第3章 折れぬ翼
14.不屈の翼
053
突然目の前の人間が消えたことに驚き、ベラルーダの兵士たちは騒然とした。いまだリューシャの身を拘束したままのラウルフィカだけが、まだ冷静にリューシャに問いかける。
「あの女は誰だ」
「月の女神セーファ」
だが返ってきた答は到底信じられるようなものではない。女神がそう簡単にほいほい地上に降りてきてたまるか。
かつてこの世界は地上で神々と人間が共に暮らしていた時代があるなどと信じられない程に、今は地上に神が降りてくることは少ない。彼らは辰砂の反逆戦争によって数を減らし、天界での暮らしを選んだ。
「信じられるわけないだろう。あの女はお前たちの協力者である魔術師か何かか? 誰だ? あんな女の話は聞いていない」
「そう思っていたいなら、そう思えばいいだろう。我に説明できるのはこれだけだ」
いくらシェイが月の民とはいえ、神の加護はもっと間接的なものになるはずだ。女神が直接地上に降りてきて助けてくれるなどありえないとラウルフィカは言う。
リューシャもそう思う。自分が彼の立場だったらそう考えるだろうとも。神々の威勢が強いはずの西側の人間だとて、その眼で神を見ることのできる人間はほとんどいない。高位の神官が一生を費やしても姿を拝謁することが叶わない存在。
だが、リューシャは先程忽然と現れそして消えた女の顔を既に一度見ている。他でもない自分自身の夢の中で。そして現実にその存在が現れたとなれば、あれはもはや妄想でもなんでもない。
リューシャの夢にこれまで登場した人物。会ったこともないはずなのにどこか懐かしさを感じる人々はきっと実在する。
それが人間か神かはまだわからないが――。
「……とにかく、一度王宮に戻るぞ。カシム、警備隊への通達を。目標を確保した、通常の警備体制へ戻るようにと」
「御意」
ここで話していても埒が明かないと見たラウルフィカは即座に頭を切り替えた。魔術でどこへなりと消えたシェイを探すよりも、ここにいるリューシャを逃がさない方が重要だ。シェイは様々な裏事情を知ってしまったとはいえ一般市民。最悪の場合、野放しでも構わない。
アレスヴァルドの王子はそうもいかない。生かすにしろ殺すにしろ、国が決めるべき問題だ。
「陛下、表通りに馬車が着きました」
脱走に失敗したリューシャを護送し、ラウルフィカはシャルカントの宮殿へと戻った。
◆◆◆◆◆
宴が長引いているらしく、皇帝スワドの下に報告こそ行ったものの彼自身はまだ姿を見せる様子がない。ラウルフィカはリューシャを元の部屋ではなく、もっと拘束に適した一室に引きずって行った。
拘束に適した一室。
善良な一般の人間は医療用の手術室や、曖昧な想像で牢獄を思い浮かべるだろう。しかしこの国で、スワドの趣味で言えば違う。
それは寝台や天井に枷や手錠などが備え付けられた部屋だ。部屋の四方には数々の拷問具が並べられ、硝子戸の内には危険な色の薬がずらりと並んでいる。その装飾だけではなく用途から雰囲気まで全てが皇帝の「悪い遊び」のためだけに作られた部屋だ。
何度かこの部屋に連れ込まれたラウルフィカはスワドからその使用許可まで与えられている。つい最近も存分に使うがいいと言われて、必要性もよくわからないままとりあえず頷いておいた。
その一室にリューシャを放り込む。か弱いにも程があるリューシャくらいならラウルフィカも遅れをとることはない。渋るカシムに強引に人払いを命じて室内に二人きりとなった。
室内の様子に驚くリューシャを引きずり、寝台に投げつけて手錠で拘束する。
「何をする!」
「それはこちらの台詞だと思うがな」
言って、ラウルフィカは懐から小振りの短刀を取り出した。護身用にしても心許ない大きさだが、リューシャをぎょっとさせるには十分だ。
「やめろ……っ!」
身体をよじって逃げようとするのを押しとどめ、その衣装を無造作に切り刻んでいく。
「お前の外套に魔道具が縫い込んであるのはわかっている。下手に暴発させられたら厄介だからな」
手錠をしたために普通には脱げなくなった外衣を切り裂き、剥いで床に落とす。リューシャは先日皇帝の部屋で恥じらった時のような、薄物のシャツとズボンと長靴だけの格好にされた。
屈辱に打ち震え白い肌を赤く染めている姿は嗜虐心を刺激する。つくづく凌辱したくなる容姿だといっそ感心すらしながら、ラウルフィカは小刀を指先で弄び問いかける。
「シェイたちの行く先について、何か知っていることはあるか?」
「……知らぬ」
ふい、と顔を背けてぶっきらぼうにリューシャが答える。その頬をラウルフィカはバシリと軽くはたいた。
「質問に答える時はこちらの目を見て欲しいものだな」
口調こそ淡々としているものの、ラウルフィカの唇には歪んだ笑みが刻まれている。そう力を込めたわけでもないのに片頬を真っ赤に腫らしたリューシャが目に薄らと涙を浮かべて睨み付けてきた。
「答えろ。シェイはどこにいる?」
「知らぬものは知らぬ! だいたい、あそこで月女神が出てきたこと自体我らにとっては予想外だ! それこそ神の思召すままだろうよ!」
シェイもラウズフィールも、あの場にいる全員がセーファの登場に驚いていたのだ。嘘ではなさそうだ、とひとまずラウルフィカは納得する。
「なるほど。……まぁいい。それよりも、問題はお前だな。リューシャ=アレスヴァルド王子」
冷ややかな瞳でリューシャを見下ろし、ラウルフィカはその顎を指先で捉えて視線を固定する。
「よくも我らの“信頼”を裏切り、この城から抜け出してくれたものだ。皇帝陛下も失望しているそうだ」
「勝手なことを言うな! 誰が信頼など……!」
緋色の大陸から攫い、常に見張りがつく軟禁に近い扱いを受け、挙句の果てに凌辱された。それでよくも信頼などと言えたものだとリューシャは憤慨する。
「ほう、そうか。ならばお前は、最初に出会った時にアレスヴァルドから指名手配された罪人として首を斬られていれば良かったというのだな?」
実際、ラウルフィカがリューシャの名を知っていてシェイと共にこの国に連れてきたのは、スヴァル誘拐に関する口止めも多少あるがリューシャ自身の身分による理由が大きい。
「知るものか! 大体貴様は我に対してもシェイに対しても、都合のよい駒としての扱いを望んでいただけだろう! 我らは貴様の玩具ではない!」
「――なんだと」
リューシャの挑発に対し、ラウルフィカの眼差しが更に冷ややかなものとなる。あの時、宮殿に戻ろうとせずラウズフィールとの不幸を選ぶと告げたシェイを詰ったときのように。
「駒というのは、支配者の下で動かされるだけの価値と役目があってこその駒だ。お前はただの玩具だよ、リューシャ。私にとっても、皇帝陛下にとってもな」
「!」
あまりの言葉にリューシャが目を剥く。暴れようにも手錠に拘束されていてろくに動くことができない。
この部屋に備え付けられている枷の類は、大の男、屈強な兵士たちの膂力でも壊すことができない頑丈さを誇る。リューシャ程度の腕力で外れるわけがない。
「は。ラウルフィカ、そう言ってお前は実際のところ、シェイたちに嫉妬しているだけだろう!」
今度はラウルフィカが目を剥く番だった。寝台に押さえつけられながらぎらぎらとした敵意を隠そうともしないリューシャを睨み返す。
「私がなんだと?」
「彼らは一度は自ら絆を切り離したのに、再び繋がることをお互いに求め、望みを叶えた。それが、かつて愛しい相手に裏切られ自らも相手を信じることのできなくなった貴様には羨ましくて仕方ないのだろう!」
人にとって、決して聞きたくない言葉は異なる。
国王として日々海千山千の権力者と渡り合うラウルフィカは、精神的には耐性があって柔軟な方だ。どれほど恨まれ、罵られようと気にしない。媚を売る男娼と嘲笑されながらも皇帝の機嫌をとれるくらいだ。
しかしそれは、通り一遍の安い悪罵しか口にできない下卑た政敵などは彼の本当の弱味を知らないからこそどこ吹く風でいられたという面が大きい。
リューシャはまだ塞がりかけてもいなかった生癒えのラウルフィカの傷口を、思い切り掻き毟った。
「んぐっ!」
「お前に何がわかる」
これ以上は言わせまいと、ラウルフィカがリューシャの口を手で塞ぐ。顎が軋む程に強く掴まれて、リューシャは痛みと息苦しさに喘いだ。
「王として独り立つ痛みさえも知らぬ、無力でありながら周囲に守られ愛されてきたお前などに何が――ッ!!」
話で聞いた時には似たような過去があり、同じような人生を歩んできたと思った。
でも違う。やはり別々の人間なのだ。
同じような出来事であってもそこに潜む意味も違えば、それに対する自分の能力や周囲の反応も全てが異なる。
どちらが不幸などと比べられるものではない。お互いがお互いの痛みを理解せず、分かち合えないという事実だけがただ、確かだ。
激情が残酷な空想を伴ってすぅっと治まり、ようやくラウルフィカはリューシャから手を離した。
「そうだな。わかるはずはない。お前は私とは違う。いいや、私の気持ちなど、誰にも――」
世界を詰って悲劇の主役を演じたいわけではない。代われる者なら誰かにこの境遇を代わってもらいたいくらいだ。それができないという当たり前の現実がただ胸を締め付ける。
「馬鹿なことを。人は誰しも自分の感情しかわからない。貴様にだって我の気持ちはわからないだろう」
リューシャはそれを自然な、ごく当たり前に受け入れるべきことだと思っている。直情径行な態度を示す一方で、リューシャには酷く冷静な部分があるのだ。誰かに自分と共感してほしいと言う考えをあまり持たない。
それは悲惨な境遇よりもむしろ誰にも心を許せない孤独に苦しみながら立ち続けるラウルフィカとは、まったく正反対の精神構造だ。
だからこそ――。
「ならお前も、私と同じ気持ちを味わえばいい」
「……ラウルフィカ?」
人形のように表情が抜け落ちたラウルフィカの放つ無言の威圧を察し、リューシャはようやく怯えたような反応を見せた。
「あの男はね……ゾルタたちに与しておきながら、私を一人の人間として愛しているなどとほざいたのだ」
水面のようにゆらゆらと揺れる青い瞳は、すでに目の前のリューシャを見つめてはいない。これまでにも何度かラウルフィカはこういう目をすることがあった。彼が見ているのは彼自身の変えられない、忘れることもできない過去だ。
「あの時までは、あの夜まではただ国を、家族を、未来を愛していた私から、奴らは全てを奪った。肉体を犯し、権力を奪い、精神を歪め――それなのに、それからの五年間、私はあいつがいないと息をすることもできなかったんだ!」
ラウルフィカは本当は死ぬつもりだったのだ。五人の男に代わる代わる凌辱され、王としての威厳も権力も何もかも奪われ、体の良い傀儡にしかなれないと絶望したあの時に。
刃を握る手を止めたのは、夜闇を照らすかのごとく現れた銀の月。
あの男がラウルフィカを死の淵から掬い上げた。愛していると囁きながら、跪き忠誠を誓う。
――ラウルフィカを穢し尽くしたその口で。
「わからないんだよ! もう何を信じればいいのか! 誰も何も信じられない! どんな高潔な魂だって、簡単に堕落し穢れると知っているのに!!」
叫ぶラウルフィカを、リューシャは呆然と見上げていた。自分が普段起こすような癇癪とは違い、年上の国王の悲嘆はこれまで彼が接してきたどんな人間のどんな感情とも違う。それが言葉にできない実感と重みを伴い迫ってくる。
呼吸を整えたラウルフィカの表情は、嵐の前の凪のようだった。ぞくりと寒気がするほどに綺麗な笑みを浮かべる。
「お前に私と同じ苦しみをあげよう、リューシャ。肉の快楽によがり狂い、魂さえも堕すがいい。征服され隷従し清廉潔白を嘲笑う穢れた者になれ。そうして――いつか壊れてしまえばいい」
――この甘美な檻の中で、共に堕ちよう。どこまでも。
以前浴室で我を失い虚脱していたリューシャに囁いたのと似た台詞。だが意味はまるで違う。今彼が口にしたことの意味。それは。
「私がお前を壊してやる」
胸元から乱暴に引き裂かれたシャツが、文字通り絹を裂く悲鳴を上げた。