風の青き放浪者 01

prologue さよなら故郷

「待ってくれ! アディス!」
 背にかけられた声に、アディスと呼ばれた少年は振り返った。青から紫へと変わる淡い色合いの光を帯びた銀髪が、彼の動きに合わせて揺れる。
 年の頃は十五か、六か。空の青と呼ばれる色の瞳を持つ、穏やかな顔立ちの少年だ。
 肩に背負った旅の荷物越しに、アディスはこのエクレシア国の王子クレオに視線を向けた。クレオの隣には、紺色の長い髪を綺麗に結い上げた少女もいた。彼女の名前はニネミアといい、アディスの姉であり宰相の娘である。
 場所はアディスの自宅前、つまりは宰相の屋敷の前で、時刻はまだ草木も目覚めぬ明け方だ。こっそりと屋敷を出ていこうとしていたアディスの思惑をさっくりと見破り、幼馴染の王太子と姉はこうして見送りとも引きとめともつかぬ目的でやってきたらしい。
「本当に行ってしまうのか?」
 アディスと同じ十六歳の王子は、縋るような目を幼馴染に向けた。ほんの数カ月ばかり年上なだけのアディスを、クレオ王子は兄のように慕っている。アディスとしても子どもの頃は、将来立派な宰相になって王になる彼を支えるのだと強く思っていたものだ。
 だがそれも今は過去の話。
「仕方がないだろう、クレオ。僕はどうせこの国には留まれない」
「仕方なくなんかない」
 燃えるような赤毛の王子は少女めいた美貌を歪める。
「それはもともと私にかけられた呪いだ。私が背負うはずの運命だ。何故、何故アディスがそれを引き受けてこの国を出る必要があるんだ!」
 〝放浪〟の呪い。
 それがエクレシア王太子クレオにかけられ、今は彼と運命を取り換えたアディスの受けた魔術だった。
エクレシア王国中で二番目に強い魔女がかけた呪いだ。一筋縄では解けやしない。国で唯一の王太子を玉座へと続く道から排斥するためのその呪いは、王国内に波紋を呼んだ。
その結果として、エクレシア宰相の息子であるアディスは、この国を出ていくことになった。
「お前まで私を置いていくのか、アディス。お前が私を支えてくれるはずじゃなかったのか? お前だけは、他の誰がいなくなっても、傍にいてくれるのだと思っていたのに」
「クレオ、僕は君に王になってほしい。他の誰が何と言おうと、君ならば立派な、優しい王様になれると信じている」
 涙を浮かべたはかない面差しの王子を見遣り、アディスはそう言って彼を宥めた。次に、今にも泣き出しそうな王子とは打って変わって冷静な顔をした姉、ニネミアに視線を向ける。
「姉さん」
「馬鹿な子ね、アディス」
 いつもながらのざっくりとした一言に苦笑しつつ、アディスはこれから彼自身の代わりに重責を担うだろう姉へと激励を送った。
「クレオをよろしく頼むよ。姉さんなら私より立派な宰相になれるだろ?」
「確かに、父上の後を継いで家業をそつなくこなすことに関しては、あなたより私の方が適役だと思うわ」
 宰相の娘ニネミアはアディスより五つ年上の姉だ。彼女は趣味・学問、政治というまさに宰相になるために生まれて来たような人物で、家督は男子が継ぐのが普通であるエクレシアではもったいないような才女である。のほほんとしたアディスと理知的なニネミアを比べたら、宰相として向きなのは間違いなくニネミアだろう。
「だけどね、アディス。宰相としての役割をこなせるのは私を含めて何人でもこの国にいるけれど、クレオ殿下の一番の支えとなれるのはあなただけなのよ」
「……姉さんだって、これからそうなるよ」
 力むでもなく告げられた一言に、ニネミアは余計に眉根を寄せる。ほっそりとしたその手が、ふいにぐいっとアディスの襟首を掴んだ。
「ニネミア、何を――」
 呼びかけたクレオが絶句する。大胆にも王子の目の前で、ニネミアはこれまで同じ家で十六年間共に暮らして来た弟に口付けていた。
「――良い旅を、吟遊詩人」
「ありがとう、未来の宰相」
 しばらくして互いに唇を離すと、二人は抱き合ったまま、何事もなかったかのように挨拶を交わした。アディスはいつもの微笑、ニネミアはいつもの無表情で、名残を惜しむように互いの顔を見つめている。
 だがその抱擁もすぐに終わると、ニネミアは踵を返した。姉の華奢な背中を見送って、アディスもそろそろ出発しようと家とは反対方向に歩き出す。
「まっ……アディス! アディスってば! これで本当にいいのっ?!」
 悲鳴のようなクレオの声が呼びかけて来るのに対し、アディスはぞんざいに手を振ることで答えた。誰か他人が見ていたら、王子に対してそんな振る舞いをするアディスを咎めただろう。否、もしかしたらアディスがクレオのために払った犠牲を思い、何も口を挟めなかったかもしれない。
 それでもアディスに後悔はなかった。誰が何と言おうと彼は宰相の息子で、道楽貴族で、ニネミアの弟で、そしてクレオの友人だったから。
「必ず、この国に帰ってきて! アディス!」
 王子の悲痛な叫びは、いつまでもアディスの耳を離れなかった。