Fastnacht 05

第1章 運命の歯車

5.沈黙の海辺

017

 彼らがアレスヴァルド王国を追われ、祖国とはほぼ世界の反対側、極東の海岸にまで来てしまった経緯を余すことなく聞かされたウルリークは溜息をついた。
 刺客に襲われたばかりなので、ダーフィトの表情は硬く、セルマも僅かに顔つきを引き締めている。警戒しているのだ。
 一番年若いリューシャに関しては、いつもの仏頂面なので動揺がわかりにくい。
「はー、そういうことですか。青い髪の女、ねぇ……」
 長い話を聞き終えてまずそこにウルリークが注目したのが意外で、リューシャは目を瞬く。
「ナージュと名乗る女だが、同じ人外同士面識でもあるのか?」
「同じと言っても随分違う存在ですよ。それに人外は人外なんですけど、そう連呼されるとちょっと気に障ります」
「悪かった。なんと呼ぶのが自然なんだ?」
「魔族で。俺は魔族のウルリーク。あなたたち人類だって人間だの人類だの呼ばれるより、アレスヴァルド人のリューシャさんって呼ばれる方がいいでしょう。もっとも、この世界には数多くの種族がいますから見極めは難しいですけどね」
 ウルリークは頬にかかる髪をかきあげながら言う。
 彼らが今いるのは、先程壊されてしまった小屋から少し離れた森の中に立っていた小屋だった。ウルリークは最初ここを拠点にしたかったらしいのだが、海から少し離れているので断念したのだという。代わりにあの小屋を建ててしばらく住んでいたのだが、刺客のせいで木端微塵になってしまった。
 彼が移住してくる前から建てられていたという小屋は、かなり古びた雰囲気がある。硝子のない窓から直接空が見えるような、家というよりも本当にただの小屋だ。
「一つ確認したいんですけど」
 ウルリークは彼にしては歯切れ悪く、なんだか嫌な顔をしながら切り出した。
「その青い髪の女ってのは、本当に女でしたか?」
「……どういう意味だ? ゲラーシムに同性愛の趣味がなければそうだと思うが」
「うちの親にんな趣味はねぇ!」
 リューシャの失礼な物言いに、ついついダーフィトが突っ込む。猛牛のように唸る御曹司をセルマが羽交い絞めで止めている間に、リューシャは先を促した。
「披露目をしてはいないが、公的書類に再婚と記されてはいるんだ。女だと思うぞ。我らの目から見た姿も女だった。それが?」
「その青い髪が俺の知ってる相手だとしたら、その相手は男だと思うんですよね」
「……先程の襲撃者の男相手に、お前はなかなか興味深いことを言っていた。ナージュの正体とは、なんだ?」
 ぴたりと静まり返った室内で、長い溜息をついたウルリークが口を開く。
「神です」
「……は?」
「だから、神です」
 先程とは違う意味での沈黙が部屋を覆う。

 ――貴方のご主人様は、神のくせに実に程度の低い部下しかお持ちでないようだ。

 リューシャは先程ウルリークが襲撃者にかけた言葉を思い出す。
 神。
 そうだ、確かにあの時も彼はそう言っていた。そして魔族の男の方も、ウルリークのその言葉を否定はしなかった。……が。
「本当、なのか?」
 半信半疑というにも疑わしい様子で、ダーフィトがウルリークに問いかける。
「十中八九。断定するには本人に会うのが手っ取り早いんですが、部下を送りこんできてますからね。俺でなくとも高位の魔族や七階梯以上の真の界律師に会えば神であることがすぐに悟られることからあえて自分では来なかったんでしょう。さんざん言った通り、東側は魔術師の勢力が強い土地ですから」
 話すうちに苛々してきたのか、ウルリークは見事な紫の髪を乱暴にかきあげる。
「ま、技巧派の魔術神などでしたら人間に変化して正体を隠すこともできますが、規律神にそのような小細工の技術はありませんしね」
「規律神? 規律神というのは、確か……」
「男女二人で一対の律神ナージュスト=ナーファ。その片割れです」
「ナージュ。ナージュストか。そうか、確かにナージュストが規律を司る男神で、ナーファが秩序を司る女神だったな。……だけど……」
 魔術の知識を排するあまり魔術的な神話にすら疎いアレスヴァルドの面々だが、主だった神々の名前くらいは知っている。聞けばわかる、程度だが。しかし、とダーフィトはウルリークの不機嫌面に負けず劣らずの渋面になった。
「男……か……」
 ナージュはダーフィトの義母だ。確かに女特有の色香よりも、中性的な美貌の持ち主だという印象だったが、それでもいろいろと考えてしまうことがあるのだろう。
「私は納得した。顔を傷つけた時に反応が薄かったから、本当に女なのかと疑っていたところだ」
 一方この中で一番神にも魔術にも興味のないセルマは、自らの勘と経験に確証が与えられて腑に落ちたようだ。
 そしてリューシャは。
「青い髪の規律の神――その、女……」
 リューシャはふいに海の夢を思い出した。知っているのに知らない風景。
 長い青い髪の美しい女。どこかナージュに似た、だが「彼」とは違う「女」。
 路傍の石でも見るような冷たい眼差しでこちらを睨み付ける――。
 そこまで脳裏によぎったところで、頭痛がした。ずきりと響いた痛みに小さく呻く。
「痛ぅ……」
「殿下? どうしました?!」
「いや、なんでもない。ただの頭痛だ」
 痛みは一瞬で収まった。心配そうな表情のセルマになんでもないと首を振って見せる。
 なんとなくわかった。アレスヴァルドで初めて相対した際、ナージュを、少なくともナージュによく似た誰かをどこかで見たような気がした。
 その感覚はやはり、この海の夢と繋がっているのだ。
 あの夢の景色がここにこうして実在し、関わりのある人間……ではないが、神がいた。あの夢はやはり、リューシャに何か関わっているのだろうか。過去の記憶でも妄想でもなければ、どうやら予知夢でもなさそうなその夢。
 ふと、視線を感じた。
 ウルリークが何かを探るような表情でリューシャを見つめている。睨んでいるわけでもなければ、何かを疑っている様子でもない。ただなんとなく不思議そうに、興味を持って。
「……ウルリーク」
 途切れた会話の継ぎ目を探して、リューシャはとにかくその名を呼んだ。咄嗟に話題となりそうな単語を選んで続ける。
「“傾国”と言うのは、なんだ」
「俺の仇名ですよ。仇名というか二つ名というかまぁ、そんなものです。昔相当無茶して結構有名になりましてね。とは言ってももう五百年くらい前の話ですから、人間以外の種族じゃなきゃ覚えていませんが」
「何をやったんだ?」
「ひ・み・つ♪ ただ、規律神と面識があるのもその関連ですよ。“傾国”の時点でお察しの通り、俺がやったのは魔王じみた大暴れじゃなくて、せいぜい国を傾ける悪女の振る舞いというところですから。それを口うるさくて頭がちがちの律神の片割れに見とがめられましてね」
「ああ、それで……」
 襲撃者に対し、ウルリークは規律だのなんだのは嫌いだと吐き捨てていたのだ。確かにこの魔族の性格からすると残虐な極悪犯というよりも、不埒な愉快犯という方がしっくりくる。
「ナージュが規律神ナージュストだというのはわかった。だがその片割れは? 律神は二柱一対の神だろう」
「ああ、秩序神は長いこと行方不明らしいですよ。人界で姿を見た者はここしばらくいません」
 神も行方不明になるのか? リューシャたちは疑問を感じたが、それよりもウルリークの次の言葉だ。
「しかし神の血を伝えるという古王国の跡継ぎ王子様と、それを狙う神ですか。規律神があなたを狙う以上アレスヴァルドが伝える神の血ってのはナージュストの関係じゃなさそうですが――……いや、逆ですかね。関係があるからこそ、あの、人間を虫けら程度にしか思ってないカミサマが出てきたんでしょうか」
「……なんというか、規律神はそんなに性格の悪い神なのか?」
 アレスヴァルドについて、アレスヴァルドで生きてきた者たちですら知らない重要事をウルリークは何気なく語る。だがそれ以上に三人はそこが気になった。
「価値観は人それぞれですが、とりあえず俺とは最高に相性が悪いですね。俺がやったことを詳細に知ってればどっちもどっちだって言われるかもしれませんけど。あの神たちは、太陽神や月神、恋神などと違って人間を嫌っているんですよ。だから人間と近しい魔族も、人間を糧とする魔族も嫌いなんです。一方で自分の価値観に近ければ魔族でも眷属に加えることがある」
 アレスヴァルドは、“神の血を伝える古王国”だという。だがその神が何であるのか、リューシャたちはこれまで意識することは全くなかった。
 彼らにとって、神とはとても遠い存在だった。いくらお伽噺や教会が何を言おうと、その姿をこの目で見ることが叶うなどとは考えたこともない。その存在が肉の器でこの世に顕現するなど思えない程に。
 だが、ウルリークの口ぶりからすると、魔術師の勢力が強い東側ではお伽噺に出てくる創造の魔術師が信じられているように、神の存在もとても近い。
「俺があの襲撃者を規律神の犬だと見抜いたのは、気配です。神の眷属は独特の気配を発しますからね。だからもしかしたらあなた方の言うナージュとやらが規律神本体でないとしても、ここにやってきた刺客が規律神の部下であることは間違いない」
「神の眷属、は神子や天使とは違うのか?」
「違いますね。天使は神が創った人形のようなもの。神子は神の力を借り受ける人間。そして眷属は神の力によって変質した存在です。だから魔族でも、人間でも、どこぞの神に気に入られてその力の一部を与えられれば眷属になれます」
「つまり、ナージュはそういった手下を幾人も抱えているわけか……」
「そのナージュとやらが規律神であればそうでしょう」
 それを聞いて、これまでぼんやりと考えていたことを、リューシャは実行に移す覚悟を決めた。
 小さな卓の正面に座るウルリークに、真っ直ぐ視線を向ける。
「……? どうかしましたか?」
 熱心に見つめられていることに気づいたウルリークが顔をあげる。テーブルの上の彼の手をそっととり、リューシャはいきなり爆弾発言をぶちかました。
「お前が欲しい」
「ぶっ!!」
 ダーフィトが飲みかけのお茶を吹き出す。リューシャは意に介さず、ウルリークの手を取り目を見つめたまま言葉を続ける。
「我らのこれからの旅路に、ウルリーク、お前の持つ知識と魔術の技が欲しい。協力してくれないか?」
「面白いことは好きですが面倒事はごめんです。他をあたってください」
「お前がいい」
 他の誰かではなく、お前がいい。
 含まれる意味に気づいたのか、ウルリークが訝しげに片眉を上げた。
「あなたは俺のことなどろくに知らないでしょう。生憎俺の知識も技も、辰砂が生まれたこの大陸でならば代わりを見つけるのは難しいことじゃありませんよ。一番最初に出会ったからという単純な理由で望まれたくなんてありませんね」
「そうではない。お前の実力は信用しているが、それだけではない」
「……だったら、あなたは俺に何をくれるんです?」
「何? とは?」
「俺はあなたのお仲間でもなんでもない。ならば旅の間だけ雇われるようなものでしょう。ですが生憎、五百年前に方々の権力者をたらしこんだおかげで金には困っていないんです。そんな俺に、あなたは何を差し出してくれるんですか?」
 ウルリークは指を伸ばし、卓の上に両手をついて身を乗り出すリューシャの顎先を擽った。性的な興味を含むその仕草に、リューシャが眉を顰める。
「それとも、俺が欲しい物をくれますか?」
「お前が望むのはなんだ」
 先程リューシャがそうしたようにその青い瞳を覗き込み、ウルリークは言った。
「あなただ」
 セルマがガンッと卓に足を打ち付けた。ウルリークは気にもせず指を滑らせて、リューシャのクラヴァットをするりと撫でる。
「わかった。お前が望むならそうする」
「ちょ、待っ、リューシャ!」
「殿下……」
「お前たちは黙っていろ。我はこやつと一対一(サシ)で話をつける」
「その方がいいでしょうね」
 ウルリークは、親指でくいっと寝室を示して見せた。慌てふためく年上の同行者を背に、リューシャはあっさりとその扉をくぐる。