朱き桜の散り逝く刻 01

prologue

邂逅――黄昏の出会い――

 彼は追われていた。
 森の奥のあちこちから、異形のものの視線が追ってくる。追手の数は六まで数えたが、その先は何匹いるのかもはや彼にはわからない。
 影の中を泳ぐ銀の魚、一つ目の小さな猿、二股の尾を持つ黒猫、無数の牙を生やした赤狼、人の子ほどの背しかない小柄な体に、皺深い面を持つ鬼、そして限りなく人の姿に近いもの。
 さまざまな異形が、彼を追い詰める。
 足が上り坂を駆けている時点で、これが罠以外のなにものでもないとわかっていた。否、それをいうなら追跡者たちの存在が“桜魔(おうま)”と呼ばれる人外の妖魅という時点で、これは罠でしかありえなかった。
 森が途切れ、彼は小高い丘の上を昇っていた。隠れるものがなくなって姿を現した、彼を追い詰める桜魔たちに叫ぶ。
「何故だ! 何故お前たちは同胞たる我を追い詰めるような真似をする!」
 そう、彼は桜魔。そして彼を追いかける者たちもまた、桜魔だ。
 彼らは人間や他の動物のように同種同士の結束からは程遠い種ではあるが、桜魔同士の横のつながりというものは皆無ではない。同胞である桜魔たちが自分を追い詰める理由が、彼には理解できなかった。
 彼のそんな疑問と問いに応えたのは、それまで彼を追っていた桜魔たちではなく、その主人と呼ばれる存在だった。
「それはあなたが、ここでたくさんの人を殺したからです。斬首の丘の首斬り魔よ」
 丘の頂上で彼を待ち伏せするように佇んでいたのは、一人の可憐な人間の少女だった。白い肌に映える紫紺の長い髪を無造作に背にたらした、華奢な少女。儚げなその容姿の中、燃える炎のような瞳の橙色が酷く鮮やかだ。
 容姿は可憐、着物や装身具の類は普通。一見して何もおかしなところのないただの人間の少女と見えたが、桜魔である彼には少女が何と呼ばれる人種であるかわかった。わかってしまった。
「た……退魔師!」
 何の変哲もないと見える少女は、しかしそのほっそりとした華奢な肢体に、か弱き只人とは違う力を秘めていた。霊力と呼ばれるそれは邪なるものを打ち砕き、実体を持つ妖たる桜魔を消滅させることができる。
 そして彼は気が付いた。まるでこの少女が待ち伏せていた丘に誘導するように、彼を追い詰めた同胞たち。他の退魔師たちのように剣や槍などの武器を持たぬ眼前の少女が、彼を恐れる様子もないこと。
「お前……魅了者か!」
 魅了者。
 桜魔を殺すことができる退魔師という能力者たちの中でも更に特異な、桜魔を魅了することのできる能力者。
 彼を追い詰めた同胞たちは、皆がすでにこの少女の支配下なのだ。
 少女の足元の影が揺らめき、その中から何かが跳び出す。軽く片足を曲げて草むらに着地したのは、完全な人型の桜魔。
 物の影に潜んでこの世ならぬ異界の道を通り抜けるその技を、影渡りという。桜魔の使う術の中でも高位のものだ。術への適性があるか、余程強い力がなければ使えぬ技だ。
「紅雅(こうが)」
 少女がその桜魔の名を呼んだ。人間で言うなら二十代の半ば頃だろうか。すらりとした長身に整った顔立ちの青年姿の桜魔が、少女の命に応えて彼を見おろす。
 瞬時に彼は察した。目の前の青年姿の桜魔は、明らかに彼より高位だ。戦っても勝ち目はないだろう。
 青年は自らの腰に佩いた刀を抜く。
「ま、待ってくれよ! ちょっと待ってくれよ! おい!」
 彼はがばりと地面に身を伏せ頭を下げると、命乞いを始めた。
「許してくれ! 俺はこの首斬りの丘が生んだ桜魔だ。何十年も人々の命を啜ってきたこの場所が生み出した桜魔の本能として、人の首を斬ることしか知らなかったんだ!」
 頼む、殺さないでくれと喚く桜魔。少女は現れた時から何一つ変わらない顔色で、その様子を見おろす。そしてその表情と同じく、あくまでも淡々とした声音で告げた。
「いいえ。それはできません」
「なっ……」
「人の血と死を求めるのが桜魔の性とはいえ、あなたはあまりにも多くを殺し過ぎた。かつて罪人の首を斬るのに飽きて、夜な夜な街を徘徊しては市井の人々の首を斬り、殺していった殺人鬼の怨念を核に生み出された桜魔よ。この地上に、すでにあなたの居場所はありません」
 桜魔は人の、死者の情念を核とする。殺人鬼の怨念から生まれた彼は、ここ半月程王都で何人もの人間を殺し、首を斧で刎ねた。
 その罪は例え彼が何者であろうと赦されるものではないと、少女は言う。
「そうかよ……じゃあ。お前が俺の最後の獲物だ!」
 彼は己という個が生まれた時から手にしている斧を振り上げた。少女の真上から振りかざす。しかしその刃を、細い刀が受け止めていた。
「紅雅」
 先程の青年姿の桜魔が、少女の前に割り込んでその攻撃から彼女を庇っていた。
彼は不利を悟って自ら後方に飛び退く。
「どうしても、観念しないようですね」
「当たり前だ! 誰が二度も大人しく死んでやるもんか!」
「そう……なら、仕方ないのね」
 そう言って、少女は彼を見つめた。
 その途端、彼の体は動かなくなる。腕も足も首も。視線の一つすら動かせない。
「な……」
 吐息一つ漏らすのでさえ苦痛な不可視の拘束の中で、彼は思い知った。
 これこそが、魅了者の力。
 悲しげに佇む少女の姿を見ていると、自ら跪いて殉教者のように首を差し出したくなる、彼自身も知らぬところで、屈服させられた精神。
「紅雅」
 三度、少女はその名を呼んだ。
「斬って」
「御意」
 そして彼は、その命を終える。
 西に沈みゆく月は白く、東の空はその色を紫紺から薄明の菫色へと移している。夜明けは近い。終わりゆく夜の最後の足掻きのような深い闇に、白い“桜”の花弁が舞う。
 この朝は十二番目の月の朔日。月の極まる、一年の終焉の暦のはじまり。
 本来ならば冬と呼ばれたのだろうその時期に、瘴気に染まった桜が花を開いている。町はずれの小高い丘の上、山向こうの空の色ばかりが鮮やかだ。
 哀れな化け物は同胞たる紅雅の太刀に切り刻まれ、その命の終焉を迎えた。愕然と凍りついたその表情さえも、糸が解けるように無数の桜の花弁に分解されて消えていった。
「おやすみなさい」
 少女姿の退魔師はほんの少しだけ目を閉じた。まるで冥福を祈るように。

 ◆◆◆◆◆

 この国はいつでも春だ。桜魔の勢力に合わせて環境も何もかも無視するどころか、己が咲くために気候の方を春に変えてしまうような桜が王都のそこかしこに生えているせいで。
 仕事からの帰り道、朱莉はその少年に出会った。
「――い」
 薄明の薄闇の中、きっかけは微かな声だった。
「今、何か――」
 朱莉は頭上を見上げる。
「――血の匂いがする」
 そこに、桜魔がいた。
 川縁に生えた太い桜の幹に腰かけ、ねじくれたその樹上に王のように君臨している。
 浅葱色の髪に、ちょうど今のような夜明けの空の色をした瞳。着物ではなく袖なしの身体にぴったりと張り付く活動的な衣装を身に纏い、腕に手甲をはめている。
 見た目は紅雅と同じく人間にしか見えない姿、朱莉よりも一つ二つ年上のただの少年に見えるが、隠す様子もないその気配は、人ならざる者の波長をしていた。
 無数の小さな花に紛れて朱莉を見おろした少年が口を開く。
「君は、血の匂いがする――それも、桜魔の血だ」
 朱莉は静かに目を瞠った。
 彼女は確かに退魔師としてこれまで多くの桜魔の命を奪ってきた。紅雅やその他の配下に斬らせただけではなく、自ら武器を持ちその命を狩り取ったこともある。
 だが、それは――。
「あなたも」
 朱莉は囁いた。樹上の少年に聞こえるような声量ではなかったが、声ではなく言葉が届くとわかっていた。
「あなたも、同じだわ」
 少年は小さく笑う。
 彼が朱莉に桜魔殺しとしての気配を感じられるのと同様、朱莉にも彼が数え切れぬほどの同胞の血を浴びてきたことが感覚としてわかった。
 目にも見えぬ血のにおいはその身に纏わりついて、薄れはしても決して消えることはない。鉄錆のようと称される人の血とはまた違う、熟れすぎた果実にも似て花の腐る芳しい香り。
 目の前の少年姿の桜魔からは、彼と同じ桜魔の血のにおいがする。
 朱莉は彼に興味を引かれた。幸いにも目の前の少年は、桜魔ではあるが朱莉に襲い掛かってくる様子ではない。どうやら少年の方でも、桜魔の血のにおいをさせている人間に興味を持ったらしい。朱莉は他の退魔師と違ってそれらしい格好をしないから意外だったのだろう。
 桜魔は一般的には人を憎み人を害する妖(あやかし)として知られているが、その性質は個体によって様々だ。
 朱莉が相対した桜魔たちの中には、数は少ないが人を襲うのを好まぬ者もいた。だから彼女は桜魔に恨みを持つ他の退魔師たちのように、相手が桜魔だからといってすぐさま敵対行動をとるようなことはない。
 もっとも、相手の方から人間に危害を加えるような行動をとられた場合は、それが幼い子どもの姿をして、人を喰らわねば生きていけない性の桜魔だとて斬り捨ててきたが。
 少年が樹上から降りてきた。彼のその行動のために枝が揺れ、また無数の花弁が雪のように降ってくる。
 朱莉は目の前に来た少年に尋ねた。
「何故あなたは、ずっとあっちを見ていたの」
「え?」
「ずっと、気にしているでしょう? 川の向こうの家。行きたいなら、行けばいいのに」
「……私はいけないんだ」
 それまで喜怒哀楽の薄いと言われる朱莉と似たような表情をしていた少年が、悲しげに俯いた。
「私は行けない。生前からあの川の向こうに行ったことはなかった。私が生きていた頃の活動範囲はここまでだ。だから、あの川の向こうには……行けない」
 朱莉は川向こうの家々を眺めた。そして、目の前の桜魔の少年に視線を移す。
 夜明けの空の色をした瞳は、真摯で誠実そうに見えた。桜魔を外見の印象だけで判断するのは危険だと知っているが、まとう血のにおいとは裏腹に、彼から悪しき気配は感じなかった。
「だったら、私が連れていってあげる」
 するりと口をついて出た言葉に、朱莉自身内心で驚く。しかし気持ちは変わらずに、桜魔の少年へ向けて手を差し出す。
「行きたいんでしょう?」
「……行きたい」
「連れていってあげる。だから」
 霊力のある者が共に歩いてやれば、それに引きずられて彼も橋を渡りきることができる。差し出した朱莉の手に、少年がそっと指先を乗せた。
「あなたの名前を教えて」