僕の愛しい勇者様 02

僕の愛しい勇者様 02

10.兄の本音

 ライアの性別反転騒動の翌日から、明らかにソールの様子はおかしかった。
「あの……兄さん?」
「あ、ああ。ライア、な、なんだ?」
 おかしい。どう見ても誰が見ても疑いなく確実におかしい。
 被害を受けたのは幼馴染二人である。ソールが何をしたのかを薄々察しているローズベリーはともかく、オルクスにいたってはまったく事情がわからないのにこんな挙動不審なソールの行動の煽りを全て受けているのだから。
 表情の読めない暗殺者ウォルフは我関さずを貫き、ティルは表向き沈黙を保った。
 そんな彼らの行動に変化が現れたのは、次の遺跡の首長をついに追い詰めた時だった。
「さすがは噂に名高い勇者ソールよ。やるな……」
「さぁ、覚悟しろ! ここがお前の年貢の納め時だ!」
 南東の遺跡と呼ばれるシェスト遺跡を支配する魔物とソールたちは戦っていた。普段は挙動不審なソールも、そんな兄の態度に不安を抱いているライアも、戦いの場ではそれをおくびにも出さない。遺跡内の雑魚は瞬殺、敵の城中にちりばめられた罠にも惑わされず、彼らは無事に主の部屋へと辿り着いた。
 ミノタウロスやゴーレム、一つ目の巨人などと違い、今度の魔物の見た目は肉弾戦に強そうには見えなかった。しかし黒いローブを纏った山羊顔の魔術師風の魔物は、腕力の代わりに狡賢そうな雰囲気を持っていた。
「馬鹿め! 勇者よ! 我はこの時を待っていたのだ!」
 幻影の呪文でソールの剣をかわしたボスは、その隙を狙ってソールに魔術を放つ。ローズベリーの守護もライアの結界も間に合わない。
「くぅ……!」
「兄さん!」
「ソール!」
 黒い光がソールを包む。ライアが悲鳴のような叫び声で兄を呼んだ。
 見た目にはソールはどこも変わった様子がない。しかし今の攻撃が彼にとってまるで無害だったとは考えられない。その証拠に山羊顔の魔物が髭を揺らすようにして笑う。
「ふぇっふぇっふぇ。かかったな。勇者よ」
「兄さんに何をした!」
「……愚かしい魔術師の子どもめ。わからんのか。全てはお前が発端なのだぞ」
「これは……」
 ソールへと駆けよったローズベリーが険しい顔をした。強い力ではないが、彼女は幼馴染の勇者から軽く突き飛ばされたのだ。
「余計な手出しだ、ローズ」
「ソール……! あなたまさか!」
 瞠目するローズベリーを嘲笑うように、魔物が口を開く。
「なぁ、お前たち。考えたことはないのか。何故そこの男が“勇者”となったのか」
 その言葉に状況を見守っていたウォルフやオルクスも含め、全員が顔色を変えた。否、ただ一人内通者であるティルだけがいつもと同じだったが、それ以外の者たちは山羊顔の言葉に怪訝そうに眉根を寄せる。
「知っておるぞ。そこな勇者は、弟である魔術師を救うために勇者になったのであろう。そこの子どもは、我々魔物にとって実に美味そうな気配を発しておる……」
 ライアがぴくりと肩を揺らした。魔物がついたのは、ライアが最も気にしていることだった。すなわち、ソールが今こんな苦労だらけの魔王討伐の旅をしているのは全て、ライアのせいだということだ。
「だがそれは勇者にとって果たして本意かねぇ? 正義を貫く勇者様は、本当は心の何処かで解放を願っておるのではないか?」
「貴様! ソールに何をした!」
 オルクスの問いに、山羊顔は笑いながら答える。
「我が勇者にかけたのは、その者の本音を引き出す魔術よ。そう、普段は理性や常識と言ったお前たち人間のくだらない価値観に押さえつけられている素直な心だ。誰かを恨み憎み、害したいと思う悪意や、何故自分ばかりが苦労しなければいけないという当たり前の不満や怒り……そう言ったことを素直に口に出せるような、素晴らしい術だよ」
「兄さん!」
 ライアは兄に駆け寄った。
「駄目! ライア!」
 ローズベリーとオルクスが慌ててライアをソールから引き剥がそうとした。もしも魔物の魔術のせいで、これまで理性によって押さえつけられてきたソールの内なる憎しみが溢れ出せば、仲間である彼らだとて危険なのだ。
 地面に蹲っていたソールが、垂れ下がった手に剣を持ったままゆらりと立ち上がる。
 駆けよってくるライアを見つめる眼差しが、いつもとは比べ物にならないほど厳しく、剣呑に見えた。
「に、兄さん」
「我々は知っているのだぞ。――貴様らは、実の兄弟ではないのだろう」
「!」
 ライアと幼馴染二人が息を飲んだ。何故そんな事情を、魔物が知っているのだ。
 この情報を流したのは、今はティルと名乗る獅子身中の虫、シュピーゲルだった。彼は先日のお遊びの際、ソールとライアの勇者兄弟を見張りながら重要な情報を手に入れたのだった。
『いいよ……触っても。だって兄さん、いつも勇者としての使命で忙しくて、女の子に声かける暇もないじゃない。それに僕、本当の女の子でもないし……それに、僕たちは、本当の兄弟じゃないかもしれないんでしょう?』
 ライアのこの台詞から二人が血のつながった兄弟ではないと知ったシュピーゲルの入れ知恵によって、シェスト遺跡のボスは勇者一行の精神に揺さぶりをかけることにしたのだ。
 どんな人間にも闇はある、否、人格者であればあるほど、口にせずに理性によって押さえこんだ心の闇は深い。世界に勇者と認められる程の男のその闇はいかなるものか。真に勇者ソールが世界を救う男ならば、彼が抱えた闇もまた世界を滅ぼせるだけの力がある。
「ライア……」
「に、兄さん……本当に……」
 俯いた拍子に零れ落ちた前髪で表情を隠したまま、ソールが静かに歩み寄ってくる。ローズベリーたちが止めようとするが、ライアは構わずに進み出た。
 自分と言う存在が、ずっと兄の重荷になっていただろうことをライアはすでに知っていた。もしも彼が心の奥底では自分を憎んでいて、その彼に斬られるのだとしたらむしろ本望だとさえ自分に言い聞かせ、ライアは覚悟を決めて兄に近づく。
「ライア! ソール!」
 黒髪の奥から琥珀の瞳が覗き、ソールは顔をあげながらライアに手を伸ばした。ぐっと強い力が弟と呼んでいた少年の肩を引き寄せ、そして――。
「愛してる! ライア!」
「へ?」
 勇者は思いきり弟に抱きついた。抱きつくどころか、呆然とするライアに「んちゅー」と口付けまでする。
 一同は敵味方関係なく一様に凍りついた。ソールに抱き締められているライアですら例外ではなかった。
「ああああの、兄さん?!」
 ソールはいつもの三倍増しの凄味ある笑顔で、ライアに大人しくするようにと言い置いた。
「待ってろ、ライア。兄さんがすぐにあのヤギ野郎をぶち殺してやるからな?」
 いつもは光そのもののような琥珀の瞳が、今は殺意を宿して煌めいている。ソールはライアから手を離し剣を構えなおすと、それをまだ驚きに硬直していた魔物に向けた。
「大体てめぇら魔物は! いつもいつもいつも、人の可愛い可愛い可愛い弟に許可なく近付きやがって!」
 気迫に飲まれ思わず、びくぅ! と震えた魔物の様子など構う素振りもなく、ソールは勇者としての真価を発揮する。目にも止まらない剣戟を繰り出し、先程まで五人がかりで戦っていたはずの魔物を容赦なく攻撃しだしたのだ。
「ぎゃぁああああ!」
 本気でキレているソールの剣技は魔術師風の魔物の目で追えるようなものではなく、防御の術を繰り出す暇さえ与えずソールはズバズバと敵を斬りつける。
「挙句の果てには俺の可愛いライアにあんなことやこんなことを! 俺だってまだしたことがないことまで!」
 ズバッ! ビシュッ! ドシュッ! グシャッ! ザスッ! となんとも過激な音と、連続攻撃に体が宙に浮いたまま幾度も斬りつけられている哀れな魔物の姿だけが他の者たちには見えていた。ソールの動きは早すぎて、肉弾戦派のオルクスとウォルフですら残像しか追えていない。魔物を取り巻くように、細い血の筋がいくつも孤を描いて宙に流れた。
「死ね死ね死んでしまえこのクソ魔物ども! 俺のライアに手を出す奴は肉片一つたりともこの世に存在すら許さん!」
 ハーハハハハハ! と魔王も顔負けのどす黒い高笑いをしながら、ソールは攻撃の手を緩めない。この場はもう完全に彼に任せていいだろうと、仲間たちは思わず緊張を解いた。
「……というか、これはどういうことだ?」
 オルクスのもっともな疑問に、たぶん、と前置きしながらローズベリーが答える。
「あのモンスターが使った術ってのは、普段理性によって押さえこまれている人間の心の闇、憎しみや殺意や敵意といった暗い感情を呼び起こすものだと思うの。で、ソールの普段理性によって押さえこんでいた感情っていうのが」
「弟に近づくものは一切存在を赦さない、という心だというのか?」
「……それ以外考えられないわね」
 勇者の鬱屈した感情と言うものは、世界を救う大義に関する抑圧でも、自分を死地に追いやる元凶に対する憎しみでも、冒険の苦労や人間関係に対する不満でもなかった。
 彼の関心も愛もただ一点、弟のライアにのみ向けられていた。ソールが憎しみを向ける相手は、ライアに近づきあまつさえその体液を啜ろうとする不埒な魔物たちだった。
 普段のソールは勇者として、あくまで紳士的な戦いをするが、今魔物を甚振っているやり方には慈悲の欠片すらない。それが彼の本性だと言うのだ。
「何か物凄く納得したわ」
「ということはつまり、勇者殿はあれでも普段は弟に対する愛情を理性で押さえこんでいる状態だと?」
「……たぶんね」
「……」
 ローズベリーの溜息に、ウォルフが何か言いたげに沈黙した。普段からソールは随分ライアを気にかけているように見えるのに、まだまだあんなものでは足りないと言う。
 一同は言葉もない。そろそろ敵の命も尽きようとしている。
 一行の内側で、ティルは内心冷汗を流していた。まさかこんなことになろうとは。彼はそっとライアの様子を伺う。すると。
「兄さん……」
 兄の深い愛情に、弟は感極まった様子で瞳を潤ませていた。
 兄が兄なら弟も弟。この兄弟はどっちもどっちだった。
「ぎょぇえええええええ!」
 遺跡内に哀れな魔物の断末魔が轟いた。

 ◆◆◆◆◆

「……はっ! 敵は?! 一体戦いはどうなったんだ!?」
 遺跡の主たる魔物を倒して数瞬後、術者が死んでその効果が切れたため、ようやくソールは元に戻った。
「こ、こいつは! みんな、やったのか!」
 知らぬ間に倒されていた敵を見て、ソールは自分が意識を失っている間に仲間たちが何かをしたものと考えたらしい。だが仲間たちは首を横に振った。お前だお前、と目で告げるがもともと不満を抱くほども弟以外の全てに関心のない勇者にはもちろん伝わらない。
「あの……兄さん?」
「ライア! 無事で良かった!」
 一秒だって目を離したくないというように、ソールが弟の姿を見つけて駆けよって来る。ライアは先程の兄の言葉(過激な)を思い出して、白い頬をかっと赤く染めた。
「あ、あれ? ライア、なんで隠れるんだ?」
「なんでもないよ!」
 照れのあまり思わず体の大きいオルクスの陰に隠れるライアに、ソールは不思議そうな、寂しそうな目を向ける。そうした様子はまるで子犬のようだが、その本性が他でもないケダモノだということは、先程の一戦でこれ以上なく周囲にバレまくっている。
「ら、ライアー?」
 情けなく弟の名を呼んでおろおろとするソールの姿に、しかし彼の仲間たちは、この勇者を弟関連のネタで怒らせることだけはやめておこうと心に誓っていた。