第3章 折れぬ翼
13.硝子の箱庭
049
「いつ頃からいない」
「夕刻のようです。見張りは宴が始まり城内が騒がしくなった辺りまでは記憶があるそうです」
「王都の封鎖は」
「すでに伝心の魔術で各部署に通達済です」
「あの二人は目立つからな。捜索自体は容易いだろう」
スヴァルから話を聞きだしたラウルフィカは一度宮殿内で与えられた自室に戻り着替えた。流石にベラルーダ王ともあろう者が他国で夜着姿を外に晒すわけにはいかない。
兵士たちに指示を出しつつ、自らも剣を腰に佩く。
「陛下、御身も同行されるのですか?」
「ああ。その方が話が早いだろう。向こうの身分もあるし、兵士が言いくるめられて手を出せないようでは困る。殴る時は私が直々に殴る」
護衛騎士であるカシムの問いに苛立たしげに答え、ラウルフィカは兵士数名を連れて宮殿の正門をくぐった。
「逃げられると思うなよ……!」
その瞳に浮かぶのは、焼け付くような妄執だった。
◆◆◆◆◆
夏の気温の高い黄の大陸南東地域では、建築物の装飾に透かし彫りを多用する。王侯貴族の権威を瀟洒な装飾によって示しながら風通しを良くして少しでも涼をとる手段の一つだ。もちろん一般市民の住居はそうではない。
この南東帝国シャルカントの宮殿は、まさしくそれら気候への配慮と権勢を兼ね備えた芸術の粋だった。窓や吹き抜けが増える構造上警護の人員も増えるが、その兵士さえも制服に拘らせこの宮殿を飾る作品の一端と成してしまうのが現皇帝スワドの手腕でもあった。
スワド帝は好奇心が強い男で、芸術方面に強く関心を抱いている。
その日、シャルカントの宮殿では旅の踊り子を招いた宴が開かれていた。
広間中央に色鮮やかな絨毯を敷かれた簡素な舞台を囲み、集まった人々はひそひそと噂を交わす。
「なんでも皇太子殿下が……」
「他国からの客人がいるという話を聞きましたが……」
「皇帝陛下のまた悪い遊びでしょう……」
「そういえば、ベラルーダ王のお姿がありませんね……」
誰も彼も上品な物腰であるのに何故かそうは見えないのは、このさざめく空気のせいか。
「そろそろ出番ですよ、セルマさん」
「ああ」
扉を開き、芸人二人は広間へと入室した。
本日の余興を行う者であり、芸事を好む皇帝の趣味から言えば主役でもある踊り子と伴奏者の登場に周囲がさっと静まり返る。
旅の芸人としては珍しいことに、女の二人組だった。舞姫は当然女性だが、竪琴を持った伴奏者まで女性というのはあまりない。
だが、その地味な容姿の伴奏者に関しては広間の人々もそれ程目を向けなかった。彼女よりも、もう一人――舞台の中央に堂々と歩み寄ってきた舞姫に視線が集中したのだ。
集まった者たちの誰もが、その踊り子に魅せられる。
「お初にお目にかかります。皇帝陛下」
淡い紫の長い髪の一部を残して優雅に結い上げ、露出度の高い舞姫用の衣装を身に纏う女。透き通るような薄い布を何枚もひらひらと花弁のように重ねて、そこかしこに硝子の鈴でできた装身具を身につけている。
美しい女性だった。老若男女問わず、皆が一瞬で惹きこまれる存在。
真紅の瞳は禍々しい謂れのある宝石のようで、その姿態は何もかも調和した抜群の均衡を保っている。
身動きしやすい衣装は大事な部分を隠しつつも際どい隙間が作られていて、胸元や脚線美には多くの男が夢中になった。
その美貌、かつて“傾国”と呼ばれ人々を恐怖と慟哭で追い詰めた淫魔のもの。
「そなた、名は?」
「ウルリーカ、と申します」
天下の皇帝に対してさえ無作法で傲慢な様子を隠そうともしない。その様さえ魅力的に見せる最強の淫魔。
リューシャの前では「ウルリーク=ノア」と名乗ったはずの彼は今、女性の肉体をしていた。
竪琴で踊りの伴奏を務めるセルマがこっそりと溜息をつく。
ウルリークは男であった時も美しい少年であったが、突然その姿を女性体へ変化させた時は目玉が飛び出るほど驚いたものだ。
変わったのは性別だけではなく、年齢も変化している。十代半ばの少年の姿から、二十歳過ぎの女性へと。この姿ならばウルリークがかつて国を傾けた淫魔というのも納得できる。
そうして外見上は申し分のない舞姫となった彼とともに、セルマはシャルカント宮殿へとやってきた。
ダーフィトはアレスヴァルドの公爵子息であることが知られると厄介なので、ラウズフィールと共に外で待機している。宮殿内で何かあったらウルリークが報せを送る仕組みだ。
無事に宮殿に潜入した二人は、この大人数の前で歌と踊りを披露する。
ウルリークの踊る舞台の傍らへ座ったセルマは、竪琴を構えた。
良くも悪くも気の大きい彼女は、このような場面でも緊張らしい緊張はほとんどしない。無事に潜入できた以上、ここまで来たら最悪この場の全員を殴って気絶させてでもリューシャを探せばいいからだ。けれどできるだけ穏便に効率よく探すには、もう少し平和的にこのまま芸人の振りを続けた方がいいだろう。
ウルリークとは何度か音を合わせたが、練習と本番ではやはり異なる。これだけ広い場所で、衣装から何から揃えて演じるのは初めてだ。
それでもやることは変わらない。
取り戻すのだ。リューシャを。
所定の位置についたウルリークの姿を確認して、セルマは最初の一弦に指をかけ、大きく息を吸い込んだ。
歌おう。彼女の知る喜びの歌を。
セルマは戦いや肉体労働系の役割はほぼなんでも器用にこなす。けれどアレスヴァルドでは、芸術的な感性は皆無と皆から呆れられていた。
刺繍をしても花を活けても壊滅的と評価されしょげ返る彼女に楽器を勧めたのはリューシャだった。それならセンスよりも、まずは肉体的な技能に頼るから、と。音楽も高みを望めば芸術性を求められるが、そこまで行かずとも何か弾ける楽器があることは趣味として楽しめる。
ただし、それを彼女に教えた主人自身は何の楽器もできない。
芸術的な魅力で権力者を籠絡したり、楽譜に暗号を潜ませて伝える技術など磨かれては困るからだと。馬鹿馬鹿しいと吐き捨てながら、触ることを許されない楽器を見つめる彼はどこか寂しそうだった。
だから。
だから、教えてくれ。セルマ。お前は母の子守唄も知らぬと言った。我も知らぬ。そしてお前はこれからいくらでも、好きな曲を覚えることができる。
綺麗なだけの歌に曲に、暗殺者を辞めたばかりのセルマはその時何の意味もないと思っていた。でもそうではない。決してそうではないのだ。それを、セルマはリューシャから教えられた。
セルマが楽器を覚えられるようリューシャが手を回すから、覚えた曲をセルマが奏でてくれと。それくらいは許されるだろうと。
誰が、どうして、何のために禁じると言うのか。けれどそれをずっと押し付けられてきたのがリューシャなのだ。
彼のために何を弾こうと考え考え、彼女が選んだ楽器は竪琴だった。一度手に取るとその楽器は生まれた時から爪弾いていたかのように馴染んだ。
正式な音楽など習ったことのないはずのリューシャは時折、不思議なことを言い出す。この曲を歌ってくれと彼がせがむのは、少なくともアレスヴァルド国内で彼女が聞いたこともないような曲だ。
だがその歌は、旋律は、不思議とセルマの身に馴染んだ。
今日歌ううちの一曲は、その中の一つ。
掴みはアレスヴァルドで人気の民謡で、これはダーフィトが教えてくれた。祝い事の度に舞台で選ばれた舞姫たちが踊るもので、振付けの曖昧さはウルリークの技術でなんとか補う。最後はこの大陸の人間なら誰もが知っているという人気の曲でしっとりと会場中に聞きなれた曲の良さと安心感を与える。まずは最低三曲こなさねばならない。
セルマが提案した歌は二曲目。ウルリークは何故かその歌を知っていた。銀月もラウズフィールも知らないと言っていたそれを。
一曲目が終わる。セルマの見事な演奏とウルリークの華麗な舞は見事に聴衆の心を掴んだ。
そして二曲目――。
声が、竪琴を爪弾く指が、まるで自分のものではないようだとセルマは感じた。
ウルリークの踊りも一曲の素朴な民謡とは打って変わって艶やかな熱が込められる。
彼女だけでは成立しない。彼だけでもできない。二人の音と舞を合わせて初めて――それは生まれた。
音が動きと重なり新たな不可視の旋律となって脳髄に響く。視界が聴覚を、鼓膜が視覚を犯す、この強烈な酩酊。
これは天上の舞楽だ。場に坐す誰もがそう思った。
竪琴を奏でながら歌うセルマと、その演奏に合わせて踊るウルリーク。その息は何年も二人だけの世界で呼吸を合わせたかのようにぴったりだった。
(どうして?)
知らないはずの音。知らないはずの踊り。なのに苦も無く相手の動きが、音が読める。二人で一つの世界を作り上げることができる。
これは明らかに、練習の時とは違う。それでも二人とも動揺を押し隠し自らの役割を演じ続ける。
容易いことだろう、と誰かが身の内で囁いた。
皇帝の目前で歌と踊りを披露する。それが一体何だと言うのか。容易いことだろう。
――神の目前に神楽を捧げることに比べれば。
広間の天井は高く声はどこまでも響き渡る。絨毯一枚敷かれただけの簡素な舞台だからこそ、間近でその踊りを目にした者は魅せられ舞姫の虜となる。
ウルリークの今の肉体も格好も女性だが、二曲目の歌に合わせた踊りは何故か力強く男性的な勢いを持つ。それがまた華奢な肉体とセルマの女声と相まって倒錯的な魅力を生み出した。
最後の一音が余韻ごと消え去るまで、広間の誰もが魅入られて口を開けなかった。
一瞬の静寂の後、盛大な拍手と歓声が上がる。
「見事だ! 真に見事な演舞ぞ!」
皇帝の機嫌もよろしく、先頭きって二人を褒め称える。
まだ一曲を残すにも関わらずこの盛り上がりようだ。潜入は充分に成功した。
(あとは頼んだぞ。ダーフィト、ラウズフィール)
二人は歓声に応えてにこやかに微笑みながら、この隙にリューシャとシェイの情報を探る仲間に思いを馳せた。