風の青き放浪者 04

第4章 王国に吹く風

19.青の記憶

 ゆらゆらと青い光が揺れている。
 閉じているはずの瞼を透かして、青や銀や紫の光は揺れる。
 やがてそれは像を結び、美しい竪琴の音色と共に彼に一人の女性の姿を届ける。ああこれは夢なのだ、と。ようやくアディスはわかった。
 それは知っている光景だった。懐かしい記憶。彼の大切な思い出の一つとして、切り取り大事にしまっていたはずの時間。
 美しい人の白い指先が彼女の髪と同じ銀色の弦を弾き、得も言われぬ至上の音楽を生み出す。その竪琴の音と歌声に惹かれてこっそり演奏を聴いていた子どもの頃の彼に、しかし彼女は気づいていたらしい。
「そんなところにいないで出ていらっしゃい」
 びくっとして思わず口を押さえた彼に女性は優しく呼びかける。
「この竪琴が聴きたいのでしょう? 音楽は好き? 坊や」
「……わかんない。でも、お姉さんほど歌の上手な人には初めて会いました」
 王宮の中庭だった。父である宰相に連れられてやってきたものの、大人の政治の話は子どもには退屈なばかりだ。クレオとよく遊ぶ庭園の奥で、心惹く竪琴の音と歌声に出会った。青銀の髪が靡く穏やかな風の中に、その歌声は溶けていく。
 女性はアディスの頭を優しく撫でると、慈しむような眼差しを彼に向けて演奏を再開した。アディスのためにだけ奏でられる、アディスのための音楽。
 演奏が終わると、彼女はアディスに竪琴をくれた。びっくりして断ろうとしたアディスに、しかし彼女はもう一つ持っているからいいのだという。
「僕はアディス。ソヴァロの息子のアディスです」
「まぁ、宰相家の? そうなの……」
 妙なる音楽を奏でる女は、穏やかに目を細めると言った。
「私はドロシアよ」

 記憶は進む。時の針が巡る。美しい憧れの後には、奈落のような絶望が待ち受ける。

「お前が王太子か! ふん、なるほど。兄の若い頃に生き写しだ」
 国王の誕生式典後の夜会にて、王弟スタヴロスがそう言ったのだ。アディスの顔を見て。
 その後アディスは、これまで父と信じてきたソヴァロが彼に何も教えてくれないことを知り、ニネミアへと相談した。
「本当のことを知りたいんです。姉さん」
 躊躇い、目を伏せながらも、姉は口を開く。
「……あの時、私に弟ができると楽しみに待っていた日。だけど母上のお腹から生まれた子どもは、すでに息をしていなかった……」
 アディスより五歳年上のニネミアは、その時のことをおぼろげに覚えていたという。
「夜遅くに、陛下がやってきたわ。その腕に誰の子とも知れぬ赤子を抱いて。両親と陛下は何かをずっと話し合っていた。私は一人でずっと、大人たちの話し合いが終わるのを待っていた」
 十年以上、姉と思い、弟と思い共に生きてきたのだ。それがニネミアなりの愛情だったのだろう。彼女はすべてをアディスに話してくれた。
「ようやく会いに行けた母上は、陛下の連れてきた赤子を泣きながら抱きしめて、私に〝今日からこの子があなたの弟よ〟と言ったわ」

 いつからか人の目を盗み、抜け出してどこかへ行くことが得意になった。
 家の庭の隅に、幼い頃は入ることを禁じられた小さな庭園。忘れ去られそうな早桶に、与えられた名を一度も呼ばれることのなかった少年が眠っている。
 可愛そうなアディス。可愛そうな父さんの息子。彼に与えられるはずだったものを、全部自分が奪ってしまった。

 そして時は移ろい、あの日がやって来る。

 逃げ惑う人々に、幻覚の青い炎が襲いかかる。国で二番目に強いと言われる魔女が、鬼のような怒りの形相で諸侯が集う謁見の間に乗り込んできた。
 数年前の夜会でのスタヴロスの発言から危うくなった王太子クレオの地位を守るため、王子としての彼の立場を強めようとこの頃いくつかの催しが開かれていた。だがそれらは、一人日陰の身に徹する魔女の心をゆっくりと切り裂いていったらしい。
「私の子は捨てたくせに! 私に名前を呼ばせるまでもなく連れ去って殺したくせに! その子だけは何としても守るのね!」
 彼女が王の愛人だと、知る者はそれほど多くはなかった。
 そして魔女ドロシアは、次の玉座を担うべき王子に呪いをかける。
 白い指先を剣先の代わりにクレオに突き付けて、命を奪う代わりにその立場を奪うための呪いをかけた。
「お前の父が私の子を在るべき場所から連れ去ったように、私はお前に在るべき場所へと留まれぬよう呪いをかける」
「ドロシア!」「クレオ!」
 動けないクレオと、息子に近づこうとして危険だからと衛兵に止められるシグヌム王。アディスもその場にいたが、養父ソヴァロの腕が彼を抱きしめていて動けなかった。
 震える父の腕の中、震える魔女の声を聴く。
「お前は自らが産声を上げた故郷を失い、お前を慈しむ家族を失い、一つ所に留まることならず、永遠にこの世を彷徨い続けるがいい――!」

 かつて神に呪われていた国で、聖堂は恐らく冠婚葬祭の形式上以外のものではないのだろう。とある事情から出家を計画していたアディスにしても、僧侶となるのは信仰心のためなどではなかった。
 たぶんクレオも神など信じてはいない。ただ、時折人は自分より何か大きなものに縋りたくなるものなのだろう。それは人によって神だったり神獣だったり王だったり、同じ血だとか、正統だとかいう言葉だったりする。
「君が王位を継げばいい、アディス」
 色とりどりの硝子が嵌めこまれた窓から虹色の光が差し込む聖堂。クレオは諦観どころか、安堵すら漂う表情で告げた。
「何を言っているんだよ、王子殿下。僕はただの宰相の息子で、王家とは何の関係もない人間なんだよ?」
「ここまで来て強情を張るのか? 兄上。他の者だって僕よりも君の方が王に向いていると思っている。そして君の素性がどうであろうと、王子が国を継げなくなれば、宰相の息子にはその座が一番に回ってくるだろう」
「……クレオ」
 踵を返し遠ざかる華奢な背中。誰よりも誰よりも努力している王太子クレオ。例え彼の態度が人にどう見えようと、その誠意を軽んじることは許されない。

 故郷などいらないと思っていた。
 どうせ本当の意味で、故郷など自分には存在しない。
 本当の宰相の息子に与えられるはずだった名と立場を奪ったのだ。その代わりに本来自分として与えられるべきものを失った。
 〝自分〟がまず存在しないのに、故郷も何もないだろう?

「良いのですか? アディス殿。わたくしの力では、風の魔女と呼ばれたドロシアの呪いを完全に打ち消すことはできません。風属性の呪いは異なる属性をお持ちの殿下よりも、同じ風属性であるあなたにより深く結び付く。一度宿命を取り換えてしまえば、もう元に戻すことはできませんよ」
 薄く細い布を幾重にも重ねて両の眼を隠した白髪の女が、最後の確認をする。
「かまいません。大魔女ミラよ、我儘を聞いてくれてありがとう」
 アディスは丁寧に一礼する。盲目でも不思議な力で世界を見通すミラには伝わっているだろう。
「父上はお怒りになるだろうけれど、仕方がない。それにどうせ私は将来僧侶になる予定だったんだし、家を出るのが少しばかり早くなったと思えばいいだけさ」
 この世界をどれだけ彷徨い歩こうとも決して定住者にはなれないという〝放浪〟の呪い。
 アディスはクレオにかけられたそれを引き受けることで、王位継承問題を決着させる気だった。
「還る場所がないということ、お若いあなたには想像もつかないでしょう。けれどそれは存外の苦しみですよ。あなたがどれほど賢明な若者でも、その圧倒的なまでの孤独と絶望は味わってみなければわからないでしょう」
 英雄王の時代から生き続けているという魔女は、すでに何人もの死を見送ってきた。気の置けない家族や友人が二度と自分を迎えてはくれないという意味では、彼女もまたすでに故郷を持たぬ存在なのだろう。
「そうでしょうね。ですが偉大なる魔女よ、他に方法がありますか?」
 ミラには多分すべてお見通しだ。アディスはなんとなくそれを知っていた。彼女はきっと、クレオの悲しみもアディスの決意と秘めた想いも、すべてを知っていて運命を取り換える魔術をかけてくれた。
 これで祖国を失うのだという思いと、これでようやくこの胡乱な立場から解放されるのだという、虚ろな喜びが胸に響く。
 アディスにとって、この問題はこれで終わったはずだったのだ。

 ゆらゆらと光が揺れる。
 青い光と白に銀、紫の光。それらが揺らぎ、交わり、絡まって、やがて虹色の風となる。
 青々とした葉が、雪のように次から次へと彼の上に降り積もっていた。蹲って両手で顔を覆うアディスの髪を、肩を滑り落ちていく。それらの葉はアディスが蹲る水面に触れると、音もなく沈み湖の中に溶けて行った。
「……もういい。もうやめてくれ。これ以上僕に思い出させないでくれ。もう忘れさせてくれ」
 失くして捨てたはずだった、王の隠し子という立場。だが英雄王の末裔としての役目は、どこまで逃げても彼を追ってくる。
 竜の子も墓守の魔女も、必要としているのは彼ではない。二人が求めているのは、英雄王の子孫なのだ。もしもクレオが呪いをかけられたまま旅に出て彼らに出会っていたら、きっと彼らはクレオを心から歓迎し、友愛を抱いたに違いない。
 遺跡の中で橋から落ちかけたアディスの腕を掴んでくれたゾイ。だけど彼だって、アディスに他の誰かを重ねて見ていただけだ。
 玉座に近い血も、権力者の椅子も、あらゆるものを持っているのに、アディスはアディス自身にだけはなれないのだ。
「ミラ」
 アディスはこの場に彼を引き込み、この夢を見せているのだろう魔女の名を呼んだ。
「何故こんなことをしたんだ?」
「……あなたを助けたのですよ。ドロシアに眠らされ、意識までも捕らえられたあなたを」
「……そりゃどうも」
 投げやりな返事に、女は気を悪くした様子を見せなかった。立ち上がって景色をよく見れば、ここはアディスがエリピア遺跡に辿り着く前に迷い込んだあの湖だ。水の中に無数の本が沈んでいる。アディスはその水面に立っていた。
「ここは知識の泉だと言っていたね。世界中の知識と記録が集う場所だと。ひょっとしてその中から、僕にあんな夢を見せた?」
「いいえ。あなた自身がすでに答を出しているでしょう。あれはあなたの見た夢。そして夢とは起きている間に得た情報を整理するためのものであって、記憶にないことを夢に見ることはできません」
「そうか……」
 ランフォスを捕らえる眠りの術の核になったという人々の気持ちが、アディスには痛いほどよくわかる。この現実の辛いことや憎いこと、受け止めがたい真実の全てが、いっそ夢であったなら。そんな気持ちは誰もが少なからず持ち合わせるものだ。
 けれど夢は、醒めるからこそ夢なのだ。
「ミラ」
「はい」
「――あなたは僕に何を期待している?」
 アディスはいつもの飄々とした態度とは違う、真剣な眼差しでミラを睨んだ。
「エフィを目覚めさせるよう、僕をエリピア遺跡に誘導したのはあなただ」
「私はランフォスよりも、エフィアルティス様の方がクラヴィス様のお血筋にふさわしいと思っているだけ。孤独な竜王の魂を救えるのは、エクレシア王族でありながら風の性を持つあなたしかいない」
「あなたは僕がすることを、全て預言で知っていたんではないのか」
 千里眼の魔女は怪しく微笑む。
「私にも見えるものと見えないものがございます」
 その見えない目に何が視えているのか、アディスには想像もつかない。だがミラが彼女なりの思惑を持って、これまでずっと動いていたのは確かなのだ。何故ならランフォスの神獣の気配を識別できるはずの彼女は、スタヴロスの連れた聖獣が偽物だと知りながらずっと沈黙していたのだから。
 ミラが手を振ると、アディスの脳裏にまた新しい映像が流れ込んできた。

 手に持つ長い剣が血に濡れている。
 これはアディス自身の記憶ではない。
 目の前には人形のように美しい一人の青年が血に濡れてくずおれている。虹色の髪、その顔立ちにも見覚えがある。
 歳を経てもそれだけは変わらない虹色の瞳には絶望が浮かんでいた。
『クラヴィス……?』
 伸ばされた手を、目線の主は掴まない。
 歪んだ泣き顔を冷然と見送る。
 力と命を失ってぐったりとした体を、抱き上げて棺に入れた。その途中で相手の目がぱちりと開く。
『どうして……』
 答えることはできない。
 多分言葉では伝わらない。
 絶望的にすれ違ったまま、流された血が強制的に一つの終わりを与えた。
『エフィアルティス、お前は――』
 聞き取れないほどに微かな、まるで自らの方が痛いような顔をした英雄王の囁き。
『クラヴィス、どうして』

 ――アディスには答えられない。
「エフィ!」
 これが、彼の記憶。否、それをなしたクラヴィス王の記憶。
 エリピアで目覚めた時にエフィが転生体――卵の状態だったことは、彼が一度死んだことを示す。
 それをしたのが、エフィアルティスを殺したのが、他でもないクラヴィスなのだ。
「……何を伝えたいんだ。こんなものを見せて」
 アディスの胸を空虚が抉る。
 こうやって裏切られたのだ。あの竜の子は。
 だからアディスのことを気にかけずにはいられない。クラヴィスの血を引きながら、クラヴィスではないからという理由でアディスを契約者として求める。
 ミラは寂しげに微笑んだ。
「英雄王はかつて、魔王を倒したと伝えられています。けれど、それは本当のことでしょうか?」
 アディスは息を呑んだ。
「ミラ、何が言いたい?」
「伝説なんて、後世が勝手に作るもの。そして真実はその時を英雄と共に過ごした人間にしかわかりません。クラヴィス王は魔王を倒しはしましたが、不死身である魔王を殺しきることができませんでした。だから彼は最終的に殺害ではなく、封印という手段を取ったのです」
 封印?
 その言葉をアディスはすでにどこかで聞いている。
 英雄王は竜王をカタフィギオ遺跡に封印し――。
 エフィの羽根が記憶していた、血の付いた剣を握る英雄王。
 彼はそもそも、何故エフィを封印したのか。
「まさか――」
「ええ。クラヴィス王は、魔王をエフィアルティス様の中に封印したのです」

 エフィの中に、魔王がいる。

「私はクラヴィス王の仲間と呼ばれますが、その最も重要な決断がなされた場合には立ち会えませんでした。だからそれがお二人の合意であったのか、それともクラヴィス王の独断だったのかわかりません。けれど当時の状況で魔王をその身に封じることが可能な存在は、エフィアルティス様だけでした。だからクラヴィス様を責めることもできません」
「エフィは……何も知らない様子だった」
 いや、わからない。あの竜の子どもは肝心なところで本心を見せない。否、見せているのかもしれないが、アディスがそれを掴みきれていないだけだ。エフィが見ている者は英雄王クラヴィスの影であり、それは時々ここにいるアディスの像と重ならないことがある。
「彼は少なくとも御自分の中に魔王が封じられているということは知っています。けれど、それがどういう経緯でなされたものなのかは、忘れてしまったのかもしれません」
「忘れる?」
「ええ。いくら世界を救うためとはいえ、クラヴィス王はエフィアルティス様に無理強いするようなお方ではありませんでしたから、私はあのことはお二人の合意の上だったのだろうと考えています。けれどエフィアルティス様の様子だけを見ていると、どうもそのようには思えません。けれど彼は魔王を受け入れたことで、記憶の一部を欠損したり性格が少し変化した可能性もあります」
「エフィは……クラヴィス王に恨みを持っている様子だった」
 恨み? いや、違う。
「クラヴィス王が自分を守護聖獣として選ばず、ランフォスを選んで自分を置き去りにしたのだと考えている」
 エフィがアディスに執着するのは、アディスがクラヴィスの子孫だからだ。あれから数百年の時が過ぎクラヴィス王本人がいなくなった今となっても、エフィはまだ彼の存在に囚われている。
 胸が軋んだ。小さな針を差し込まれたように、じんわりと痛みが広がる。
「そろそろお迎えが来たようですよ」
 ミラがふいに空を指差した。青から紫に変わるその色の向こうから、聞き覚えのある声が自分の名を呼ぶ。
『アディス様!』
『アディス!』
「ルルディ……それにゾイ? どうして彼が……」
 不思議に思うが、警戒心は抱かなかった。
 彼らの声を聴いた途端、アディスは自分が目を覚まさなければいけない、と強く感じた。二人が自分を待っている。だから早く起きなければ。
 足元からその姿が薄れ、風になって大気に溶けていく。魔女はそれを静かに見送った。
 そして深い水に知識を湛えた泉と、空を支える樹は、彼がいなくなった瞬間にそこから消えたのだった。