Fastnacht 11

第2章 縁を結ぶ歌

11.遠い歌声

041

 むかしむかし、一人の少年が海辺の村に流れ着きました
 忌まわしい異形の子 呪われた魔術師
 けれど村の人々は彼を受け入れて、魔術師の少年はそこで初めて幸せを知りました
 その村は邪神を崇める背徳の村

 けれどそこで生きている人々は、笑いも泣きもするただの人間だった

 ◆◆◆◆◆

「……意外だ」
「意外なんだよね」
 割と失礼なことを言ったのだが、反発するのでもなく同意されてしまった。竪琴を奏でるセルマの姿に、辰砂たち三人は溜息をついてその音色に聞き入る。
 セルマの前職はどうやら暗殺者らしい。それを知っている面々の内心を代表して辰砂は「意外」と言ったのだが、ダーフィトがあっさりと頷く。
「もともとセルマは楽器なんてやらなかったんだよ。けどリューシャが勧めてな。試しに弾いた中で竪琴が性に合ったんだと」
 竪琴なら流星海岸で奏でていたウルリークも、リマーニで吟遊詩人に扮していた辰砂も所有している。セルマはとりあえずウルリークのものを借りて弦の調子を確かめた。
 シャルカント宮廷に潜入するためのウルリークの案は、「芸人に扮する」ことだった。
ウルリークは竪琴ができる。辰砂も人並には弾ける。だが彼がその役を言い渡したのは、自分でも辰砂でもなくセルマだったのだ。
 作戦会議室と言う名の安宿の一室に、無償で聴くのがもったいないような至上の音色が響き渡る。
「……上手いね。僕なんかよりよっぽど吟遊詩人としてやっていけるよ」
「あんたも専業じゃなくて趣味みたいなもんだろ」
 リマーニでは吟遊詩人として数曲演奏した辰砂だが、この音は出せないと素直に負けを認める。
 シャルカントの皇帝スワドは享楽的な人物だ。好奇心で動く面もあり、芸事を鑑賞するのも好きだという。多くの貴族が嗜みとして演劇を鑑賞する程度のものではなく、それが「面白そうなこと」であれば何にでも興味を持ち首を突っ込む性格だと。
 そのため、ウルリークはなんとか皇帝の興味を引く芸を提供できれば宮殿に入り込めると考えた。
「誰かが伴奏を奏でてくれれば、それに合わせて俺が踊りますよ。弾き歌いができればそれに越したことはありませんが」
「できるが、私が知っているのはアレスヴァルドのごく一部の曲だぞ? 主には子守唄だ」
「だからいいんですよ。遠い異国の音楽と美しい踊りっていうのが。でも念のためにこちらで人気の歌も何曲か覚えてもらいましょう」
 自分で美しいと言うか。皆、内心で突っ込む。それもセルマの竪琴の腕はともかく、ウルリークの踊りの腕前はここしばらく道程を共にしていたアレスヴァルド一行もまったく知らない。
「ふふん。“傾国”をなめないでくださいよ。小指の先の動きだけで男をイかせるのなんて朝飯前ですよ」
「わかった、わかった、わかったから」
「で、具体的にどうするのだ?」
 リューシャに勧められてから楽器を始めるようになったセルマの演奏家としての経歴は短く浅い。子どもでも知るような歌を知らないなどということも当たり前にあり、その辺りは公爵子息として鑑賞の経験があるダーフィトが何曲か教えることになった。
 主題があくまでもアレスヴァルドの音楽なのだから、東出身の銀月たちでは駄目である。ただしこちらで流行りの音楽に関してはベラルーダ出身の銀月とラウズフィールで教えることになった。
 セルマは彼らに教えられた曲を次々と器用に呑みこんでいく。鼻歌にすらならない曖昧な旋律を一度で覚え、前後の調和から不足した部分を補完し、原曲とは多少ずれがあるかもしれないが、音楽としては不足のない完成した一品に仕上げていく。
「才能って奴だね。僕は竪琴はできるけどこういうことはできないよ」
「だからセルマさんに勧めたんですよ」
 異国の地を旅することは多いが楽曲そのものにあまり興味のない辰砂はこの瞬間出番がない。セルマとダーフィトたちがああでもないこうでもないと話し合うのを見ながらだるそうに頬杖など突く。
「竪琴、か」
 見せかけの不老不死により時間だけはたっぷりあるので様々な知識や技術の習得に余念がない辰砂は、竪琴を奏でることはできる。けれどその腕前はよっぽど競争相手のいない場所でないと吟遊詩人として食べていくには厳しい。吟遊詩人そのものがそういう職だが。
 それに比べるとセルマの演奏の腕は見事だ。比べ物にならないと言ってもいい。
 弾き歌いも難なくこなす。ダーフィトやラウズフィールが原曲を覚えていない部分は適当なアレンジを入れた。吟遊詩人は元々過去の神話や歴史を歌で伝えることが主眼に置かれた職なので、こうして原曲が改変されていくことがままある。
 とはいえ、一口に「吟遊詩人」と言ってもその内実は様々だ。ダーフィトたちが教えているのは古くから伝わる伝承歌が多いので問題ないだろうが、宮廷詩人と呼ばれる人々は音楽家としての側面が強く自作の著作権について主張している。そういった作品を流れの詩人が使うことはできない。
 辰砂も普段は曲作りなどしないのだが、今回リマーニで演奏するにあたって、弾き歌いできる手持ちの曲が少なかったので一曲は自分で創作した。
古くから伝わる神話に斬新な設定を加えたもの……と人々には受け取られるだろうが、実はあれはただの実話だ。神話も何も、辰砂の実体験である。自分がただの人として生きていた頃の話が今では「神話」とくくられてしまうことに、辰砂は絶え間ない時の流れを感じる。
 セルマの竪琴の音色は、何故だか酷く懐かしかった。穏やかな旋律が、辰砂の心を過去に引き戻す。
 むかしむかし、今では流星海岸と呼ばれる海辺に、漂流した辰砂は流れ着いた。
 衰弱した彼を介抱してくれたのは、その海辺に村を作って暮らしていた、『背徳神グラスヴェリアを信仰する民』だった。
 グラスヴェリアは邪神と呼ばれることもあり、現在ではそちらの認識の方が一般的ではあるが元々はそうではない。背徳と悪は似てはいるが、一足飛びに結び付けられるものでもないのだ。
 ただし、直接的な罪はなくともその性質故に大多数に嫌悪され忌避される神であることは間違いなく、彼自身も彼の民もその自覚があったためにあえて一つの村で暮らしていた。
 辰砂は瞼に手を当て、今は魔術で両眼とも紫に染めた本来は色違いの双眸を想う。
 その色違いの瞳が異相となる故に、かつて辰砂は所謂「まともな」人間の集落で人間扱いしてもらえることがなかった。辰砂を受け入れてくれたのは、自身も異端と呼ばれる者たちの集まりであった背徳の神の民だけであった。
 背徳神と彼を奉じる双子の巫覡と皆で平和に慎ましやかに暮らしていたのに、ある日秩序神ナーファが村へとやってきて背徳神への信仰を糾弾した。背徳は秩序を乱し混沌をもたらすからだ。
 しかし背徳神の民は自らの信ずる神への敬慕の念を捨てなかった。かつて世界は今よりも人と神々の距離が近く、地上で自らの民と暮らす背徳神を捨てるなど彼らには考えられない。それは大事な家族を捨てるようなものだった。
 彼らのその決断に秩序神は怒り、双子の巫覡を殺して村を滅ぼした。
 彼らを愛する背徳神と、生き残った辰砂は怒り。そして――。
 フローミア・フェーディアーダ神話『神々と創造の魔術師』においては、辰砂は人でありながら不遜にも神を超えようと驕り高ぶった存在として伝えられている。
 背徳神グラスヴェリアに関しても、神話においては混沌を好み悪意によって行動する神と断じられている。
 自身にそういった面があること自体は否定しない。完遂させるつもりで復讐を仕掛けるには、自身の力が相手を上回っていないと無理だ。それを指して驕っているというのであれば、自分に関する評価は甘んじて受けよう。
 けれど、辰砂の愛する背徳の神は今も他の神々と主神である創造の女神に対する反逆の罪で常闇の牢獄と呼ばれる永遠の夜の国にいる。
 秩序神に殺された彼の民はもう永遠に帰らない。
 この世界で今も背徳の神グラスヴェリアを信仰する民は、忌まわしき創造の魔術師こと、この辰砂ただ一人。
 その辰砂にしたって一度は神の手で殺されている。伝説では不老不死と言われる辰砂だが、実際はもちろんそんなことはなく、ただ魂に刻み込まれた強い感情が彼を生まれ変わるたびに辰砂たらしめるだけなのだ。
 懐かしい竪琴の音色が響く。最後の音を爪弾いてセルマの演奏は終わった。
「どうだった?」
「え?」
「もう。聞いてなかったんですか?」
「あ、ごめん。でもいい音色だったよ」
 セルマに怒られた。ダーフィトたちは曲を教えてそのだいたいの正誤を判定し、全体としての音楽はそれ以外の辰砂とウルリークが判定するはずだったのだ。
「まぁまぁ落ち着いて。良かったですよ、セルマさん。後は実際に踊りが入るとまた変わるでしょうから俺と練習しましょう」
「そうだな」
 小休止という話になったのか、セルマが竪琴を置く。
 腹が減っては戦はできぬ。下の酒場から食事をもらってきて休憩をとることにした。
 銀月から配られたお茶を受け取ると微かな甘みがある。この地で飲まれるのは主に甘味のないすっきりした茶だがさすがに南東帝国の首都は茶葉の品揃えも豊富らしい。
 この手の給仕は基本的に銀月の仕事だ。一応彼も元は一国の宮廷魔術師長というそこそこ偉い立場だったはずなのだが、生粋の王族貴族と師にして伝説的な魔術師、伝説の淫魔を前にするとただの雑用係である。
 たまにセルマも手伝ったり、内容によっては彼女ではなくラウズフィールが手伝ったりする。今は主に演奏疲れを起こした彼女のための休憩だから銀月とラウズフィールが率先して動いているのだろう。状況と面子によっても動く人間は変わる。
 ちょうど辰砂とアレスヴァルド一行だけが残されたテーブルで、ふと何気なく辰砂は尋ねた。
「そういえば、君たちが探しているリューシャ王子ってのはアレスヴァルドの不吉な神託を受けた王子様だよね」
 もっと早く確認しても良かったのだろうが、なんだかんだで細かい計算違いが相次いでこの話題を出すのは遅れていた。シェイとリューシャ、人身売買組織とシャルカント帝国、様々な事情が相まって事態をより一層複雑に見せている面もある。
 とはいえやること自体は変わらない。リューシャ王子とシェイ少年を取り戻す。今は相手が二大陸をまたぐ人身売買組織から帝国に変わっただけだ。
 辰砂は人身売買組織から二人を回収しようとした際、リューシャともシェイとも一瞬だけ顔を合わせている。おかげで相手の顔を知っていることに関しては問題ない。
 シェイに関してはごく一般的な少年らしく彼の恋人と言う名の庇護者になりたがるラウズフィールも創造の魔術師からしてみればごく一般的な青年の範囲内だ。こちらの二人に関しては実はあまり気にしていない。助け出した後、適当な場所に送り届けてやればそれまでだ。
 しかしアレスヴァルドのリューシャ王子と言えば、今現在青の大陸で最も重要な人物だ。青から離れたこの黄の大陸でも、支配者の性質によってその扱いがどう転ぶのかわからない。
 その辺りを考えるにはまず、リューシャがどうして国を追われたのか、彼が故国でどういう扱いだったのかを知ることが肝心だろう。
 生まれた子どもの運命を占う「神託」という習慣がある国で、生まれながらに不吉な託宣を受けた王子だという大雑把な噂なら聞いたことはあるが――。

「この者はいずれ、総てを滅ぼす破壊者となる」

 ふいに飛び込んできたその一言に、辰砂は瞬間、呼吸を止めた。
「――っていう神託を受けたんだよ。でも破壊者って言ってもいろいろあるだろ? 全てを滅ぼすなんて言っても具体的にはどうなるのか、詳しい意味がわからなくて……辰砂?」
 ごとり、と音を立ててお茶の器が落ちた。
安宿の材質に感謝するべきだろう。木のテーブルと器は割れもせず傷もつかずただ濡れていく。
 リューシャに与えられた神託を口にして説明していたダーフィトが怪訝な顔でこちらを見ている。アレスヴァルド人の二人は、長年考え続け調べつづけてきたその言葉の意味がまだわかっていないのだ。
 だが、辰砂は。
「その言葉……」
 その託宣の文句に心当たりがあった。
「本当に、一言一句違わず、それ?」
 誰よりも、誰よりも自分がよく知っている。
「え? ああ。そうだ。間違いない」
 リューシャ自身もその父王エレアザルも再従兄弟のダーフィトも、神託の意味について長年考え続けてきた。この一文をそう簡単に忘れるはずはない。
「なんだよ。どうしたんだ。あんたまさか、この神託の意味がわかっ――」
「意味も何も、そのままだよ」
 辰砂が辰砂と言う名の界律師であることはわかっても、西側の人間であり、魔術師嫌いと言われるアレスヴァルド人であるダーフィトたちはそれがまだ“創造の魔術師”の神話とは結びついていないようだ。魔術の腕は買っていても神がまだ地上にいた頃より存在する魔術師としての知識を辰砂に求めたことはない。
 最高位の魔術師はこの世界の律を修めた者という意味で界律師と言われる。人類最強の魔術師である辰砂は界律師である。だが彼は普段はただ魔術師と呼ばれる。それは創造の女神の力を奪い、神々に反逆した不遜な存在であるが故に。
 この辺りの事情を全て理解しているだろうウルリークが何故それをダーフィトたちに説明しないのかは辰砂にもわからない。緋色の大陸で彼らと出会ったというウルリークの思惑は、元からのアレスヴァルド勢とは別のようだ。
 ――ああ、そんなことはどうでもいい。
 今重要なのは、渦中の人たるリューシャ王子に関する神託に関して。
 人身売買組織の馬車から攫いに行ったときに見た少年の顔が脳裏を過ぎる。あの時覚えた違和感にはちゃんとした理由があったのだ。
「そうか。彼は“総てを滅ぼす者”なのか」
 何故すぐに気づかなかったのか。
「お師様?」
 食事の皿を手に戻ってきた銀月が不思議そうな顔をしている。彼らは零れたお茶を拭きもせず引きつった顔で凍り付いているのだ。それでも室内は何かがあったようには見えない。
「……一応約束だからね。宮殿から脱出するところまでは協力してやるよ」
「辰砂さん」
 ウルリークが声をかけてくる。だが今は聞きたくない!
「けどそれ以降はもう手出しはしない。いや、最初から関わるんじゃなかった」
「お、おい」
 いきなり態度が豹変した辰砂の様子に、ダーフィトたちもただならぬものを感じて席を立つ。だが彼らの腕が伸びるよりも辰砂が銀月の腕を掴んで転移をする方が早い。
「必要なら適当に呼べばいい。それ以外は知らないよ」
 仰天するアレスヴァルド勢とラウズフィールを置いて、辰砂は姿を消す。
「あの子が“総てを滅ぼす破壊者”ならば――それは、僕の敵だ!」