第2章 縁を結ぶ歌
7.動き出す必然
025
六時の大陸とも呼ばれる黄の大陸。この大陸の南東地域を治めるシャルカント帝国の港に数隻の軍艦が停泊していた。
「国王陛下、準備が整いました。いつでも出立できます」
「ああ。御苦労だったな」
出航に関して一通り打ち合わせをしたラウルフィカのもとに、また新たな報せが届く。
「陛下、ベラルーダから宰相閣下が到着されました」
「すぐに行く」
報告を受けたラウルフィカは、その兵士と護衛たちを引き連れて一度船を降りた。港の様子は現在、非常に物々しい。
そもそもここはシャルカント帝国であり、ラウルフィカはベラルーダ王国の王だ。港に停泊中の軍艦もラウルフィカがベラルーダから連れてきたものであり、港の帝国勢力はこちらを警戒してぴりぴりしている。
シャルカント帝国とベラルーダ王国は現在友好関係にある。しかしその実態はほぼベラルーダが帝国に隷属しているようなものだ。シャルカント皇帝スワドはベラルーダ王ラウルフィカを特に気に入り、留学という名目で呼び寄せては愛人のように扱っているという噂が帝国内で広まっている。
砂漠の国ベラルーダは帝国に表だって逆らえる状況ではない。しかし、王の身を人質にほとんど帝国の支配下のような扱いをされて不満は高まっている。そのような状況でベラルーダ国籍の軍艦を帝国内港に受け入れることに対し、帝国側でも難色を示していた。
しかし今回のベラルーダ軍艦の停泊理由は、もともと帝国の攫われた皇太子を助け出すためである。緋色の大陸にも拠点が存在する人身売買組織を追いかけるには黄の大陸南部のベラルーダよりも、東部の海岸地域を広範囲に渡り支配下に含むシャルカント帝国の港を利用した方が都合が良い。
皇帝は余程ラウルフィカに帝国を裏切らせない自信があるらしく、一見無茶があるような命令でも容赦なく下す。しかし上層部の複雑な事情を知らない現場の将校たちは絶えずベラルーダに対する警戒を続け、その警戒に晒されるベラルーダ側の緊張も高まっていた。
飛び領土の港から軍艦を連れてきたラウルフィカは、同時にベラルーダ本国から宰相に向けて港に見送りに来るよう勅命を出していた。
「……陛下、国王が国を空けている間の宰相の責務とは、国内に騒乱が起きぬよう玉座を守ることだと私は考えていたのですがね」
二十一であるラウルフィカより二十近く年上の宰相ゾルタは、国王の急な呼び出しに不機嫌な顔つきで嫌味を飛ばした。
少しでも人目のある場所では息子程の年齢の国王に丁重に仕える様子を演じるゾルタだが、二人きりになった途端これである。護衛の兵士たちも、今は部屋の外で待機させている。
ラウルフィカとゾルタの間には、一言で語れない因縁がある。
父王を早々に亡くしたラウルフィカが即位したのは八年前、まだ十三歳の時だった。父の後を継いで次代の宰相として十分な足場固めをしていたゾルタはそんな子どもに恭しく傅くのが耐えられず、密かに反乱を起こした。
自らと目的を同じくする四人の共犯者と共にラウルフィカを凌辱し、精神的、肉体的に支配して権力をいいように利用してきたのだ。
その五年後、成長したラウルフィカは自らを支配する男たちに逆襲し次々と追い詰めていった。五人の男たちのうちゾルタを除く四人は死亡、あるいは行方不明となっている。
しかしその時、復讐に手を借りたという別の因縁が更に厄介な人間関係を新たにラウルフィカの周囲に生み出した。どれほど屈辱的な扱いを受けようともラウルフィカがシャルカント皇帝スワドに逆らえないのもそれが理由である。
当時からラウルフィカの最大の敵でありながら王と宰相としてはすでにそれなりに関係を続けてきたゾルタは、今も表向き無事に生き残っている唯一の男だ。
お互いに相手の立場や外面に対し言いたいことは数あれど、ここ三年程は職務以外で一切話をしない冷戦状態が続いている。ラウルフィカがスワドによって頻繁に帝国に呼ばれ、個人的な話をする機会がないことも影響しているだろう。
それでも、この宰相がラウルフィカの人生において公私共に最も長く付き合いのある人物には変わりがなかった。
「書簡で伝えた通り、私は失態を一つ犯した。例の人身売買組織に攫われた皇太子殿下を取戻しに、これから緋色の大陸に向かう」
「失態……ですか。話を聞く限りどちらかと言えば、迂闊だったのは帝国側だと思いますが」
シャルカント帝国に以前から良い感情を抱いていないゾルタは、特にラウルフィカを庇うつもりでもないだろうが帝国の動向について渋い顔をする。気の合わない主従だが、ラウルフィカに政治を叩き込んだのはこのゾルタだ。二人の国政に関する思惑は概ね一致している。
「だろうな。しかし皇帝陛下はこのまま皇太子殿下が戻らぬ場合は次の立太子に向けてラティーファを寄越せと言ってきた。いくらなんでも、そこまで言いなりになるわけにはいかない」
ラティーファはラウルフィカの一人娘だ。つまり、ベラルーダ王国にとっては世継ぎの王女でもある。ラウルフィカの妻である王妃がすでに死亡している以上、唯一の王女を帝国に奪われることは、ベラルーダが実質シャルカントに併合されることを意味する。
かつて、同じような方法でベラルーダが砂漠地帯の隣国プグナを併合したように。
「そのための出兵ですか。練度の低い我が国の海軍で太刀打ちできますかな」
「大陸さえ渡ってしまえば後はどうとでもなる。人身売買組織の動きも、こちらで皇太子を攫ったのなら向こうの大陸でさっさと移動させるだろう。どの道練度の高い軍隊を使う状況ではない」
大人数の軍隊よりも、必要なのは素早く動ける手練れの小部隊だ。
「いっそ、ラティーファ姫を本当にくれてやってはどうですか。陛下が新たな妃を迎えて新しく王太子を儲ければ、ラティーファ姫の即位に拘る必要もない。もともと、ベラルーダの王位は男子優先ですしね。帝国の手が回る前に国内の体制を整えれば良い」
ゾルタとしても現状ラティーファを次の王に定めた方が権力を握れる状態なのでラウルフィカの再婚問題をあれこれ理由をつけて放置していたのだが、状況がこうなっては別だ。まだ二十一歳のラウルフィカは容姿端麗かつ健康で国内の評判も良い。後継者をもたらす新しき王妃さえ迎えれば、すぐに跡継ぎを作ることができるだろう。
生まれたばかりのラティーファ姫には婚約者を早々にあてがうことになるが、帝国の皇太子ならば悪い縁組ではない。王族における政略結婚とはそういうものだ。その辺りに関してはむしろラウルフィカの方が異例中の異例な女関係を築いていた。
むしろここで異大陸への出兵などに王であるラウルフィカを直々に送り出して万が一の危険を考えるよりは、すでに母妃を失い後ろ盾のない王女を帝国の皇子の婚約者として差し出し出兵を免除してもらう方がベラルーダにとっては都合が良い。ラティーファ姫の将来よりも、ラウルフィカ王の命の方が重い。ゾルタならばそう考える。
だが、ラウルフィカの意見は違った。
魔性のような美貌を持つ青年王はふっと微笑むと、ゾルタの手に滑らかな鉱石でできた物の感触を伝える何かを滑り込ませた。指を開きそれを確認して、ゾルタが愕然と目を瞠る。
「これは……」
「お前に御璽を預ける」
御璽。あるいは国璽とも呼ばれる。国家の重要文書に判を押して法令や条約を発効する――君主の象徴であり、証。
極端なことを言うのであれば、御璽を用いればゾルタがラウルフィカを追い落とし王になることさえ可能だ。国の公的な文書を王の名で発効する際、御璽を押してある書類こそが正式な文書だと判断されるのだから。やり方によってはいくらでも悪用できる。
その御璽を、国王としての権力の証を、最大の政敵に預ける。その理由は――。
「もしも私がこの出兵以降、ベラルーダに帰ることがなければお前がそれを使え」
淡々と、明日の行事日程を確認する時と変わらない口振りでラウルフィカは告げた。
「簡単に王に成り代われるなど、お前はそう考える程愚かではないだろう? ゾルタ。むしろお前は今のように傀儡の君主を立てて好きに国政を操る方が愉しいはずだ」
長い付き合い。ラウルフィカももう大分ゾルタの思考が読めるようになった。一方のゾルタは、今ラウルフィカが何を考えているのか、まったく――わかりたくもない。
「お前の妃はプグナの元王女にして、ラティーファの姉。王にならずに権力を握るならば、義兄の立場でラティーファの後見となる方が確実だ」
かつてベラルーダが隣国プグナに侵略して併呑した際、王族にして王位継承権を持つ元プグナ王妃をベラルーダ国王の妻に、その娘にしてプグナ唯一の王女を宰相の妻にしてかの国の権力機構をそのまま奪い取った。
それぞれの年齢や立場を考えるとおかしなことになるが、法律上ラウルフィカはゾルタの義理の父ということになり、ラウルフィカの娘ラティーファはゾルタの義理の妹となる。これらは全てラウルフィカの妻であった王妃アラーネアを介した繋がりだ。
その上ラティーファはすでに母を亡くし外戚権力が存在しない状態である。だからこそプグナ王女との婚姻により母方の親族の一員となったゾルタとの繋がりができる。現在でさえゾルタは一介の宰相とは思えぬほどの権力を握っている状態だが、この状態でラウルフィカがベラルーダに帰らないとなれば、ゾルタが実質国王と同等の立場になる。
「……死ぬおつもりですか」
「好き好んで死ぬような真似はしない。だがこのままの状況でいいとは思っていない」
シャルカント皇帝スワドに弱みを作ったのは、ラウルフィカの失態。今回の皇太子拉致ではなく、それ以前の――この関係のはじまりに関することだ。
悪縁を、そろそろ断ち切らねばならない。
ゾルタの言うとおりラティーファを帝国に差し出せば仮初の安寧は得られるだろう。だが、ラウルフィカには娘を犠牲にして一人だけ素知らぬ顔で罪を免れ続けるつもりはなかった。
かつて罪を犯したこと、亡き王妃との間に娘を儲けたこと。それ自体は、何一つ後悔していない。だからこそラウルフィカは、自らの望みの結末であるこの事態に対して責任を負わねばならない。
次に盤上から消えるべきは娘ではない。自分なのだ。
「お前に対する復讐を果たせなかったのが心残りだがな。ふん……長き勤めに対する報酬だと思って持って行け」
玉座そのものではなくそれに匹敵する、あるいはそれ以上の権力を。もともとプグナ王女との婚姻はゾルタに対する嫌がらせのはずだったのに、それが今になって効果的に働くとは悪運の強さに笑いが出る。
「……与えられる権力なんて興味ありませんね。自分の手で奪い取ってこそです」
「そろそろ落ち着け、四十手前」
「まだ三十代です。――御武運を、陛下。一臣下としてお帰りをお待ちしております」
今までの話は、あくまでもラウルフィカがもはやベラルーダに帰って来なかったらという仮定の話だ。
御璽を懐にしまったゾルタが退出する。彼は今からベラルーダへとんぼ返りだ。
軽くなった衣装の胸元を手で撫で、ラウルフィカはそっと息を吐いた。未来に対する最低限の義務は果たした。あとはやれるだけやるだけだ。
部下たちと共に最後の確認を終え、シャルカントの港を出港する。目指すは今より破滅に近い場所、自らの終わりに続く旅のために。
◆◆◆◆◆
「あれ……? 殿下……?」
セルマとダーフィトとウルリークは、正午の鐘が鳴る頃に丁度中央広場に戻ってきた。
三人はお互いにお互いをすぐ見つける。ダーフィトもセルマも軽鎧をつけたままの格好が目立つし、ウルリークも長い髪が見えればまず人違いをすることはない。
ここまでは良かったのだ。問題は……。
「リューシャ……? あ、あれ?」
いない。どこを探してもいない。
ダーフィトとセルマがさーと青褪める。
正午の鐘が鳴り、広場は遊ぶ子どもたちと幾人かの大人の姿で埋まっている。大人は鐘を聞いて仕事に戻る者と、これから休憩に入る者たちが入れ替わる。
だが、どこを探してもそのどちらの層にも属さない少年の姿が見当たらない。リューシャの薄紅色の髪は独特だ。まず見逃すことはない。そしてこちらもリューシャより更に濃いマホガニーの長い赤毛を持つダーフィトがいる。リューシャがこちらを見ていたら気づかないはずはないのだが――いない。
「なんで移動してた俺たちじゃなくここから動かなかった人が行方不明なんでしょうねぇ」
ウルリークが呆れながら、その辺りにいた青年を一人捕まえる。
「すみません。ちょっとお聞きしたいんですけど、この辺りに私と同じような年頃の少年いませんでした? どうやら迷子になってるみたいで」
本人がいないのをいいことに勝手に迷子扱いし、情報を聞き出そうとする。美少女然としたウルリークににっこり笑いかけられて鼻の下を伸ばした青年は親切に答えてくれた。
「いや、見てないなぁ。と言っても俺、今ここ来たばっかなんだよね。何? 待ち合わせ? だったらこの時間はいつもあそこにいる子どもたちが遊んでたはずだから、聞いてみるといいんじゃないかな」
「どーもー」
愛想よくしかしそれ以上引き留められないようさりげなく青年から離れ、三人は広場で遊んでいた子どもたちの集団に話を聞く。
「ねぇねぇ、ちょっといーい?」
リューシャの特徴を伝えて見かけなかったか尋ねると、幾人か反応が返った。
「あのきれいなお兄ちゃん? えっとねぇ、歌のお兄ちゃんを追いかけて行ったよ」
「歌のお兄ちゃん……?」
なんでもこの広場では少し前まで、吟遊詩人らしい少年が歌っていたという。旅人という様子がなかったのでただの趣味かもしれないが、その時間に広場にいた者は皆彼の歌に聞き入っていたそうだ。
「きれいなお兄ちゃんにね、歌のお兄ちゃんがどこに行ったか聞かれたの」
「ちなみに、どっちに行ったの?」
「あっち」
子どもの指差す方角を見て、ウルリークは顔を顰めた。
人気のない裏通りに繋がる道のりだ。奥の分岐で大通りに戻れる可能性もあるが……嫌な予感がする。
「そっか。ありがとうね」
子どもたちに礼を言って、三人は示された道を辿りリューシャの足跡を探し始めた。
「なんでこんな人気がないところに一人でなんて」
「その前に、吟遊詩人というのは何者だろう。あの子たちの言い方だとリューシャの方から追いかけていったみたいだが、逆にナージュの手下におびき出されたとかじゃ」
「とりあえず行ってみましょう。幸いこの街に血の匂いはしませんしね」
恐ろしいことをさらりと言い、ウルリークが二人を先導する。これまで通ってきた街ではうまく避けてきたはずの面倒がよりによってこの港町で噴き出すとは。
考え事をしながら走り続ける視界に、ふと濃い影が差した。
「うおわっ!」
「きゃあ!」
曲がり角の向こうからやってきた人物とぶつかりそうになり、ウルリークは慌てて体勢を整えた。お互いすれ違うようにしてなんとか躱すが、バランスを崩したために壁に脇をぶつけてしまう。
「あたた……」
「ご、ごめんねお嬢さん!」
飛び出してきた黒髪の男が、慌ててウルリークに声をかける。ぱっと見で美青年とわかる相手に、反射的に笑顔を作って彼を見上げたウルリーク。
男は何故かウルリークを吃驚した様子で眺めていた。
「シェイ――いや、違う、人違いだ。重ね重ねごめんね」
「……誰かお探しですか?」
驚きの表情は、ウルリークを一瞬誰かと見間違えたかららしい。セルマが背後で何を悠長に言葉など交わしているのかと苛立った視線を向けて来るが、構わずウルリークは話を進めた。
こんな人通りの少なさそうな路地裏で、成人男性であるダーフィトや女性のセルマではなく、少年体型のウルリークと「誰か」を見間違えた青年。
この青年も綺麗だ。リューシャやウルリーク程ではないが、少なくとも国中で人気だったというダーフィトと張る程の美形には間違いない。
「本当ごめんね。君の淡い髪色が一瞬銀髪に見えてしまって……よく見たら全然違ったよ」
ウルリークの薄紫の髪は光の加減で白に近く見えることもある。それはともかく。
「銀髪? あんたは銀髪の少年を探しているのか?」
ダーフィトが青年の言葉に反応する。広場で「歌のお兄ちゃん」について教えてくれた子どもたちによると、それは銀髪の少年らしい。
「俺たち、さっきまであの広場で歌ってたという少年を探しているんだ。その子は銀髪らしいんだけど――」
「それは辰――や、アスティのことかな。ええと、私が探してるのはそうじゃなくて」
「彼について知っているのですか?!」
歌謡いの少年と知り合いらしい青年の言葉に、今度はセルマが喰いついた。服の胸元を掴んで縋りつく。
「お願いです! その少年について知っていることを教えてください!」
「え、ええ?」
初対面の女性に突然抱きつかれ――と言うよりは締め上げられ、青年がひたすら驚いた顔をする。
「な、なんで?! 彼は街の地元民ってわけでもないし、そもそも彼らがここにいるのだって私の依頼で――」
「依頼?」
ただの知人や友人を指すには不適当な言葉、それよりももっと事務的な、どこか計画性を感じる響き。その言葉を聞いて三人の顔色が変わった。
「俺たちはリューシャさんを探しているんです。で、そのリューシャさんは銀髪の歌謡いを追いかけて広場を出て行ったらしいんですよね。あなたがその銀髪少年と知り合いということは――何かを知っていると言うことですよね」
セルマとダーフィトが無言で剣を抜く。
ぎょっとした様子の青年に、ウルリークがわざとらしい程ににっこりして告げた。
「きりきり吐けば良し。言わないのならこちらも相応の態度をとらせてもらいますよ」
「え? え? ちょ、待っ――!」
リマーニの裏通りに青年――攫われた恋人を探すラウズフィールの悲痛な叫びが響き渡った。