Fastnacht 16

第3章 折れぬ翼

16.神への階梯

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 高級宿の一室に、その宿の雰囲気にそぐわないぴりぴりとした気配を持つ者たちが集まっていた。誰も彼も美形で立ち居振る舞い物腰も上品なのに、纏う空気ばかりが殺伐としている。
「これ以上は待てない」
 ダーフィトが言った。
「さすがに限界だ。これ以上は命の保証に確信が持てない」
「……だねぇ」
 気の抜ける返事をしたのは辰砂。他の面々と違い彼はいつも、いたりいなかったりする。
 今日は珍しく朝からこの宿を訪れたかと思えば、豪勢な寝台を一つ占領してひたすら寝ていた。
 さりげなく他の者たちにも午睡を勧めている。その行動に辰砂は「昼寝」と言ったものの、これは「仮眠」なのだと彼らも気づいた。
「僕が宮殿を脱走してから、一週間ですからね」
 シェイが浮かない顔で具体的な日数を口にした。彼はこうして無事に脱出できたものの、連れ戻されたリューシャの安否がわからない。
 シャルカントの宮殿には現在旅の芸人としてセルマとウルリークが滞在中だが、その彼女たちにしてもリューシャに関する情報がまったく掴めないと言う。
「ここ一週間でできるかぎりの武器や薬など装備も整えた。多少危険でも飛び込むべきだと俺は思う」
 ラウズフィールのようなベラルーダ貴族、銀月のような元宮廷魔術師もいるが、彼らにとってシャルカントは巨大すぎる相手。しかし生まれながら大国アレスヴァルドの貴族であり、次期国王の座に最も近い存在として育てられたダーフィトの実力と気迫は並ではない。普段はそれらを隠して親しみやすい男で通しているが、いざとなれば誰よりも「王」らしく振る舞える男である。
 この一週間、辰砂に軽々しく動くなと忠告されたダーフィトはその代わりに万が一の時に即座に対応できるよう装備を整え始めた。武器や薬はもちろん帝都の地図を買って逃亡経路を描き込み、食料品や水の用意、変装道具まで全て準備してある。
 その手際にラウズフィールや銀月は驚くばかりだった。意外にもこれらに役立ったのはシェイで、この大陸一般の平民の目から見た情報でダーフィトの求めるものを集めていった。
 この逃亡能力や追跡能力の差が、本気で逃げる気だったはずのラウズフィールをシェイが一年に渡って追いかけられていた理由でもある。貴族出のラウズフィールも決して無能ではないのだが、それ以上にシェイがたくましい。
「あー、俺の方もそろそろいい感じに魔道具が揃ってきましたよ、と」
 ラウズフィールとは逆に生粋の平民だが子どもの頃貧民街で拾われて以来宮廷魔術師になるための特殊な教育を施された銀月はこれらに関してはまったくの役立たずだった。
 人らしい日常生活と引き換えに魔術師として厚遇されてきた銀月はある意味ラウズフィールよりも箱入りだ。その代わり彼は才能を活かし、持ち主が魔術師でなくとも使える魔道具の作成に努めていた。
 辰砂の弟子の他二人、紅焔と白蝋は銀月の魔術学院時代の同級生である。
 総合成績は何年も余裕で飛び級の二人に負けていた銀月が唯一二人に勝てる分野は、薬学と生物学に関するものだ。純粋な魔力がそれほど多くない銀月は少ない魔力を道具や薬で補うような魔術に秀でている。特に霊薬作りは他の追随を許さない。
 もっとも、総てを焼き尽くす炎の魔術師やどの分野も過不足なくこなす万能型の天才に比べれば特技・調剤は地味すぎてそれほど有名ではないの確かだが。
「回復薬はこれとこれね。あと催涙弾とか煙幕とか補充しておいた」
「助かる。これの効果はずっと続くのか? 使う期限とかは?」
「ないわけじゃないけど特殊な術式で固定してるから五十年くらい普通に保つよ。心配しないで必要なだけ使ってくれ。暴発したりもしないから」
 銀月製作の道具は凶悪な威力を持たせるよりもどれだけ一般人にとって使い勝手が良いかを重視した。シャルカント宮殿に勤める多くの兵士たちは罪もない人間だ。別に浴びた瞬間目玉が溶ける催涙弾や肺を焼き尽くす煙幕を浴びせる必要もないだろう。
「私たちも宮殿の見取り図は頭に入ってる。セルマさんたちが寄越してくれた内部の詳細な図があるから、余程のことがなければ逃走もできないってことはないだろう」
 ラウズフィールとシェイはここ数日で剣の手合せをして、軟禁中に鈍ったというシェイの体を鍛えていた。
「そろそろセルマたちも戻ってくる。二人が来たら――」
 ダーフィトが号令をかけようとしたその時だった。
「なんだ?」
 外が騒がしい。宿内ではなく、窓の外だ。大通りで人々が騒いでいる気配がする。
「悲鳴? なんだ? 何が起きた?」
 一番窓の近くにいたラウズフィールが開けると、より一層外の騒ぎが克明に飛び込んできた。天変地異が起きたかのように叫び嘆く人々の驚愕の気配。
「宮殿が――」
 シャルカントの宮殿が燃え盛っていた。
 まるでこの世のものではないような、青い炎によって。

 ◆◆◆◆◆

 時間は少し遡る――。
 ダーフィトが宿で痺れを切らす少し前、セルマとウルリークはまだシャルカント宮殿にいた。
「さすがに一週間は長いですね」
「三日前に会った時ダーフィトたちの準備はほぼ整っていると言っていた。今では完璧だろう」
「じゃあもう、遠慮とかやめて攻め込んじゃいますか」
 痺れを切らしていたのは宿でずっと待機を命じられていたダーフィトだけではない。セルマも、常に飄々としているウルリークでさえそろそろ危機感を募らせていた。
「皆が隠しているというよりも、誰も知らないという状況の方がまずいですよね。ベラルーダ王に関する情報そのものがなんだか禁忌みたいな扱いですし」
「この国もいろいろあるようだからな」
 シェイから少年二人を緋色の大陸から連れてきたのはベラルーダ王と呼ばれる人物であることを聞いていたセルマたちだが、どれほど皇帝に探りを入れたところでこのベラルーダ王には会わせてもらえなかった。
 ダーフィトたちと最初に約束していた一週間という期限が巡り、二人は今日この城を出ていく。もともと旅の芸人という扱いであるので居座る理由よりも出ていく理由の方が簡単だ。
「皇帝陛下がここ数日何か気にしていたようだというのが気になりますよね」
「ベラルーダ王に関しても聞いてみたら、政務以外顔を見せないという話だった」
 使用人たちのほとんどがリューシャの存在を知らない以上、情報は上層部で差し止められていると言っていいだろう。その上層部であるところの一人ベラルーダ王には二人も会ったことがなく、スワドの内心は掴みにくい。
「ま。それも今日までです。正攻法はここまで」
 これまでは騒ぎを大事にしたくないという様々な人物の顔を立てて感情を抑えていたのだ。だがもう限界である。
「私はその気になれば、この宮殿ぐらいの人間ならメイドから兵士まで全て殺し尽くすことができる」
 元暗殺者は淡々と言った。現在は護衛騎士なのだからそう呼ぶべきなのだろうが、セルマの思考回路は今でもやはり騎士というよりは殺し屋だ。
 リューシャがそれでいいと言ったのだから、セルマはこれからもそうして生きていく。物語の心優しい王子様のように、罪を悔いて正しく生きれば良いなどと言って遠回しに彼女の人生を否定はしない。
 政治的要因により敵対者を葬る「暗殺」という行為は、そもそもリューシャたちが属するような王侯貴族が必要とし発展させてきたものだ。それを誰より理解しているリューシャはそれ故にセルマという元暗殺者を欲した。彼女は元暗殺者の騎士として、主君の期待に応えねばならない。
「それもいいですけど、全員殺しちゃったら情報も聞けませんよ。いちいち戦うのも面倒ですし、俺の能力で眠らせちゃいましょうよ」
「そうだな」
 ウルリークはセルマの危険な思考をとくに止めるでもなく、それはそれでよく聞けば酷いことを言っている。
 二人は身支度を整えると、皇帝への最後の挨拶のために謁見の間を訪れた。
「この一週間、よくぞ我が宮殿を盛り上げてくれた。感謝するぞ」
「光栄にございます」
「またこの国を訪れる際は是非顔を見せにくるがいい」
 お決まりのやりとりを交わして皇帝の前を辞去する。
「……なぁ、ウルリーク。皇帝の様子がおかしくなかったか?」
「セルマさんも気づきました? 心ここに在らずって感じでしたよね?」
 謁見の間を出る。廊下を歩く。どんなに素晴らしい芸術的な装飾を施された城も、三日もいればそれはただのものだ。装飾が施されている分だけ実用性が下がっている。それだけのものでしかない。ここにいる二人は仮にも芸人という触れ込みで入城したにも関わらず、そんな芸術的感性が貧しい連中である。
 あまりにもさっぱりとした様子で城を離れるので変に引き留められることもなく、二人はさっさとダーフィトたちが待機する宿へと向かった。その途中歩きながら先程の謁見の印象を話し合う。
「正直スワド帝の性格からすれば少しくらい滞在を引き延ばされるかと思ったんです。意外にあっさりして見えました」
「私にはあれは、何か疾しい目論見があって、できるだけ人を遠ざけたい人間の態度に見えた」
「……リューシャさんですかね」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。どちらにしろそんな厄介な皇帝のもとになど殿下を長く置いてはおけない」
 期は満ちた。もう誰に遠慮するつもりもない。この国が後にどれ程の混乱に陥るか、上手くそれを処理するかはわからない。だがどちらにしろ、リューシャを皇帝の道具にさせるつもりはない。
 どんな残酷な推測も予定も平気で口にできる二人だが、それはまだまだ甘かったのだと後で気付くことになる。
「さて、とりあえず行きますか」
 彼女たちはまだ知らない。この帝国の長い長い一夜がこれから始まることを。