Fastnacht 02

第1章 運命の歯車

2.狂乱の扇動者

005

 ゲラーシムの背後には、四人の護衛と一人の女性がいた。女性もまた貴族らしく、美しく着飾っている。武器を持っている様子もない。ゲラーシムにとって何らかの重要人物と見るべきだろう。
 しかしこの時のリューシャの視界には、正面に立つ仇敵しか目に入らなかった。
「ゲラーシム、貴様よくも……」
「はは。好きなだけ囀るがいい。無力な王子よ。お前を守る者はもうどこにもいない」
「ふざけるな! 父上を罠に嵌めたくらいでいい気になるなよ下衆が! 我が全てを滅ぼすという託宣の道筋は、今貴様が敷いたも同然だ!」
 これまでのリューシャには、国や世界を滅ぼしたいような理由などなかった。力を得ることは望んでいても、その力を向ける具体的な的があったわけではない。
 だが総てはこの一日で覆った。今なら誰よりも、ゲラーシムを憎むことができる。彼の破滅のために命の全てを尽くすこととて吝かではない。
「必ず破滅させてやる……!!」
 身長差のせいで下から睨みあげるような形になるリューシャの視線を心地良さそうに受け止め、ゲラーシムは低く笑う。
「この状況でそれだけ吼えることができるとは、大したものだ」
 すっ、とゲラーシムの腕がのび、正面に立つリューシャの顎を捕らえる。
「殿下!」
 動きかけるセルマを、リューシャは目で制した。まだだ。まだこんな場所では殺されまい。勝機のない場面で玉砕覚悟で攻撃を仕掛けるのは早い。
 ゲラーシムに呪われた王子であるリューシャを生かす理由はない。だが、殺すつもりであるならばもっと早くそうしていたはず。大体自ら罪人の烙印を押しておきながら、牢に入れるでもなく自らの屋敷に連れてきたのが怪しい。
「そう怖い顔をするな。せっかくの美少年ぶりが台無しだぞ」
 ゲラーシムは顎を捕らえたリューシャの視線を自らに向けさせると、少年の柔らかな頬を指で意味ありげになぞる。
「取引をするつもりはないか? リューシャ=アレスヴァルド。私はな、これでもお前を買っているのだ」
「どういうつもりだ」
「お前からは私と同じ匂いがするのだよ。呪われた神託の王子。誰よりも玉座に近くそして遠い。だからこそ無力さに歯噛みし、力を求め、傲慢の仮面を被りながら器用に立ち回り己の才覚で登り詰めようとするその心意気。お前が自らの名を隠して裏で行った数々の評価は私も耳にした。王城での教育をあえて制限された身でありながら、あれだけのことが行えるなら大したものだ」
 国王の側近たちによって、いずれ国を滅ぼす者であるリューシャは次期国王としての教育を制限されていた。自分の力で国家転覆など図ることのできない、無能な王子として育つように。だがリューシャ自身はそれに満足できるような性格ではない。
 王子としての身分を隠し、セルマや自覚のない他の手足となる人間を使い、リューシャはリューシャなりに自分がどこまでできるのかを試していた。そのために山賊の討伐や麻薬の密売、軍学校占拠事件などのいくつかの事件を裏で解決したこともある。ゲラーシムが言うのはそれだ。
 そして確かにリューシャとゲラーシムは遠縁でありながら似ているのかもしれない。少なくともリューシャ自身、優しすぎる実の父や、野心の欠片もないダーフィトよりはこの男の方が策謀を駆使する俗物同士と言う点で共通しているとは思う。
「リューシャ。お前が疎まれるのは、あくまでも“呪われた神託の王子”だからだ。民でさえお前の姿を見ることを嫌い、式典への出席も少ない。だが逆に言えば、リューシャ=アレスヴァルドと言う名を捨てたお前のことなど、誰もわからない」
 呪われた神託の王子、リューシャ=アレスヴァルドはそこにいるだけで民の不安を煽る存在。
 だが、身体的な強さも学も、権力すらもないあまりにも無力な少年が滅びの託宣を受けた王子だと、人々はどこで判断するのだろう。
 それは名。この世にただ一つの“リューシャ=アレスヴァルド”という名前。王宮では遠巻きにされるリューシャもその名前を隠し、王子ではない一人の少年を装って城下に降りれば相手をしてくれる人間は意外と多い。
 名前とはこの世で最も短い呪いなのだという。だからこそ高位の魔術師は自らの名を隠し、人は名前によって相手を識別する。
「ここで私と取引しておけば、穏便な手段で“リューシャ=アレスヴァルド”をこの国から葬ってやるぞ。そしてお前は新たな名を得て、神託などに振り回されない新たな人生を楽しめばいい」
 ゲラーシムとは、人の弱味を擽るのが上手い男だ。この調子で他者の欲望を刺激し続けたのだとしたら、彼につく諸侯もたまったものではないだろう。彼は間違いなく相手の一番欲しい物を言い当てるのだ。
 けれど。
「断る」
 脳裏に、いつも見る海の夢が広がった。青い海、白い砂浜に立つ一人の少年。彼が呼ぶはずの自分の名前は、いつも音として聞くことができない。
 どうかその名を呼んでほしいと、願い続けた狂おしい想いがリューシャにゲラーシムの取引を拒絶させる。
「我は我だ。“リューシャ=アレスヴァルド”だ! この地上に生まれ落ちた際に得たこの名は、我の一部にして全て! どんなにその名が汚濁に塗れようとも、捨てるつもりなど毛頭ない!」
 この名がどんなに血塗られようとも、冤罪に穢されようとも、だからこそ己の名を捨てることを許さない。
 例え世界中の人々がこの名を忌み嫌うとしても、自分はこの名を掲げてもう一度その先に光を与える。それが生きるということだ。
「それにいくら名を変えようと、我は我だ! 本質は変わらない! 我に与えられた神託は変わらない! 神の言葉すら裏切って、貴様は一体何を望む!? ゲラーシム=ディアヌハーデ!!」
 するり、とゲラーシムがリューシャの頬から指を離す。
「なるほど。それがお前の答か。意外と信心深かったのだな」
 利に聡い男はそれを見極めるのも早い。リューシャが決して自分の陣営につかぬことを理解したゲラーシムは、すでに神託の王子からの興味をなくしたようだった。
「その無駄な矜持のせいで若死にする後悔は処刑場でしてもらおうか」
 それだけ言うとゲラーシムはくるりとリューシャに背を向け、部屋を出て行こうとする。扉をくぐる直前に例の女性の手を取り、連れだって歩く。
 青い髪の女性は部屋を出る際の一瞬、リューシャをちらりと一瞥した。
 リューシャも視線を交える。見たこともない相手なのに、得体のしれない不安を感じた。不安の正体を突き止めようにも、何せ一瞬のことなのでよくわからない。狭い室内でようよう槍を構えていた護衛の兵士たちが残らず姿を消し、リューシャはようやく息を吐く。
「……」
 復讐を果たそうにも今はその手段がない。とにかく、処刑場に引き出される前にこの場から逃げ出すことを考えなければならない。

 ◆◆◆◆◆

 リューシャたちを閉じ込めたものとは比べ物にならない豪奢な部屋で、ゲラーシムは「妻」に声を掛ける。
「ナージュ。あれが、お前の見たがっていたリューシャ王子だ。どうだ、国一番の呪われた王子は」
「……思っていたよりも可愛らしい顔立ちで驚きましたわ。一瞬、お姫様かと思いましたもの」
 ナージュと呼ばれた青い髪の女性は、夫であるゲラーシムに微笑みかける。
 ナージュの外見年齢は二十代半ばといったところだ。化粧気が薄く、ある意味では貴族女性らしくないが、妙な吸引力のある美貌を持っている。
 彼女はゲラーシムの後妻。ダーフィトを産んだ最初の妻が亡くなって十年以上男やもめで通してきたゲラーシムが、最近になって迎えた二人目の妻だった。見た目だけ比べれば、彼女は息子であるダーフィトと幾つも変わらない。
「でもあの少年が、この国の不吉な神託を背負った王子なのですね」
「ああ、そうだ。“総てを滅ぼす者”という託宣を受けた、忌まわしき王太子。もっとも、それも今朝までのことだがな」
 今は罪人の名で呼ばれる少年の顔を脳裏に描き、ゲラーシムは含み笑いをする。
 ディアヌハーデ公爵である彼がわかりやすい欲望を表に出すのは、彼自身の思惑のためだった。人は腹の内を明かさない相手を信用はせず、いくら善良な顔や行動をとろうと何を考えているのかわからない相手を信頼はしない。ならば誰の目にもわかりやすい仮面を被り、自分はこのような人間なのだと最初から相手に与える印象を操作する。それがゲラーシムの策略だ。
 ただし、この策略が通用しない相手も稀にいる。その相手こそが、他の誰でもなく自分と似たような性格のリューシャだった。あの少年の「我儘王子」という評価が仮面であることに、ゲラーシムは気付いている。
 できるならば己の陣営に取り込み、そうでなければ予定通り始末する。ゲラーシムはそのように策を練っていた。どちらにしろリューシャの力はゲラーシムには及ばない。一度罠に嵌めて捕らえてしまえば、彼に逆転の目はない。
 だからゲラーシムは新しい妻の望むままに、彼女を王子の前へと連れて行った。
 ナージュとの付き合い自体は短いが、彼女はまるで昔からゲラーシムという男を知っていたかのように彼のことをよくわかってくれる理解者だ。ゲラーシムはこの新しい妻を、殊の外気に入っていた。
 彼の普段の好みから言えば、当然女の趣味も派手だろうと考えられる。事実、前妻であるダーフィトの母親は大人しやかな性格に似合わぬ華やかな美貌の持ち主だった。しかしナージュは違う。
 青い髪に橙色の瞳。かつて、神々の物語である神話が創られ始める前に存在したという伝説の帝国でエヴェルシードと呼ばれる武の民がいたという。お伽噺に近いようなその特徴を見事に有したナージュは独特の美貌の持ち主だが、その美しさは貴族的というよりも、どことなく静謐で荘厳な神職を思わせる。
 事実、ゲラーシムの再婚は公的な発表こそされているものの、彼ほどの貴族の婚姻関係としては不自然なほど大々的な発表を控えられていた。だから先程リューシャと会った時も、彼らはナージュの立場に気が付かなかったのだ。
 黙って並んで立っていると、ナージュはゲラーシムに仕える神官のように見える。
 妻としての彼女の存在を大々的に表明しない理由の一つには、とうに成人を迎えた息子、ダーフィトの存在があるとゲラーシムは表向き口にしている。次期国王候補とも目されるダーフィトに、今更血の繋がりのない新しい母親ができたことを広げ回れば余計な勘繰りをされるのではないかという考えだ。
 ゲラーシム自身は、自分が欲得尽くではなく、ナージュを心から気に入ったのだと信じて疑っていない。それが自分の意志であると。
「それで、結局彼らの処遇はどうなさいますの?」
「取引を断られたからな。本人に告げた通りだ。あのまま始末する」
 ナージュは小首を傾げて尋ねる。
「ねぇ、旦那様。あなたはリューシャ王子に与えられた神託を恐れませんの? その神意は明らかになっていないと巷では評判ですよ。リューシャ王子を殺し、それが引き金となって破滅への道を歩むことになるかもしれませんのに」
 女性でありながら神官じみた雰囲気のあるナージュが口にするとその言葉の威力も一入だったが、ゲラーシムは狼狽えることもなく平然と告げた。
「その時は、その時だ。どちらにしろ奴を生かしておいても国が滅びるのかもしれん。神意がわからないからこそ、人は己ができることをできるうちに行うべきだろう。後で滅びがやってきた時に悔やんでも遅いのだ」
「……そうでしたね」
 ゲラーシムも根本は息子のダーフィトと同じ、一見不信心に見えるが、それには神が例えどのような運命を与えようと己のできる限りで立ち向かうのみだという考えがある。
「だいたい世間で呪われた王子の神託を恐れている者たちの方が、私には余程信仰心が薄いように見えるがな。神を敬うのであれば、与えられた滅びさえも受け入れてそれをもたらす王子を丁重に扱えばいい。神託が運命を決めると言いながら、その運命に抗おうとしているのは私ではない。他の奴らだ」
「その愚か者たちの愚かな思考を、あなただって結局御自分の良いように利用していらっしゃるくせに」
 詰るような口調だが、ナージュの表情は微笑んでいた。夫の胸にしなだれかかるように長椅子に腰かけ、その瞳を覗き込む。
「ふ。まぁな。だがそのおかげで、これから私はこの国の全てを手に入れる」
 野望に溺れた男は気付かない。その野望にいつの間にか、自分以外の者の意志が紛れ込んでいることを。
「面白くなりそうですね」
 ナージュは静かに微笑む。その笑みの意味を、今はまだ誰も知らない。