしく殺すことができなかったために、仕方なく王宮でそのまま育てられていた。
 呪われた国でも更に忌わしい禁忌の子たる王子は疎まれ、周囲からの悪意を常に感じて育った。何度も何度も彼を殺そうという試みはなされていた。火に投げ込まれ心臓を抉られ水の中に沈められた嬰児の頃の記憶が残っているというわけではなかったが、王子は自分がこの国で最も忌わしい存在なのだと知っていた。人々が自分を見る目には、鋭い氷の針のような思いが混じっていてその身を傷付ける。血塗られし王国の最も呪われた血脈の申し子が彼だった。
 彼を産んだ母親と、妹に息子を産ませた父親の方は杳として行方が知れないままだった。二人が愛し合っていて一緒にいるのか、それとも二人ばらばらに国から逃げたのかは定かではない。彼らが相愛であったならばその想いの結晶たる息子を置いていくのはおかしいし、憎み合っていたとしても国から姿を消す理由までは誰も何もわからなかった。
 不老不死の呪いにかけられた二人が死んでいないことだけは確かだったが、それ故に謎は深まるばかりだ。どこに行っても歳を重ねることなき不老不死の王子と王女だ。市井の暮らしに交じるだけでも一苦労なのに、その上国外では魔性として追われる危険のある道を、彼らは本当に選んだのだろうか。
 その末路を特に知りたいと切望したのは他でもない彼らの息子である王子だったが、しかし誰もその答を与えてはくれなかった。誰も知りようがないことは答えようがないのだ。王子が見たこともない両親の顔を思い描けはしないように。
 王子の両親への想いは、日に日に募っていく。それは愛情か、憎悪か。王子自身もそれがわからなかったに違いない。彼は両親から与えられるべき愛情というものを受け取っていないのだから。他の者たちが彼に向ける視線はどこか余所余所しくあるいは冷たく、王子はある一定の方向の感情に飢えることはあっても、決して満たされることはない。
 そしてある日王子は、一つの重大な決心をした。
 彼自身も、国の外へ旅に出ることを。

 ◆◆◆◆◆

「それで」
 と、銀髪の少年は尋ねる。
「続きはどうなったんですか?」
「物語はここで終わりだよ。呪われた王子が、国の外へ出るまで」
 ファタルが言うと、ソーンは拗ねたように唇を尖らせた。微かな仕草にも炎に照らされてできた影は形を変え、少年の不機嫌を伝えて来る。
「肝心なところがないじゃないですか。この物語の主人公は、その異端の王子なんでしょう?」
「どうしてそう思うんだい?」
「え? だって……」
「私は何も言っていないよ。誰が主役だとも、誰が脇役だとも。……そうだな、強いて言えば、私が思うにこの話の主役は王国そのものだよ。決して救われない病にかかった血族殺しの王国だ。だけど君が忌子の王子を主人公だと思うのならば、それも間違いではないよ」
「忌子」
 ファタルの発言のある一語だけをぽつりと繰り返しソーンは呟いた。
「物語は物語である以上、語り手のものであると同時に、聞き手のものである。例えば私が主役として話した人物が君にとっては脇役に過ぎないと感じられるのであれば、それもまた一つの真実だろう」
 語り手と聞き手がそれぞれ別の人間である以上、同じ言葉で紡がれた物語の印象にも往々にして差異は生まれるものである。それは一人の人間に対する評価が、人によって変わるように当然のことだった。つまり、必ず誰からも好かれる人間などどこにもいないということだ。
 裏を返せば誰からも嫌われて誰にも愛されない人間もまたいないということになるが、それが誰かにとって救いになるのかどうかは、まだファタルは知らない。わからない。
 今この場で彼に出来るのはただ、焚き火の向こうに座る少年に、呪われた国にまつわる話をすることだけだった。
「私の語った物語を、君は好きなように解釈すればいい。けれど余談として付け加えさせてもらうのであれば、人が感情移入する物語の登場人物は、大概その聞き手自身と共通点のある人物だね」
「共通点?」
「そう、似たような年齢、似たような思考、あるいは――似たような境遇。君が呪われた王子に何かを感じたのであれば、それは君もまた何かに呪われているということなのかもしれないね」
「僕が?」 
 ソーンがぱちぱちと大きな翡翠色の瞳を瞠った。銀色の睫毛が零れる雪のように煌めく。
「……大変興味深い御説ですね。あなたの話は、退屈しのぎになりました」
 少年の唇が吊りあがり、笑みの形を作る。瞬間、ファタルは背筋にぞくりと寒気が走るのを感じた。焚き火の暖かな炎がこんなにも近いというのに、氷の指で撫でられたかのような強烈な冷たさが彼を襲う。
 ファタルは手元の竪琴を引き寄せた。それは剣や鎧のように敵から身を守るようなものには決してならないが、不安な夜にはいつもこの竪琴を爪弾くことによって寂寥や苛立ちを癒して来たファタルにとっては、何者にも代えがたい財産であり、武器であり、またお守りであったのだ。
 それと同時に、ファタルは油断なく目の前の少年を凝視した。先程感じた寒気の正体を、彼は漠然と殺気だと予想した。それを放ったのが目の前にいる華奢で可憐な少年だというのは俄かに納得しがたい話だったが、この場には自分たち二人以外の誰も存在しない。
 少年の薄紅色の唇が、ファタルの緊張を意に介さず滑らかに言葉を紡ぐ。話を聞いていた間は短く単語を復唱するだけのような相槌ばかりに留まったソーンの言葉は、いまや彼の意志を一分のずれもなく伝えていた。
「面白い話をしていただいた御礼に、僕もあなたに一つ、物語を披露いたしましょう。吟遊詩人殿の見識如何によってはすでに聞き古した話もあるかと思いますが、全てを語り終えたその総体はきっとあなたの知らざる物語となることでしょう」
「なるほど、それは楽しみだ」
 ファタルは竪琴を引き寄せたまま、ソーンの言葉の続きを待った。少年の語る“物語”は、ファタル自身が語った時に比べて装飾語も抒情的な表現も最小限に抑えられ、ただ事実を述べたかのような簡素な散文に過ぎなかった。
 しかしソーンの言った通り、確かにその内容自体はこれまでファタルがまったく聞いたことのない物語だったのだ。
「あるところに吸血鬼の集落がありました。吸血鬼とはその名の通り、人の血を吸う魔性のことです。魔性とはかつて破壊神によって滅ぼされた創造の魔術師・辰砂の体から零れ落ちた魔力から生まれた異形の化け物のこと。吸血鬼はその異形の魔性の一種族です。ところがその吸血鬼の集落には、魔性と呼ばれる生き物が本来誰でも持ち合わせているはずの魔力を持っていない、できそこないの子どもがおりました」
 すらすらと語られる言葉の端々に棘が潜む。
「魔力を持たない魔性は“忌子”と呼ばれます。そのできそこないの子どもは、集落の他の吸血鬼たちのようには魔術が使えませんでした。そのために彼はまだ幼いうちに、集落を仲間たちから追い出されたのです」
「それは酷いね」
 思わず、ファタルは相槌を打った。彼が“知っている”呪われた王子は、少なくとも自国を追われてはいなかった。勝手に自分から国を出て来たが、誰かに邪魔者として追いやられたわけではない。もっとも、それ以前に存在自体を認められず闇に葬られようとしていたわけだが、結果的に生きているのだからそれは大した問題ではないのだろうとファタルは考えている。
「お話はここでおしまいです」
「私の立場からは、その子どもはどうなったのと尋ねたいにくいね。ついさっき王子の行く末についてお茶を濁した者からすると」
「そのまま世界を宛て所なく放浪しているだけでしょう。別に、あなたの物語と違ってこの話はその子どもが主人公ですから、尋ねてくれたってかまいませんよ」
「お気づかいありがとう」
「いいえ。礼には及びません」
 ぱちり、と三たび薪が爆ぜる。ファタルは銀髪の少年の一挙一動から目を離さなかった。ソーンから発せられた殺気は話の間揺らめきながらも、決して弱まってはいない。丸腰の華奢な少年が、どうしてこんなにも苛烈な殺気を放てるのだろうか。
 そして彼は仕掛けてくる。
「――冥土の土産には、これでもまだ足りないくらいでしょうから」
 十分に警戒をしていたはずなのに、ファタルは咄嗟に動けなかった。ソーンの動きは目にも止まらぬ速さであった。白く細い指先が万力のような力で彼の腕を掴むと地面に押し付ける。はずみでファタルの手から竪琴が零れ、茂みの向こうまで派手な音を立てて転がった。
 フッと音もなく焚き火の炎が消え、辺りが真の暗闇に包まれる。その中で仰ぎ見る少年の白い顔だけが、幽鬼のように浮かび上がっていた。しかし先程まで焚き火に当たっていたためか熱を持った柔らかい指先が、逃げようもなくしっかりと実体を伴ってファタルを捕まえている。
 ソーンの動作は人族というよりも、まるで獣のようだった。
「後悔をするならば、己の浅慮と人の好さに。こんな闇夜にうろつくモノが、まともな生き物であるわけないでしょう」
 淡々と紡ぐ少年の唇からは、白く尖った牙が覗いている。ああそうか、決して上等の語り手とは呼べない少年が意外にも滑らかに紡いだ、先程の“お話”に出て来た“忌子”は。
「さようなら。親切な語り部さん」
 ファタルの首筋にソーンの鋭い牙が食い込む。痛みと共に濡れていく首の感触、錆び着いた鉄のような生臭いお馴染みの匂いと共に、急激に体温が下がっていく。噛みちぎられた肉から溢れ出る紅い血。
 喉首を食い破られた哀れな獲物は、悲鳴をあげることすらできなかった。

 02.

 異端者だった。
 何処に居ても、何処に行っても。
 群れの中では力不足を罵られ、けれどひとたび外に出てかよわき人間族に混ざれば明らかに頑強で異常だった。野の獣と共にあるは気楽だが言葉を交わして孤独を癒すことは叶わず、かといって結局のところ、同族にしろ異種族にしろ、言葉を交わせる知能を持つ相手からの意志には常に傷付けられてきた。
 異端者だった。
 何処に行っても、何処に居ても。
 真冬の凍える雪の中、暖かな火の灯る暖炉。やわらかい声で迎えてくれた人好きのする一家。けれど窓の外を見ていた。扉の向こうを思い描いていた。家の中が暖かければ暖かいほど、早く冷たい雪原に飛び出したかった。
 真実の姿が受け入れてもらえないならばと、偽り、隠し、欺き続ける。周囲だけでなく、時には己さえも。優しい人々の中にいて優しい気持ちになれても、それはいつもひとときの夢、はかない幻でしかなかった。現実に立ちかえれば己が混ざれる群れは存在せず、今は穏やかな眼差しを向けてくれる人々も、きっと己の真実を知ればおぞましいと顔を背けるに決まっている。
 だからそれが知られる前に、全てが明るみに出る前に、今が幸せの絶頂というその時に、ぬるま湯の中から逃げ出して来た。また会おうと別れ、だけど多分二度と会うことはない人たち。会いたい。けれど会えない。何十年の時を経ても変わらぬこの姿を見れば、彼らの顔はきっと驚愕と恐怖に歪むだろう。だから、会えない。
 異端者だった。
 どこにも居られなかった。
 どんな夢のような理想郷でも決して留まること叶わず、時の移ろうままに宛て所なくこの世界を彷徨う。求める場所がこの世にないと知っていても、留まれないから進むしかない。己の尾を飲む蛇の背を辿るように、終わりなき円を描く旅路。世界は丸く、けれど上下に延びる螺旋を描いている。
 ひとたび通り過ぎて来た時の中に置き去りにしてきた――あるいは己を置き去りにした――人々には二度と会えず、自分一人、ただ、永遠の。
 ずっと一人で旅を続けて来た。
「……ふん」
 口元の血を拭い、ソーンは鼻を鳴らす。
「何が、共通点だよ。何が、呪いだよ」
 忌々しげに吐き捨てる。銀髪の少年は殊勝な仮面を引き剥がして、自らが喉首を食い破って殺した男の死体を見遣る。
 若い男らしい生命力に溢れた健康な血液をたっぷりとソーンに提供した相手は、今や全身血にまみれ四肢を投げ出し横たわっている。からからのミイラにこそなっていないが、青白い皮膚からは完全に血の気が引いている。
 焚き火の炎は完全に消えていたが、ソーンにはこの闇の中でも周囲の状況がはっきりと目に見えていた。吸血鬼は夜目が利く。闇に棲まう魔性と呼ばれる生き物は大概そうだ。これは肉体的なものであって魔力でもなんでもないから、ソーンもその例に漏れなかった。そう、“忌子”と呼ばれる彼であっても。
 彼は異端者だった。魔力を持たない魔性。それは忌子と呼ばれる。吸血鬼の世界では、ソーンはできそこないとして嘲られ軽んじられる存在だった。親兄弟にも見放され、本来吸血鬼よりもずっと弱いはずの人間に混じって暮らす彼を、同族たちは侮蔑の眼差しで見つめる。魅了の魔力で黙っていても餌となる人間を呼び寄せられる同胞と違って、ソーンは時と場合に合わせて、あらゆる努力をしなければ相手の油断を誘えない。
 例えば今日のように、無駄だとわかっていても相手の油断を引き出すために世間話に興じる振りをしなければならない。なまじ数日間餌を逃し続けたせいで彼は空腹だった。ようやく獲物を見つけたはいいものの、闇夜の中を二十歳にも満たない子どもが一人明かりも持たずに歩いているというあまりにも不自然な様子を晒した邂逅に、内心では緊張していた。夜目の利く彼は闇の中でも灯りを必要としないが、ただの人間にとってみればその状況は不審だ。
 そして魔力を持たないソーンは、獲物を組み伏せる時も己の腕力と肉体だけで勝負しなければならない。獲物の方で勝手に跪いて愛を請うてくる同胞たちとは違い、自分自身の力で人間をねじ伏せねばその新鮮な血液にはありつけない。
 それでも今日は、なんとかなった。
 相手がお人好しの一人旅だったため、さして腕力のないソーンにも組み伏せることができた。第三者が通りがかれば惨劇の現場にしか見えない血塗れの森の中、少年はようやく安堵の息をつく。
 饒舌な吟遊詩人は、今は物言わぬ屍と化している。代わりに物静かな少年の仮面を脱ぎ棄て素の顔を晒したソーンが、口数を増やした。
「何が、不老不死。何が、罪。何が、呪われた王国だ。不老不死だってその王国内では当たり前のように受け止められ、針の筵でも王子には居場所が存在し、両親から決定的に捨てられたわけでもないのに」
 ソーンの端麗な面差しが、笑みを形どる唇から歪む。翡翠の瞳に、暗い光が浮かんだ。
 唇から零れる刺々しい言葉は、先程ファタルの語る“物語”を聞いていた時、つい引き込まれてしまっていた自分自身への苛立ちの裏返しだ。ファタルに指摘されるまで、ソーンは自分が呪われた王子の孤独に自身の想いを重ねていたことさえ気づかなかった。そしてただ相手を油断させるための時間稼ぎのような世間話のはずだったのに、そうまで自分を惹きこむ話術を持った吟遊詩人に嫉妬した。
 羨望と憧憬。そこから派生する嫉妬。彼は妬んでばかりだった。あらゆる意味で、この世の力ある者たちを。ソーンにはいつも何もない。何もないからこそ、ただ奪うことしか知らない。
 そんな自分の身の上を思えば、絶望と希望を等しく抱えた王子様は共感と同時に嫉妬の対象でもあった。ソーンからすれば王子様の抱える不幸は随分生温く、物語として幸せな結末を願うと同時に、そのまま彼が何もかも失って不幸になればよかったとも思っている。
 ソーンの中には二つの感情がある。この想いを、この痛みを、誰かにわかってほしいという願いと。この痛みは誰にもわかるはずがないという半ば意地のような諦観と。
 だから彼は普段自分がされているように、物語中の王子様に対して皮肉気に嘲笑った。
「その程度で“呪われてる”なんて笑わせる」
「――酷いな、これでも私は苦しんでるのに」
 唐突に発された声に、吸血鬼の少年はバッとその場から飛びのいた。
「なっ……!」
 愕然と目を見開き、目の前の信じられない光景を凝視する。
「やれやれ。また派手にやってくれたもんだね」
 子猫の悪戯を嗜めるかのように穏やかな口調で言いながら、ファタルは――先程自分が殺したはずの吟遊詩人はその血塗れの体を起こした。

 ◆◆◆◆◆

 それは課せられた苦役。終わりの見えない贖罪。

 運命の王子は血塗れた身体で口の端を吊り上げる。
「な、んで」
 常に優美たることを好む吸血鬼が尻もちをついて倒れるところなんて滅多にお目にかかれるものではない、などと思いながら、ファタルは呆然としているソーンを見つめ返す。
「言わなかったかい? “不老不死”だと。それとも話に余程聞き入ってくれたのかな? “これはただの物語です”」
 先程の無防備なまでに人懐こかった顔とは打って変わって皮肉な笑みを浮かべたファタルの言葉に、ソーンもようやく合点がいく。
「あの話、あの物語の主人公はまさか」
「そうだよ。あれは私の国のこと。呪われ忌み嫌われた近親相姦の子である王子とは、私だ。ファルディランタル=アレスヴァルド」
 かつて、この地上には神の末裔を名乗る王国が存在した。神託によって人々の運命が導かれる王国、アレスヴァルド。しかし国を滅ぼすと予言を受けた王子の登場により、一度滅び、また復興した王国。今では往年の栄華の影もないと噂されていたが……。
「不老不死の呪いだなんて、聞いたこともない」
「人は意外と世間に関心を持たないものだよ。それにこれでも、他王家にはこの話は充分伝わっている。市井の人々には何故ここ数百年のアレスヴァルドがかつての大国の勢いを失ったのかまではわからないだろうけど、もともと復興後のアレスヴァルドはもはやかつての神聖アレスヴァルド王国とは言えないものだったからね。今のあの国に、神の血は伝わっていない」
 古王国アレスヴァルド。神の血を失い、予言に滅ぼされたという曰くつきの国には、他国には公にできぬ事情が溢れている。もっとも、王家などどこもそんなものかもしれないが。
「さて、今度は君の話だよ。ソーン。君が話してくれた吸血鬼の“忌子”とは、君自身のことだね?」
「……そうですよ」
 今まさに殺されて生き返りました、というには落ち着き過ぎているファタルの様子に観念したのか、ソーンが溜息と共に肯定した。
 闇の中、ソーンと違って体は普通の人間であるファタルは本来火がないと何も見えない。しかしソーンはその白い肌も銀の髪も目立つので、彼がどこにいるのかを知るくらいならば困らなかった。
「僕は吸血鬼でありながら、魔力を持たない“忌子”。そのために集落を追い出されて何十年も一人で生きてきました」
「何十年? すると君の実年齢はその見かけ通りではないというわけか」
「ええ。あなたよりずっと年上でしょう。あなたが見た目通りの年齢であれば、の話ですが」
「私は今、十七だ。もっとも、この後どうなるかはわからないけれどね」
 アレスヴァルドの王族は不老不死の呪いをかけられてから、滅多に婚儀を結ばなくなった。けれど中には欲望に負けて子を成す者たちもいるわけで、そうやって生まれて来た子どもは大概が成人まで人と変わらずに成長し、大人になってからはゆっくりと歳を重ね人よりも少しばかり永く生きて死んでいった。少なくとも片親が不死者ではなくただの人間である子どもたちはそうだった。
 ファタルに関しては、彼自身のことは実をいうとよくわからない。呪われた王族同士で子を成した前例が、そもそもないからだ。けれど両親共に不死者である以上、普通の人間よりもかなり永い生であることは確実だ。それが半永久的なものになるか、いずれ終わりが来るのかについては今はまだ知れない。
「で、私たちはこれからどうすればいいのかな?」
 ファタルは彼自身の血に濡れた指で頬を掻いた。
「そんなこと、僕に言われても困ります。それともあなたは、僕に何かを要求するつもりなんですか? 生憎と、持ち合わせも隠し財産も何もありませんが。それとも、地べたに這いつくばって謝罪でもしろと?」
 ソーンは翡翠の瞳でキッとファタルを睨む。
 彼は魔力を持たないが吸血鬼。ファタルは呪われてはいるが人間。ソーンにとってファタルは獲物で、ファタルにとってソーンは捕食者だ。お互いの正体を知ってしまえば、対等に話をするというのがまず不自然な状況なのかもしれない。
 ソーンにはファタルに謝罪などするつもりはない。けれどファタルの要望は違った。
「いいや。ソーン。私はそんなことを言っているのではないよ」
「では何と?」
「これも何かの縁だ。お互い人より永い寿命を持つ異端者同士、これからも一緒に旅をしないかい?」
「は……」
 吸血鬼の少年は絶句した。
 勧誘者である呪われた王子こと吟遊詩人は、この凄惨な状況に不似合いな程の笑顔だ。恐ろしいことに、そこには裏も含みも何もない。
「……阿呆かよ、あんた。自分を殺したっていう相手に――」
 思わず素になって呟くソーンに、ファタルはなおもにこにこと言葉を重ねる。
「そう? 我ながら名案だと思うけどね。だってここで別れたら、私は君が吸血鬼だと触れ回るかもしれないよ? そうしたら君だって何とかして私の口を塞ごうとするだろうし。そうやってぎすぎすした敵対関係を回避するためには、お友達になるのが一番じゃないかな?」
「さっき、そのまま僕が姿を消すまで死んだふりをしてれば良かった話じゃないのか?」
「ああ、そうか。でも起きちゃったからなぁ。うーん、時は戻せないし」
 のほほんと言うファタルの姿に完全に気が抜けて、ソーンが切り株に座り込む。
「……僕が怖くないのか?」
「ちっとも。君のその可愛い顔を見て怖いと思う男の方が少ないんじゃないか?」
「顔のことじゃない。だって僕は、吸血鬼で……あんたを殺したんだぞ。その気になれば人間なんて簡単に捻り殺せるのに」
「でも私は死なないよ。今のところ不老じゃないが、少なくとも不死だからね。君こそ僕が気持ち悪くないの? この呪いのこともあるし、それに僕の親は、兄と妹でまぐわったんだよ?」
「そんなの……」
「君がそういう人だから、私は君に興味を持ったんだ」
 ファタルの言葉に、ソーンは瞳を揺らした。
「僕と一緒に行こう。一緒に生きよう。ソーン」
 差し伸べられた手は血に濡れている。ファタル自身の血であり、それを流させたのはソーンだ。それなのにファタルは、臆した様子もなくソーンに手を差し伸べる。
 血塗られた手。血塗られた一族。血塗られた血脈。
 その中でも更に疎まれる禁忌の子。だから誰かと共にあることなど、望むどころか夢に見たこともなかった。
「豪胆すぎる」
「ありがとう。歌と語りを除けば私の唯一の取り柄なんだ」
 くすっと笑ってファタルが血色の手でソーンの手を掴み、包み込むようにする。真実血塗られているのは、果たしてどちらの手なのだろうか。
「僕は……」
 ソーンは唇を動かし、初めてファタルの名を呼んだ。

 やがて夜が明ける。

 終わりのない夜はないという。だが昼と夜は必ず繰り返す。この世のものは何もかもがいずれ失われる。だがその事実自体は不変である。こんな世の中に、何がありえることで何がありえないことなのか。何が永久不変で、何が変わりゆくものなのか。
 誰もその答を知らない。
「さて、行こうか」
 吟遊詩人が手を伸ばすと、吸血鬼は無言でその手をとり立ち上がった。少なくとも今この時、彼らの歩みは揃っている。永遠の保証などまるでない、脆さを内包した絆。
 物語は語り出した瞬間から終わるために全てが始まっている。けれどそれが喜劇か悲劇かは、最後まで聞いてみなければわからないものだ。

 了.