WALTZ―悪魔と踊れ―
1.ハッピーエンドの舞台裏
物語のお姫様はいつも心も姿も美しくいて、そして王子様は格好良く、正義と愛を貫かねばならないらしい。
昨今のシャロン王国で流行りの小説も、貧しいが美しい娘が王子と恋仲になり、もともと王子の婚約者だった性格の悪いお姫様を押しのけて王子の妃になるところで幕を閉じている。
そう、昨今人気の小説では、王子は婚約者を捨てて名もない美しい娘と結ばれてめでたしめでたし……
でも、王子様と本来結婚するはずだった、捨てられたお姫様の方は?
◆◆◆◆◆
「そりゃ、災難でしたねぇ」
灰色の髪に緑色の眼の男は、心底同情するように言った。
「そうなんです」
憐れまれた少女の方は、これもまた深い溜め息をついて頷く。災難と言って良いのかどうかわからないが、とにかく今男に話したのは、彼女にとってはとんでもない話だった。
男の名はエヴァト。ガイアード王国の王宮内部にある図書室の司書であるが、この際彼の話は一度脇に置いておこう。
少女の名はマルジャーナ=リィンディル=レイア=エマスト=シャロン。やたらめったらに長い名前は、彼女について一つのことを示している。略称マルジャーナ=シャロンと呼ばれる彼女は、シャロン国の王女だ。
マルジャーナの容姿は、茶髪に茶色い瞳。ここで榛の髪だとか、鳶色の瞳だとか、そんな修飾語は出ない。特に変哲もない茶髪。見事なとか美しいだとか呼ばれない平々凡々な容姿。美人でもないが醜くもない、特段太ってもいなければ身体の凹凸がはっきりしているわけでもない。王女という肩書きの割には、どこにでもいそうな普通の女の子だ。
年の頃は今年で十六歳。王族で十六歳と言えば結婚適齢期である。とは言っても彼ら彼女ら王族は自ら恋をして結婚相手を選ぶということは滅多になく、大抵は国同士の取り決めた婚約者と政治的な用向きに従って結婚する。マルジャーナも例外ではなく、本来シャロンの王女であるはずの彼女が何故現在ガイアード王国にいるのかと言えば、彼女はこのガイアードの世継ぎの王子ヴィルダーシュと結婚するはず「だった」からだ。
何故「だった」と過去形なのか?
「はぁ……姫様ではなく、その侍女に一目惚れで婚約破棄ねぇ……うちのバカ王子本当にバカだとは思っていたが、まさかそんなにバカだったとは……」
自国の王子をバカバカと連呼して貶すのはエヴァトが凄いのか? それともそんなにヴィルダーシュ王子がアレなのか? それはともかく、エヴァトの言葉通り、彼女はありていに言ってしまえば、王子にフラれたのだ。
「ヴィルダーシュ王子に正式にお会いしたことはないのでまだなんとも言えませんが、そうなんです。わたくしは、婚約破棄だそうです……そしてわたくしの代わりに、どうやらアマンダが王子と結婚するようですよ」
頬に手を当てていかにも困ったわ、と言う表情をしながら、マルジャーナは説明を続けた。アマンダとは王子に見初められた、彼女の侍女の名前である。
「ええと、その侍女殿があのバ…王子と? ですがそれだと、姫君が……」
「ええ。そうです。理由なく婚約を破棄され王子が別の人と結婚して国に送り返されたとなれば、わたくしへの諸国の評価は下がるでしょう。誰もわたくしを娶ってはくれなくなるかもしれません。そのため、この国のアキレアス国王陛下は息子の不始末だとして、ヴィルダーシュ殿下から王位継承権を剥奪し、弟君へと王太子の座を譲られるそうですよ」
マルジャーナはそう説明するが、なまじ彼女よりガイアード国民として国の内情に詳しいエヴァトは複雑な顔をした。
「ったって……あの王子はまだ三歳の弟に素直に王位を譲るような性格じゃないですよ? もめるんじゃないですか?」
「もめていますわ、物凄く。シャロンへの報告も実は正式にはまだなのです。だからわたくしはガイアード上層部の話し合いがまとまるまでこの国への逗留を頼まれまして、本来王子と会う予定だった時間が有り余っているためにこちらへと足を運んだのですが……」
「そうだったんですか。大したおもてなしもいたしませんで、申し訳ない」
王宮司書であるエヴァトが今更ながら頭を下げる。マルジャーナはそんなことありませんよ、と微笑んで彼に言葉をかけた。
ヴィルダーシュとマルジャーナの侍女アマンダのことは、ガイアード王宮に住む者であれば誰もが知っているが、城の外にまではまだ伝わっていない。ガイアード王国としては王子の醜聞で他国につけ込まれぬようにさっさと事を片付けたいのだが、王位継承権の話が上手くいっていないと聞く。
王太子が失礼をした相手であるマルジャーナは第一級の賓客であるが、同時に漏らされてはまずい秘密の持ち主ということにもなる。彼女が王宮の外に出て王太子の悪口など言いふらしてはたまらないので、ガイアード側としてはとにかくマルジャーナを目の届く範囲である王宮内に留め置き、シャロンへの体裁を保ったままに事を収めなければならない。
本来であればマルジャーナの接待は婚約者であるヴィルダーシュの役割であったのだが。
「私はあの姫君とは一切親交を深める気はありません!」
ヴィルダーシュ王子は何故か、マルジャーナとの面会を頑なに拒否していた。今ここにマルジャーナが訪れている時間は本来なら婚約者である王太子ヴィルダーシュと親交を深めるはずだった時間である。
暇を持て余してふらふらと王宮内を歩き回っていたマルジャーナが見つけたのが、この図書室である。どこの国でもそうだが、王宮の図書室というのは広い。国中の書物がそこに集まり高名な学者がそこで研究するのであり、国内の市民図書館とは違って資料は豊富だが利用者は一部の者だけであり少ない。
アマンダのことがあって侍女や侍従を連れ歩きたい気分ではなくなり、周囲も彼女を慮って警備に最大の注意を払いながらもマルジャーナを一人にしてくれた結果が、今ここで隣国でありフラれた王子の国であるガイアード王宮図書室で司書の一人とのお喋りである。
ガイアードはシャロンよりも多少国土が広いが、国力的には拮抗したものを持つ隣国だ。その図書室はさすがとしか言いようのないものだった。本が好きで自国でも図書室をよく訪れていたマルジャーナの目にもその立派さが窺える。彼女が自国でもお目にかかったことがないような稀少本が埃の一つも被らずに飴色の書架に並んでいる様は感嘆の吐息も漏れようというものだ。
床の絨毯は疲れた目にも優しい淡い緑。背の高い書架の本がいつでもとれるように、脚立が部屋の隅に配置されている。
彼女が訪れた時、図書室には一人だけ司書がいた。この王宮に住みながら司書として借りに来る者も少ない図書室の管理をしているのは、エヴァト=ノール。灰色の髪を適当に一つに結び垂らした、三十歳の男性である。
マルジャーナからすればあまりにも暇そうなその様子に名ばかりの司書なのではないかと疑われている彼は、実際は有能で数々の仕事をこなし……などということはなく、本当に暇だった。暇になってしまったシャロン王女といつも暇らしいガイアード王宮司書は、返却カウンターを間に向かい合って話す。
「どうもありがとう。あなたとお話ができて、とっても楽しかったわ。よかったら、またここに来てもいいですか?」
王女と司書。王宮に勤めているからと言って王宮司書は別に貴族でもなければ偉い人でも何でもない。身分差のある二人だが、日が暮れて鴉が鳴き始めマルジャーナが晩餐に戻る頃にはかなり打ち解けていた。また来てもいいかと尋ねたマルジャーナに、人は良いが物怖じという言葉からは程遠そうな王宮司書はにこにこと頷いて返す。
「ええ。どうぞどうぞ。俺も大概暇なもんで、姫君さえ良ければぜひぜひお立ち寄りください。王子の悪口でも王様の悪口でもなんでも聞きますよ」
今日はどちらかと言えばエヴァトの方がヴィルダーシュの悪口に費やしていたような気もするが、マルジャーナは細かいことは追求せず微笑んで図書室を後にした。
◆◆◆◆◆
ガイアード王国の西にシャロン王国があり、両国は友好関係を保っている。ガイアードの第一王子にして王太子ヴィルダーシュとシャロンの第一王女マルジャーナの婚約は、元はと言えばガイアードのアキレアス王がシャロン王に持ちかけた話だった。
それには、ガイアードという国の事情が大きく関係する。ガイアードの西隣はシャロン、そして東隣には、ゼルヴェックという国がある。このゼルヴェック王国とガイアード王国は、五年ほど前に戦争をしている。両国は以前より不仲で小競り合いが絶えなかったのだが、五年前の戦争は特に大きなものだったという。その戦争では、アキレアス王の弟である、ガイアード王国一の戦上手、リュグベール公爵が亡くなった。
ガイアードの北と南の国は、二つの国の戦争に関わる意志はないと表明している。この二国のうち北はその向こうの国々との情勢を保つのに精一杯で、南は宗教国家であるためにどこの国の戦争とも関わらないと明言しているためだ。
よって、ガイアード王国が次に東の隣国ゼルヴェックに攻め入られた際に頼りになりそうなのは、自国と同じくらいの国力を持つ西の隣国シャロンしかない。ガイアード側にとっては、今度のヴィルダーシュ王子とマルジャーナ姫との結婚によってどうしてもシャロンとの友好を深めたいものであった。要するに完全な政略結婚だ。
もっともそれがなくともガイアード王とシャロン王は旧知の仲であり、子どもたちをお互いの国の王族と結婚させようかという話はあったのだが……どちらにしろ彼ら二国の王の目論見は、ガイアード世継ぎの王子ヴィルダーシュの行動によって崩れ去ることになる。
ヴィルダーシュが許婚であるマルジャーナと正式に対面する前に恋をしてしまったのは、よりにもよって彼女ではなくその侍女であるアマンダ=リズアー。ちなみにアマンダはマルジャーナの侍女であり一番の友人でもあって、正式な対面こそないが王子がその姿を見かけたのは、マルジャーナとアマンダが一緒にいるときだったらしい。
そこで何で王女じゃなくてその侍女に恋するんだ! と周囲に叱られながらも、ヴィルダーシュ王子は己の意見を曲げなかった。この王子、顔はそこそこ整っている上に武芸も学問もそれなりにこなし、しかも頑固で有名だ。
これがとびきり無能だったり悪魔のように性格が悪かったりすれば周囲も王子の後頭を殴り飛ばしてふんじばってでもマルジャーナに差し出すのであるが、いかんせん突出して優秀というわけではないが何でもそつなくこなし国民の人気もある王子は、それなりに周囲に愛されていた。
ガイアードとシャロンの友好は大事だが、何もヴィルダーシュに全てを負わせなくても両国にはまだ王子、王女がいる。幸いマルジャーナは穏やかな気性の姫であり、正式な対面がまだであったためかヴィルダーシュに対する未練もないようだ。王子に甘いガイアードの面々はそう見て取り、なんとか姫の体面を潰さずに婚約を破棄する計画を練っていた。
もっとも彼らが穏やかで大人しそうだと判断し、この婚約に未練がなさそうだと思ったマルジャーナが本当にそうであるかは、本人のみぞ知るところなのだが。