夢術師の子守唄

夢術師の子守唄

1.出会いは悪夢にて

 今日もまた疲労に追い立てられて滑り込んだ眠りの中で、彼は悪夢に追われていた。
 足下には白と黒の正方形が交互に並び、無限に連なって長い長い廊下を形成している。チェス盤にも似た床と、美術館のような壁。曖昧模糊とした霧の中に薄らと景色を描いたらしい風景画が並んでいる。
 これは夢だ。それはディーターにもわかっている。その夢の中で、ディーターはチェスの駒のような怪物たちに追いかけられていた。
 まるで女王や騎士や歩兵といった様子の無数の黒い影が、ディーターを追いかけてくる。自分が何故逃げているのかは、ディーターにもわからない。それでも彼は、逃げなければ、と思った。
 華やかなドレス、厳めしい甲冑に身を包んだ黒い影。顔のない駒たちがディーターを追いかけてくる。
 白と黒の正方形が連綿と続く廊下は長い。その果てには豪華な玉座があって、誰かがそこに座っているのがわかる。
 けれど、肝心なその人物の顔はやはり見えない。ほっそりとした身を包むドレスの輪郭から女性ではないかと思うが、それだけだ。
 ディーターがいくら走っても、その玉座には決して辿り着けないのだ。果てがないのではなく、辿り着けない道の終点。終わらない廊下を彼は自分を追いかけてくるチェス駒から逃げるために走り続ける。
 それが、ディーターの悪夢だった。
 息を切らして喘ぐところに突然の衝撃が加わり、彼は転んだ。
「うわっ!」
 駒の一つがディーターの足首を掴んでいた。迫った歩兵が槍を振り上げる。
 ――刺される!
 これが痛みもない夢だとわかっていてもそれが精神に与える不快な衝撃から身を守ろうと、ディーターは頭を庇い目を瞑った。
けれど彼が予期した衝撃は、いつまでたってもやってこなかった。
「いつまでそこに転がっているの? そんなとこにいると踏み潰されるわよ?」
「……え?」
 声がした。
 可愛らしい少女の声だ。
 慌てて顔を上げたディーターの視界に、これまで彼の夢の中には存在していなかった人影が映る。それどころか、その人影はこれまでのチェス駒たちのように彼を襲うこともなく、そして喋った。
 ディーターが追われ続けるこの悪夢の中で、彼はこれまで自分以外の「人間」に出会ったことはなかった。
 だが、その少女は人間だ。少なくともそう見える。チェス駒や人形ではない。
 深く光沢のあるベルベットのように艶めく紅の髪。海の底を覗いたような青い瞳。
 整った顔立ちの美少女だが、それよりも人目を惹くのは彼女の片目が隠されていることにあった。こめかみの辺りから黒いリボンと造花の青い薔薇を飾り、頬の半ばまで雪崩れたその髪が右目を完全に覆い隠している。
 黒いドレスのスカートは短く、その裾は山のような白いフリルで飾られていた。胸元にも髪と同じ真紅のリボンと青い薔薇。年の頃は彼と似たようなものだが、住む世界はなんだかとっても別のようだ。
 煌びやかな衣装を身に着けてはいるが、それはこの悪夢の中の駒たちのような貴族的な様式ではなく、どちらかと言えば道化役者に似ていた。
そして少女は右手に装飾的な小さなナイフを、左手に閉じたパラソルを握っている。
 足元には謎の生物のぬいぐるみ。毛むくじゃらの熊のような胴に象のような長い鼻、牛っぽい尻尾。いくつかの動物の特徴をつぎはぎにしたような、何の動物だかよくわからない。そのぬいぐるみもまた喋る。ぬいぐるみ――ではないのか?
「レリカ、この夢の中に砂時計はないよ」
「本当ね。この夢を根城にする夢魔はいないということ。手早く済みそうで嬉しいわ」
 嬉しいという台詞とは裏腹の冷めた顔つきで、少女は手近な駒にナイフを振るった。
 ナイフで斬られた瞬間、チェス駒はまるで泡のように無数の光に分解されて消えてしまった。その後に、小さな丸い物がころんと落ちる。
「……飴?」
 少女はナイフ一本で、襲い掛かるチェス駒たちをあっという間に倒してしまった。彼女のナイフで斬られた駒は光の粒となって消え、その後には小さな飴がころんころんと落ちる。ぬいぐるみのような謎生物がその飴を拾い集めて小さな瓶の中に入れていた。
「これで全部?」
「そのようだね」
 少女が全ての駒を倒しきりあたりを見回すと、謎の生物が頷いた。
 小瓶の中の飴を一粒口にして、彼女はしかめ面になった。低い声で不機嫌に叫ぶ。
「まずい!」
 少女はディーターに指を突きつけた。
「ちょっと坊や。あなたの悪夢まずいわよ!」
「え? ちょ、そ、それに対して俺はどういう反応をすればいいの?」
 あまりのわけのわからなさに、ディーターはもう何を言えばいいのかわからなかった。
「まぁいいわ。これだけあればしばらくはもつでしょうしね」
 少女はそう言うと、謎生物に手を差し伸べて片手で抱き上げた。いつの間にかナイフをしまい歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 この事態について何の説明もしてもらってない。わけがわからない。ディーターはそう言って彼女を引き留めようとしたが、少女の反応は薄かった。
「別にいいでしょ。これで悪夢から解放されるんだから」
「よくないよ。まったくわけがわからない。君は一体、何者なんだ?」
「私は夢術師(むじゅつし)のレリカ。夢を喰らう者。あなたの悪夢を喰らった者」
 夢術師? またしても首を傾げるディーターの様子には構わず、少女はそれだけ告げると踵を返す。
「って、ちょっと待って!」
 追いかけようとするディーターだが、突然足が動かなくなった。
今度彼を襲ったのは、突然の眠気だ。薄れていく意識の中、少女の歌声が聞こえる。

「おやすみなさい。良い夢を」

「!」
 夢の中で完全に意識を失った次の瞬間、ディーターは現実で目覚めた。
 朝だ。いつの間にか夜が明けている。
 直前まで見ていたあの夢のせいでまるで寝た気がしないのに、ここ数日の睡眠不足でたまった疲労はすっかりとれていた。
「な……なんだったんだ? あれ?」
 ディーターはもう一度頭をはっきりさせるように首を横に振る。
 そして夢の残滓を引きずったまま、彼は隣の寝台で眠り続ける姉の様子を見た。
 粗末な木の寝台に横たわるマーレは今日も眠り姫さながらに美しく穏やかな寝顔を見せている。相変わらず目覚める様子はない。
 ――そう、彼女は目覚めない。
 ある日突然仕事中に倒れたというマーレは、そのままずっと眠り続けている。医者に見せても特に病や怪我といった身体的な異常は見つからず、原因不明のまま、昏々と一か月も目を覚まさない。
 眠り込んだ一か月の間、マーレは意識を取り戻すこともなく、食事をとることもないままだ。尋常な事態でないのは誰の目にも明らかで、しかし解決方法は誰にもわからない。
 姉の看病を続けるディーターも最近では精神的に疲れを覚えてきた。この頃は眠りが浅く、悪夢もよく見るようになった。
 そして、今日もまた疲労に追い立てられて滑り込んだ眠りの中で、彼は悪夢に追われた。
 そこで出会ったのが、あの紅い髪の少女だったのだ。
「夢術師……」
 これまでディーターは、マーレの昏睡の原因を病か何かではないかと考えていた。医師は彼女の身体に何も異常がないことを伝えていたが、たまたま発見しにくい病だったのかもしれないと。
 けれど昨日から今朝方にかけての奇妙な悪夢の中であの少女と出会ったことで、彼の中にこれまでとは違う考えが生まれた。
 呪術や魔術と言った言葉は、今では子供向けのお伽噺の中だけに存在するとされている。今年十四歳になるディーターだってもちろん、悪魔や幽霊などという言葉を本気で信じているわけではなかった。
 けれど、あの夢。
 レリカと呼ばれていた少女は確かに「夢魔」と口にした。
 かつて彼が片手の指の数ほどの子どもだった頃、十四歳年上の姉から寝物語に聞かされたお話の数々を思い出す。夢魔、それは人の夢に入り込み悪夢を見せ、人の精気を奪うとか、魂を持っていくとかいう魔物のことだ。
 ディーターがもう少し大きくなると耳年増の多い下町の子どもの常で、夢魔は淫魔と呼ばれ夢の中で人間の精液を奪うとか逆に女性を妊娠させるだとかの話もいろいろなところで聞かされることがあったが、どちらにしろその魔物が、夢に入り込むという話には変わりない。
 そう、夢。
 ディーターは姉の寝顔に視線を向ける。
 マーレはまるで幸せな夢でも見ているかのように、穏やかな顔で眠り続けている。
「……姉さん」
 気が弱いと評されることも多い優男である姉の婚約者の顔を思い浮かべながら、マーレに静かに語りかける。
「どうして目を覚まさないの? スヴェンさんは姉さんと結婚できる日のこと、ずっとずっと、待っているのに」
 淫魔は人を誘惑するために、その人の理想の異性の姿となって夢に現れるという。結婚を間近に控えた姉がそんなものに囚われているとは思いたくはないが、外傷も病もなく一か月も眠り続けている彼女の状態は、そうでもなければ説明がつかない。
 ディーターは決意した。
 あの紅い髪の不思議な少女を探そう。もしも姉が本当に夢に囚われているというなら、彼女に近づくことが、真相への近道になるかもしれない。