愛玩

愛玩

01

 金髪の少年はいつものように、父の秘書に我儘を言った。淡い茶髪の男は困った顔をして、小さな主の前に頭を垂れる。
「坊ちゃま。それはいけません」
「なんだよ! 僕の言うことが聞けないってのか! 使用人のくせに生意気だぞ! ルーファス」
 男が跪くのは少年ではなく、その父親の権力だ。だがそれを理解していない、父の名を出せば誰もが自分の前にひれ伏す状況に快感を覚えている少年は男の言うことをまったく聞きはしない。
 この光景はヴァランタンの屋敷の中では日常茶飯事だった。ヴァランタン公爵の息子であるアイオンが我儘を言い、それに秘書のルーファスが振りまわされる。ルーファスはいつも根気強く穏やかに話しかけてアイオンを諭そうとするのだが、大抵それは無駄な努力に終わっていた。
 アイオンの我儘はあれが欲しいこれが欲しいと言った無邪気な欲求から、時には気にいらない相手に罰を与えてくれなどといった無体なものまで多岐に渡った。前者はまだしも後者に関してはルーファスの一存どころか、時には公爵自身にも決められない問題である。十二歳にもならない子どもが権力を振りまわすことの危険性をルーファスは訥々とアイオンに言い含めたが小さな暴君には聞き入れられなかったようだ。
 自分の「命令」が聞き入れられないと知り、またしても子どもは癇癪を起こした。アイオンはテーブルの上の花瓶を無造作に床にたたき落とす。ガシャンと陶器の割れる音がして、中の水と花がぶちまけられた。
「坊ちゃま!」
「僕に指図するな! ふん、片付けておけよ」
 傲慢な少年は小さな肩を怒らせて部屋の外へと出ていく。ルーファスは深く溜息をついた。
「ルーファス様、ここは私が。ルーファス様はどうぞお着替えの方を」
「すまないね、アニー」
 同じ部屋の中にいたメイドがさっと片付けを申し出る。アイオンはルーファス自身に花瓶を片付けろと命じたつもりだろうが、もともとこれらの仕事はルーファスのものではなく、彼女たちメイドの仕事だ。それにルーファスはこの後アイオンの父であるヴァランタン侯爵の元に赴かねばならない。花瓶の水がかかったせいで、火急の用だと言われたのにルーファスは着替えをしなければならない状態に陥ってしまった。
「まったく、坊ちゃまの我儘にも困ったものです。旦那様の右腕であるルーファス様をまるで下男か何かのように」
「私のことはいいよ。それよりアニー、これから着替えるから、暇があったら私の分の新しいシャツをおろしておいてくれ」
「あ、はい。かしこまりました」
 おしゃべりなメイドの意識をやんわりと仕事に向けさせ、ルーファスは一度着替えのために部屋に戻りながら暗く呟く。
「……あんな風にしていられるのも今のうちだ」
 その呟きを聞く者は誰もいなかった。

 ◆◆◆◆◆

「……は?」
「ですから、あなたは今日からヴァランタン公爵嫡子という身分ではないのです。アイオン様」
 少年には目の前の男の言っている台詞がすぐには理解できなかった。
 ルーファスはいつにもまして輝かんばかりの笑顔だった。自らの道行きに何の恐れもない者だけが浮かべるとびきりの笑顔。
 しかし彼の口から語られる言葉は、アイオンにとっては悪夢でしかなかった。
「なん……だって……」
「あなたの御父上の財産は私がいただきました。公爵閣下は事業に失敗し、私に借金を作ったんです。その返済として、閣下の財産は私が全て差し押さえさせていただきました。もちろん、財産の中には御子息であられる“アイオン”――あなたのことも含まれていますよ」
「いきなり何を」
「もう決まったことです。坊ちゃま」
「……嘘だ!」
 アイオンはルーファスを突き飛ばし、部屋の外へと飛び出した。少年の力によろめくような男ではないがルーファスは抵抗せず、アイオンが取り乱す様さえ楽しむように道を開けた。
「父上!」
 少年は家族の姿を求めて屋敷中を駆け回る。今日は朝からおかしかった。いつも詰めているはずのメイドも使用人も何故いない? 先程彼の身支度を整えに来た執事さえもそれ以来姿を見せないで、どの部屋の扉を開けても空っぽだ。
「坊ちゃま」
「サヴァン! 父上は――」
 一回りして屋敷の玄関にやってきたアイオンは、そこでようやく公爵家に長年仕えた壮年の執事の姿を見つけた。
 いつも落ち着いていて頼りがいのあるこの執事なら、きっと父の所在もこの馬鹿げた状況のことも教えてくれるはずだ。そうして階段下の彼へと視線を向けた少年は、凍りついたように動けなくなった。
「父、上」
 臭気を発するにはまだ時間が経っておらず、しかしこれだけ近づけば生臭い錆びた血の匂いが漂ってくる。玄関ホールの床を赤く染めて、見慣れた死体が三つ積み上がっていた。
「父上、母上、シャイナ!」
 両親と妹、彼以外の家族が紅い血だまりにその身を横たえている。父と妹は胸と腹、母は背中を斬り裂かれて「中身」を露出していた。思わずこみ上げた吐き気を、少年は懸命に堪える。世界が揺れている。
 アイオンは恐慌状態に陥った。一体誰がこんなことを――。
「サヴァン、こ、これ」
「坊ちゃま。少々お待ち下さい。あの方がすぐにいらっしゃるでしょうから」
 執事はこの惨劇にも顔色一つ変えず、アイオンの言葉を軽く封じた。よく見れば彼はまだ赤い血の滴る剣を引っ提げている。
 愕然とする少年が腰を抜かして動けないうちに、階段下から足音が聞こえた。
「おや。こちらでしたか、坊ちゃま」
「ルーファス……父上が……」
「ええ。死んでいただきました。この公爵家の力を、完全に私のものにするために」
「――え?」
 現れたルーファスは笑顔だった。晴れやかなその表情はまるで、彼には何一つ後ろ暗いことなどないと主張するかのようだ。しかし男の口から発された言葉は、その笑顔とは裏腹に血塗られている。
「閣下は矜持の高い方で大変でしたよ。家族ともども私に跪くならばお命だけは助けて差し上げると申し上げましたのに、最期までうんと言わなかった。娘は売り飛ばそうかと思いましたが、この器量じゃ売れませんからね」
 金髪碧眼の明らかに貴族然とした雰囲気のアイオンに比べれば、妹のシャイナは確かに不美人だ。しかしそれを天気の話でもするかのように当然と口にした目の前の男がアイオンには信じられない。
「ルーファス……」
「何を驚いているんです? 坊ちゃま。理不尽だとでもお思いですか? こんなこと、あなたの父上やそのまた父上がずっとやってきたことでしょう」
「だって、お前が……」
「私が、なんだと言うのです? 私はいつもと変わりはしませんよ。ああ、あなたはもしかしたら、私が作り上げたあなたに都合のよい真面目で気弱な男の仮面を信じていたのかもしれませんが」
「嘘……」
 急に全身から力が抜けて、アイオンはその場にへたりこんだ。頭がぐらぐらと揺れる。この場の全てが悪い夢のようだ。
 少年はいまだ知らなかった。本当の悪夢というものを。
「どうします? 坊ちゃま。あなたも父君たちと同じように、私の手を拒絶して野垂れ死にますか? それとも――私に“かわれ”ますか?」
 サヴァンがまるで初めからルーファスに仕えていたかのように自然な足取りで若い男の隣に立ち、主人然とした青年に血染めの剣を差し出した。アイオンがルーファスの手を振り払えば、きっと両親や妹と同じようにその剣で切り刻まれるに違いない。
 怖かった。何もかも。家族が死んだことも裏切った執事も、何より目の前で笑う男が。
「お……お願い。殺さないで」
「“お願いします”、でしょう? ちゃんとおねだりが出来ない仔は、私はいりませんよ」
 優男はその面に残酷な笑みを浮かべて少年に服従を強要する。
「お願い、します」
「“これからはルーファス様の言うことをなんでも聞きます”」
「こ……これからは……ルーファス様、の言うことなんでも、聞きます……」
「“僕はルーファス様の奴隷です”」
「ぼ、くは……」
 アイオンは唇をぱくぱくと震わせた。屈辱的な一言を口にするのに、少年の矜持が全力で抵抗した。
「いや……いやだ……!」
「そうですか。では仕方ありませんね」
 アイオンが首を激しく振って屈従の言葉を拒絶すると、ルーファスは意外にもあっさりと引いた。
 そしてアイオンが体の力を抜いた次の瞬間、手に持った剣を妹の死体に勢いよく突き立てる!
「ひっ!」
 アイオンはこらえきれず悲鳴を上げた。幅広の剣を突き立てられた幼い妹の頭が真っ二つに割れる。白い骨が砕け中身と血の赤が零れだすその様子に、少年はたまらずその場に嘔吐した。
「ご、ごほっ、げほっ」
「私のものになるのがお嫌なら仕方がない。あなたも父君たちと同じように、このようになっていただきましょう」
「ひっ……いや! いやぁ!」
「でしたら誓っていただきましょう。さぁ、お早く。なんて言えばよいのでしたっけ?」
 目の前で残酷な画を見せられた少年は、もはやなりふり構わなかった。先程言い淀んだ言葉を、力の限り口にする。
「ぼ、ぼくはルーファス様の奴隷です! ルーファス様の言うこと、なんでも聞きます!」
「よくできました」
 家庭教師が生徒を褒めるような調子で言って、ルーファスは血塗られた剣を捨てた。そして一部始終を見守っていた執事に告げる。
「サヴァン、支度を」
「かしこまりました、ご主人様」
 執事は血と吐瀉物にまみれて放心状態の少年を抱き上げて連れていく。ルーファスは自分も返り血を拭おうと、クラヴァットを緩めた。虚ろな表情のアイオンに微笑みかける。
「では、あなたに奴隷としての誠意を見せていただきましょうか。アイオン」