第1章 運命の歯車
1.神託の王子
001
波の音を聞いていた。
海だ。
青い水の輝きが砂浜に寄せては返る。海面から突き出した岩の上に少女が一人座り、潮騒に伴奏するように竪琴を奏でていた。
砂浜は白い。棘だらけの星の形をした白い砂が敷き詰められてできている。その中を編み上げ靴を履いた子どもたちが駆けていく。
中の一人が、ふいにこちらを振り返った。目を細めて穏やかに微笑み、手を差し伸べる。
――おいで。
招かれて海水に足を踏み入れると、銀髪の少年は呆れたように苦笑する。
自分はいつも彼を呆れさせてばかりだ、と思った。
――どうして靴のまま入るの。
いけなかっただろうか。
海水に足が浸かることは、自分にとっては些細なことだ。水から上がったその瞬間にも術で乾かすことができるのに、わざわざ素足を晒す意味がわからない。
そう言うと相手は、ますますおかしそうに笑った。
――だって、裸足の方が気持ちいいだろ!
そして彼はこちらの靴を巧みな魔術でどこかにやってしまうと、裸足になった自分の手を引いて海へと向かうのだ。
風が吹いている。海面が揺れる。足下からは波音が、頭上からは海鳥の鳴き声が聞こえた。更には竪琴を爪弾きながら歌う少女の声が入り混じり、不思議な調和を作り出す。
そして、手を引く彼の温もりを指先に感じていた。
振り返った彼が口を開く。
――おいで。“******”。
名を呼ばれる。だが聞こえない。それが自分の名前であることはわかるのに、明確な音として認識できない。
そしていくら唇を開こうとも、自分も彼の名を呼ぶことができない。――もどかしい思い。
それでもこちらを見つめる優しい赤と青の色違いの瞳を見つめ返すだけで、途方もなく幸せな気持ちになれる。押し寄せてくる想いは胸を詰まらせた。
一緒にいたい。
――ずっと、お前と一緒にいたかった。
それはすでに起きてしまった現実が望ましい過去と食い違うことを嘆く気持ちだ。
気づいてしまった瞬間、ふいに眼前の光景も手の上の温もりも、全てが歪み、揺らめく。ああ。
この状況は知っている。何度も迎えた幸福感の終焉。そう――。
夢が終わるのだ。
◆◆◆◆◆
「おはようございます。殿下、御目覚めの時間ですよ」
護衛騎士の声に促され、リューシャはぱちりと目を開けた。眠っている姿は人形のようだと謳われる可憐な少年の容姿は、その大きく印象的な空色の瞳が開かれることによって、より神秘的なものとなる。
アレスヴァルド王国の王子、リューシャ=アレスヴァルド。
今日この日十六歳の誕生日を迎える彼の一日は、ここまではいつも通りに始まった。
リューシャは淡い紅色の髪と空色の瞳を持つ、妖精のように可憐で儚げな容姿を持つ少年だ。少年だとはっきりわかる格好をしていても、彼を見る者は「王子」というよりも「王女様」という言葉を連想する。
ただし、この妖精は限りなく口が悪い。下品なのではなく、毒舌という意味で。
その由縁は今日この日にも関わりがある。
「う……む」
上体を起こしたリューシャは、くしゃくしゃと自らの桜色の頭をかき乱した。夢の残滓を追いだすように、目の前に出された盥に手を入れて顔を洗い、意識を現実へと切り替える。
水滴の滴る顔を、先程目覚めの言葉をかけた護衛騎士こと、セルマが丁寧に拭っていく。そのまま彼女はリューシャの柔らかな髪に櫛を通し、身だしなみを整えた。
「また一年経ったのですね。殿下、お誕生日おめでとうございます」
「ふん、そのような白々しい台詞、我に対し本気で口にするのは貴様くらいだぞ。セルマ」
睨むような眼差しで祝いの言葉を跳ね除けられても、セルマはにこにことしている。リューシャと深く付き合うには、このくらいの台詞は軽く受け流せなければとても日々の業務をこなせない。
この国唯一にして世継ぎの王子の従者兼護衛は告げる。
「“託宣の儀”がありますから、今日の朝食は軽いもので。すぐに儀式用の装束を届けに女官たちが参ります」
◆◆◆◆◆
アレスヴァルド王国の第一王子、リューシャ=アレスヴァルド。
今年で十六歳になった、薄紅色の髪に水色の瞳と、可憐な少女と見紛うような愛らしい顔立ちの少年。彼の苦難は、この世に生まれ落ちたその瞬間から幕を開けた。
アレスヴァルドの人間は誰でも、生まれたその日の内に神官の託宣を受ける。王位を継ぐはずの第一王子として生まれた赤子ともなれば、周囲が期待に胸を高鳴らせその予言を聞くものだ。賢王と言われれば臣下はこぞって歓声を上げ、弱い部分があると言われれば敵方がそこにつけこもうと密かに喝采を叫ぶ。
生まれたその瞬間に性質を占われてしまうこの予言は一見不条理な伝統のようだが、どんな内容でもそれなりに益はあった。苦難に遭うと言われれば身の守りを強化し、順風満帆と言われれば安堵する。人の人生は一面では測れぬものだから、一人にあてられる予言も結構な長さがあった。そしてきちんと対策をとれば、何かの風向きで予言の内容が変わることもある。
しかし十六年前、世継ぎにして唯一の王子リューシャが生まれた際に大神殿の神官長が占った結果、神が王子に与えた託宣はたったの一言。
『この者はいずれ、総てを滅ぼす破壊者となる』
その結果に、国中が揺れた。王子の味方となるべき陣営も権力を狙う敵となるべき陣営も、国が滅ぶの一言の前に大きく動揺した。生まれて間もない赤子のうちに、王子を殺すべきだという意見も出た。
けれど王子の父親であった国王エレアザルは、唯一と愛した妃の残した、たった一人の息子を殺すことを躊躇った。リューシャ王子の母親は彼を産んだ際に亡くなり、王子には兄弟もなく彼の他に国を継ぐべき王の子はいない。
エレアザル王は、息子を生かす道を選ぶ。
彼は生まれた瞬間からありがたくない託宣を背負った息子のために、自らの評価を下げてまで英断を下す覚悟はなかった。忌まわしい予言を背負った息子を殺して別の正妃を娶り世継ぎの王子を産ませることも、予言なぞ己の実力で吹き飛ばしてしまえと、息子を常人以上に鍛え上げることもしなかった。
そしてエレアザル王が息子の託宣に対して、諸侯の不満を抑えるためにしたことと言えば一つだけ、それは息子の能力をまったく鍛えずに、どんなに優れても人並み程度となるようにしか教育しなかったことである。
いずれは国を滅ぼすと予言された王子にそれを実行できるほどの武力や知力を鍛えられては困ると、リューシャ王子の才能を伸ばすことを諸侯たちが大反対したのだ。
リューシャを生かしたいエレアザル王としては、国内の有力貴族たちと取引するしかなかった。リューシャ王子を生かす代わりに、国王の側近として貴族たちを取り立てる。どうせリューシャが国を滅ぼすことなどできないように「無能」になるように育てるのだから、有能な宰相が必要にはなるのだから……。
アレスヴァルド王国としては、表面上はそこで均衡がとれているように見えた。王も最後のその一線だけは譲れないと、リューシャを生かすために何度も貴族たちと取引し、大神殿の神官たちにも宣誓書を提出させ、息子の命だけは守りとおそうとした。
しかしそれはやはり、脆い糸の上の平穏だったのだ。
王子としては唯一の存在であるリューシャだが、国内に他に王族の血を引く者がいないわけではない。
エレアザル王と従兄弟同士にあたるディアヌハーデ公爵ゲラーシム。彼はアレスヴァルドの法に則ればその血筋の上で、ぎりぎり王位につける血の濃さであった。彼の息子となればリューシャという正統な後継ぎがいる現状で直接的に王位につけはしないが、公爵である彼自身は父が先の王弟なので、王にもなれる血筋だ。
この現状もまた、リューシャには味方であり敵でもあった。エレアザル王の後継とするのであれば、ディアヌハーデ公爵ゲラーシム本人よりも、その息子であるダーフィトの方が年齢から言って好ましい。もしもリューシャが女であれば、王女であるリューシャとダーフィトを結婚させて間接的にダーフィトが王になるという運びに間違いなくなっていただろう。しかし現実は王のたった一人の子どもは王子で、最も次期王にふさわしいダーフィト本人には直接的な王位継承権がない。この事実が、問題をややこしくしていた。
とはいえ、リューシャが例え女であったとしても予言自体が変わるとは限らないのだから問題は同じだったのかもしれない。リューシャはアレスヴァルドを滅ぼすらしいが、どのように滅ぼすかは予言されていないのだ。もしも女として生まれていれば、ダーフィトではなく別の国の王族辺りに嫁がされ、その相手国がアレスヴァルドを滅ぼしに来たかも知れないのだ。
国を滅ぼすと予言された王子、リューシャ。その対抗策として、彼は武芸も学力もその他諸々の才能も何一つ磨かない、まったくの「無能」な王子として育てられた。
それでも見た目は悪くないのだから、性格が「明るく素直」であれば全ての人間にではなくとも好かれ、父王の他に味方もできたことだろう。
しかし生まれ落ちた瞬間から「呪われた王子」として託宣を受け、いっそ殺してしまうかとすら貴族たちには考えられ、少女めいた顔立ちもあってどうせなら女だったらまだ良かったのにと周囲から残念がられ、挙句の果てには何もできない明らかな無能となるように、その才能の全てを封じられて育てられる――。
もしかしたら世界にはそのような環境でも明るく元気で常に前向きで他者のために献身的な聖者がいるのかもしれないが、とりあえずリューシャは聖者にはなれなかった。
聖者どころか、普通人の感覚で「普通」だと思える程度の性格になることすら無理だった。有体に言って、リューシャ=アレスヴァルドは十歳を過ぎた辺りからすでに根暗で陰湿で捻くれ者で自分自身は何の才能もないくせに口だけは達者な、陰険な少年になっていた。
彼の置かれた現状を考えれば仕方ないとも言えようが、これがますます彼を周りの人間から遠ざけた。呪われた運命の上に近寄りがたい性格のせいで、もとから少ない彼の味方は更に少なくなり、もはや父王以外には召使すら彼とはできるだけ話をしたくないという始末である。
王宮内の陰口というのは相手の耳に聞こえるように囁くもので、一つ悪口を聞くたびにリューシャの心は頑なになり、それが可愛げがないという評価にまた繋がるという悪循環であった。いまやリューシャの心は真銀の鎧を纏ったようであり、誰にも胸の内を開いて見せることはない。
ただ一人国外から訪れたために神託の内容など抵抗なくリューシャの護衛を務める女騎士セルマ=メイフェンにでさえも、完全に心を開けはしない。
国と息子の命運よりも愛妻の面影をとった王と、予言に翻弄され心を頑なにする王子、そして貴族たちは王位を狙いながら王子を遠巻きに眺める危うい均衡を保っていたアレスヴァルドの勢力図がついに崩れたのが、リューシャの十六歳の誕生日だ。