風の青き放浪者 02

第2章 闇色の少年、墓守の魔女

8.惜別の岸辺

 白い部屋の向こうは黒い屋外だった。
 木々も地面も、全てが黒い影で作られたような峡谷。巨大な黒曜石を縦に割ったような黒い岩壁がそびえ、遥か下方からは激流の音が響く。
 頭上を見上げれば黒い天井なのか果てのない闇なのか見分けがつかない。遺跡の中なので本物の空というのはあり得ないはずだが、岩壁の頂上に黒い森が広がるのを見てはそうも言いきれないような気がしてきてしまった。
 闇の中、というには視界が利く。魔術で通常とは違う視界が確保されるようになっているのか、空まで黒一色の渓谷はその色彩を除けば普通の谷と同じように見えた。
 アディスたちが開いた扉は、ちょうど岩壁の途中に出るようになっていたらしい。目の前には黒い橋があり、浮島と呼べるだろう周囲より若干の背の低い地面に降り立てるようになっている。点在するその浮島同士が黒い橋で行き来できるように繋がれていた。
 底のない奈落にしか見えない橋の下からは水の流れる音と共に、滝の近く特有のひんやりと涼しい空気が漂ってくる。
「すごいところだな」
 ゾイが感心したように溜息をつくと、最後尾を歩くエフィがまたしても意味深な言葉を漏らす。
「ここは〝契約者の橋〟、王に仕える墓守たちのために作られた。この渓谷の橋を渡りきれば、〝王の墓所〟へとたどり着く」
「エフィ」
「この渓谷の向こうに、王の墓所を守る墓守たちの街がある」
 何が仕掛けられているかわからなかった通路と違ってこの辺りに罠は少なそうだということで、三人は警戒しつつも普通に橋の上を歩き出した。
 下方からの水音以外何も聞こえない、それ以外の音は聞こうと思わねばすべてこの水音と闇に押しつぶされてしまいそうな沈黙の中で、アディスはついに口を開く。
「ねぇ、エフィ」
 堅実で真面目な日々の営みを紡ぐ者たちから見れば、非日常以外の何物でもない冒険者の仕事。その中ですら非現実的としか言いようのない光景を前に、一度は封じ込めたはずの好奇心が勝った。
「君はここが何か知っているの? 知っていてここに来たの?」
「知ってるよ」
 短く肯定の言葉を返した子どもは、口調はいつも通りだが、心なしか声が硬い。エフィのそんな様子をアディスは以前にも見ている。
「ここに、私の羽根がある」
 そう言ったきり、エフィは押し黙った。
 途切れそうになる会話の隙間を埋めるため、黒い浮島同士を繋ぐ橋を渡りながら、アディスは考え考え言葉を口にする。
「エクレシアでは、子どもは誰もが英雄王クラヴィスの冒険譚を聞いて育つ。あの国では、誰もがその存在に敬意と憧れを抱く。そしてその物語の中には、英雄王に協力する竜たちの王が出てくる」
 かつてエクレシアとイェフィラが一つの王国だった頃。
 大陸北部のその国は、常に吹雪に閉ざされるという呪いをかけられていた。その国に生まれ、呪いを解いたといわれるのが英雄王クラヴィス。
 吟遊詩人の謳う物語の中で彼は凄腕の魔女や預言者、騎士などを集めて旅をする。その中で竜王の親愛をも得たという。彼はやがて魔王と呼ばれる人類の敵をうち滅ぼし、守護聖獣ランフォスを得てエクレシアを作り上げた。
 だが、エクレシア王家に近しい存在であるアディスは、それ以上に踏み込んだ真実をも知っている。
「エフィ、君はもしかして……いや、答えたくないならそれでも構わないんだけどさ」
 真実を知りたいという気持ちと、仮にも旅の道連れとした竜の子を気遣う気持ちの狭間でアディスは揺れ動いた。その揺らぎが、彼自身の口調にも表れる。
 だが彼は、結局この時点でその問いを形にすることはできなかった。
「アディス!」
 背後のエフィを振り返っていたアディスは、背に感じた殺気とエフィの警告に咄嗟に体を動かした。空を斬った白刃の煌めきと共に、低い舌打ちを耳にする。
 狭い橋の上では避ける場所もそうそうない。目の前を過った刃とそれを持つ者を前に、アディスは子どものように目を丸くして驚きを表した。
「ゾイ?」
 左腕が痛み、思わず押さえた逆の手に錆びた臭いの粘性の液体が触れる。先ほどの攻撃がかすっていたらしい。
 黒髪の美しい少年は、刃を手にアディスを静かな目で見つめている。静かすぎるその闇色の目には、この場面にあるべき感情は何もなくすべて殺されていた。
 彼の殺気や今の行動ではなく、その目つきでアディスは悟った。
 ゾイは彼らの敵なのだと。今の彼に、先程まで力を合わせて守護者を倒した少年の面影はない。そこにいるのは一人の冷徹な暗殺者だ。
「誰の依頼だ?」
 怒りよりも落胆を強く感じながらアディスが問いかけると、ゾイは淡々と問いに問いで返した。
「それを教えると思うのか?」
「どうせ王弟殿下だろうけどね」
「王弟?」
 アディスを殺したいほどに敵視しているとすればまずあの人だろう、と思う男の名を挙げてみたのだが、ゾイの反応は鈍い。彼はどうやら本当に知らないようだ。恐らく、標的に余計な情報を与えることを危惧して、わざと知らされていないのだろう。
「エクレシア宰相の息子、アディス。悪いが、お前にはここで死んでもらう」
「死んでといわれてはいそうですかと従うほど、僕はお人好しに見えるかな」
「そうでない時のためにこそ、俺が雇われたんじゃないか」
 軽口を交わす間にも、ゾイはアディスに攻撃を仕掛けてくる。旋回する燕のように優雅だが目にも止まらぬ速さで、白刃が行き交う。
 アディスは咄嗟に、ゾイの攻撃をいつも手にしている竪琴で受け止めた。吟遊詩人にとって本来楽器は命なのだろうが、この状況ではそうも言っていられない。それにアディスの持つ竪琴は、どれだけ乱暴に扱っても壊れない魔法の竪琴だ。
 とはいえ、やはり無理がある。
 案の定疲労と緊張に呼吸が乱れた隙を狙って、ゾイはまずアディスが刃から己の身を庇っている竪琴を弾き飛ばした。手すりのない橋の淵からそれが暗い奈落の底へ落下するのを、アディスは悔しげに見送った。
 最後通牒といわんばかりに首筋に双剣を突きつけるゾイに、困ったような顔を見せる。
「酷いな。仲間の振りして裏切るなんて」
「お前は意外と隙を見せなかったからな。だから嘘をついて、人気の少ない遺跡の奥まで呼び込まなきゃいけなかった」
「嘘……」
 アディスたちに近づいてきたこと、友好的な態度、仲間になったこと、その全てが嘘。全てが罠。
 守護者を倒すために力と知恵を合わせ協力しあったことさえも。
「残念だよ」
「……」
 アディスの言葉に、ゾイは何も答えない。アディスは暗殺者の漆黒の瞳にわずかに揺らぎを見たような気がするが、この緊張下ではそれも定かではない。
 ゾイが構えなおした双剣を振りあげる。
 アディスはすでに橋の縁まで追い詰められているのだ。刃を避けるためにあと一歩でも後退すれば、どうせ命はない。
 その時、彼の体の向こうで、これまで沈黙を守っていたエフィが片手をあげるのが見えた。
「駄目だ! エフィ!」
 竜の子が何をする気か本能的に察知したアディスは、咄嗟に彼の攻撃からゾイを庇うように飛び出した。
「うわっ!」
 エフィが魔術で起こした風はゾイの手からその武器を奪ったが、同時にアディスを、手すりのない橋の外へと押し出した。
 一瞬の浮遊感と共に落下し始めた体が、ガクンと衝撃を加えられて止まる。アディスは咄嗟に伸ばした右腕の先を見上げて目を見張った。
「ぞ、ゾイ……」
「あ……」
 欄干もない橋の縁から上体を伸ばしてアディスの腕を掴んだのは、他でもないつい数瞬前までアディスを殺しにかかっていたゾイだったのだ。彼自身も己の行動に驚いたように呆然と目を見開いている。反射的に腕が伸びてしまったという顔だ。
 そして今、ゾイがその手を離せば彼の任務は完遂する。底の見えない遥か下方を流れる激流に飲まれれば、人間などひとたまりもない。
 アディスの命は文字通りの意味でゾイに握られていた。
 だが黒髪の少年は闇色の瞳に苦渋を浮かべると共に、指先に力を込める。アディスの腕の肉を抉るようにぎりぎりと食い込んで痛みを伝えてくるその細い指先は、同時にアディスの命を繋ぎとめてもいる。
 ゾイが掴む橋の縁から、からからと小さな音を立てて石ころが滑り落ちた。
 崖下までは相当な高さがあり、指先ほどの小さな石ころが飲まれる音は激流の轟音にかき消されて耳には届かない。だからこそ、この場からの落下は明確に死を感じさせる。
 この手が離されればアディスは、あの石ころのように音もなく激流に飲み込まれることだろう。
 それでも。
「……離していいよ」
 闇色の瞳があまりに辛そうに見えて、アディスは思わずそう口にしていた。
「な、にを」
「このままじゃ君まで落ちる。だから」
「馬鹿なことを……!」
 滑稽なのは一体どちらだというのか。アディスは思わず口元に笑みが浮かぶのを感じた。それは彼がゾイと出会ってから浮かべた中で、一番苦い表情だった。
「二人とも死ぬより、一人でも助かる方がいいに決まってる」
 ゾイが愕然と目を瞠った。
 先程は自分を殺そうとしていたこの少年が、今では自分の腕を本気で離すまいとしているのはアディスにもわかっている。
 けれどそこに存在する感情は、恐らくアディス自身に向けられたものではない。アディスはそれもまたわかっていた。
 だからこそ、ゾイが手を離してもいいと、本気で思っている。
 両手で縋りつけばうまく橋上に引き上げてもらえるのかもしれないが、生憎と逆の腕は先程斬りつけられた痛みでうまく動かせない。それにこの橋の上に戻ったところで、もう一度殺しあうなら結果は同じだ。
 そのぐらいなら、今この手を離してもらえばそれでいい。
 思いが届かないことも裏切られることも辛いから、微かな希望が形になる前に打ち砕いて。
「嫌だ……俺はもう二度と……」
 脂汗を浮かべた顔でゾイは悲痛に瞳を瞑る。
「ゾイ……!」
 ついにその手はアディスを離さなかった。
 いくら鍛えているとはいえ、細身の少年一人の体格で彼よりも背の高いアディスを支えられるわけがない。
 ゾイの腕がアディスを捉えたまま、不安定な体勢は崩れて橋の縁に捕まっていた彼の体までが空中へ滑り落ちる。
 暗い渓谷の奈落を死に向けて落下しながら、アディスはまるで耳元で囁かれたように鮮やかな言葉と共に、微かな溜息を聞いた。
「――この、お人好しの人でなし。奴の子孫はみんなそうだ」
「エフィ?」
 ばしゃん、と盛大な水飛沫を上げて、アディスはゾイと手をつないだまま激流に飲み込まれた。
 
 ◆◆◆◆◆

 橋の下に落ちた二人の上げた水飛沫に冷ややかな一瞥をくれると、エフィは一人歩き出した。
 十歳にも満たない子どもの顔には、その見た目に不相応な落ち着きが宿っている。仲間を失ったにしては、彼は酷く冷静だった。
 アディスとゾイは死んではいない。落下する速度を緩め、水面に叩き付けられる衝撃を和らげ、流される彼らを今また風の膜で守っているのだ。死ぬはずがない。今のエフィが翼を失っているとしても、このくらいはできる。
 だがエフィは彼らをもっと積極的に橋の上に引き上げてやろうとしたり、一から十まで丁寧に面倒を見てやろうという気はなかった。
「……アディスの馬鹿」
 どうして自分の大事な人間たちはいつでも、誰よりもエフィを大事にしてくれないのだろう。どんなにこの身を、魔力を捧げても、彼らはエフィを一番には選んでくれない。
 悠久の時を生きる神獣の時間どころか人間時間にしたって契約して少ししか経っていないのに、アディスがゾイのために命を捨ててもよいと考えたことがエフィを不機嫌にさせる。出会って間もないというのに、期待だけ植え付けてそれを裏切られるのには腹が立つ。
 黒い橋の上をひたひたと歩きながら、エフィは陰鬱な気分になってくることを止められなかった。一応命を助けるための術を使っておきながら、アディスなどもう知らないという気持ちになってくる。
 竜の子はここにいない相手に言いたい言葉の全てを呑み込んで固く唇を引き結ぶと、峡谷の終わりに向けての歩みを再開した。