第3章 折れぬ翼
17.破滅の記憶
065
何かが壁にぶつかる激しい音に、廊下を歩いている途中だったラウルフィカは慌てて駆け寄り部屋の扉を開いた。
「リューシャ!」
「陛下……」
呼びかけに反応したのは本人ではなく、同じく部屋の中にいたレネシャだった。
テーブルの上下に積まれた大量の荷物。レネシャはスワド帝から、リューシャを「剥製」にするための手配をしろと命じられていた。
それらの荷物が酷く散乱し、何かの破片らしきものまで床に散らばっている。
「レネシャか。何があった」
「それが……」
今のラウルフィカがこの部屋に足を踏み入れる理由は限られている。普段のレネシャだったらまずその辺りを尋ねてきただろうが、今は動揺が激しいようだ。
「突然リューシャ王子の様子が変わって、不思議な力を使うようになったんです」
「不思議な力……?」
要領を得ない説明をすることにレネシャ自身苛立つ様子ながらも、彼はこの部屋であった出来事を全てラウルフィカに話した。
「リューシャ……?」
ラウルフィカは寝台脇に立つ裸体の少年に視線を向ける。
リューシャは虚ろな瞳をしていた。青い瞳にいつもの彼自身の意志の光がない。
けれど完全な虚無ではなく、リューシャの肉体をリューシャではない誰か別の人間が動かしているかのような印象をラウルフィカに与えた。
彼がつけた数々の痛々しい凌辱の痕でさえも、今のリューシャの表情からすれば歴戦の戦士の傷跡のように見える。
「これは……」
「拘束痕を残したくなかったので、動きを封じるのに麻酔を使ったんです」
レネシャの言葉にラウルフィカは心非ずに頷く。リューシャの様子から目が離せない。
「まだ薬が切れるような時間じゃないのに、普通に動き出して。それも今までと様子が違うし、一体何がどうなっているのか……」
考えながらレネシャも意志を決めたのか、短刀を手に前へ出る。
リューシャは自らが裸体を晒していることに気づいたのか、部屋を見回してテーブルの上の衣装に目を向けた。レネシャが用意した元の服と同じデザインのそれを身につけ始める。
レネシャやラウルフィカの行動に気づいていないとも思えないのに、彼の反応はただただ現実のこの空間で起きている――あるいはこれから起こる出来事に対し無関心のようだった。
「仕方がない。これはもう、殺すしかないですね」
レネシャが言った。
「……」
「皇帝陛下の望みはリューシャ王子を剥製にすること。ぎりぎりまで生かしておくよう命じられましたが、もはやこれでは――」
「レネシャ」
ラウルフィカは少年の名を呼んだ。
レネシャが振り向く。次の瞬間その瞳が限界まで丸く見開かれた。
「ラウルフィカさま?」
幼い子どものように呟く。何が起こったのかわからないという顔をしていた。
レネシャの薄い腹に、ラウルフィカの隠し持っていた短剣の刃が深く埋まっている。
それに気づくとレネシャの行動は早かった。傷口に触れたために赤く血濡れた手を伸ばしラウルフィカの胸ぐらを掴む。
聡い少年にはわかっていた。もう自分は助からないと。
「こんなことをしても、なんにもなりませんよ」
にやりと唇を歪めて邪悪に笑う。だがその顔色は紙のように白い。
ラウルフィカはできるだけ静かに刃を抜いた。
真っ赤な血が溢れ床まで一気に滑り落ちる。
レネシャは濃い赤を好まない。普段彼が身につけることのない色に染まる様は、余計に非日常的だ。
「あなたも所詮僕と同じ穴の貉。救われる日は決して来ない」
「ああ、そうだな」
ラウルフィカはレネシャの言葉を否定することもなく、わかりきったことを認めるように淡々と頷いた。
「私たちのような者はもうここにいてはいけないんだ――先に常闇の牢獄で待っててくれ」
その言葉を聞いて、血の気の失せた顔でレネシャが淡く微笑んだ。
「だから……あなたが、好きですよ……ラウルフィカ……」
ラウルフィカの胸ぐらを掴むことで縋りつくように自らの体を支えていたレネシャの指から、力が抜ける。
さらさらとした衣擦れの音を立てて倒れようとする体をラウルフィカが支えた。ゆっくりと床に横たえ、胸の上で手を組ませる。
白い瞼が閉じられ、まるで綺麗な人形が眠っているかのような姿だった。
常闇の牢獄は死後に罪人が訪れると言われている場所だ。死者の行く永遠の夜の国の中でも、重い罪を犯した者だけがそこに送られるという。
自分も、レネシャも、死んだら間違いなくそこに行くことだろう。
「可哀想なレネシャ。お前は人を信じるには聡明過ぎた」
誰もが自らを偽り糊塗する世界。人を騙し陥れるための嘘。嫉妬交じりの悪罵に嘲笑。罪のない噂話。悪意があろうとなかろうと、その全てが真実を歪め人心と現実という構造を複雑にする。
レネシャの歪みと苦痛にはラウルフィカも薄々気づいていた。その歪みがあればこそレネシャは成功者として父以上に成り上がれたのだということも。
誰よりも恐ろしく、誰よりも憐れな少年。例えば彼が今と全く違う善良な人間だったとしても、彼の運命はきっと今とそう変わりなかっただろう。
――決して救われない。
ラウルフィカと違い、レネシャは罪を犯したからこういう性格になったのではない。生まれた時からの性格で最も上手く生きるための方法が、罪を犯すことでしかなかった。
たぶん、生まれて来ない方が良かったのだ。彼自身が誰よりもそう思っていた。
自分を殺すラウルフィカに恨み言の一つも言えるような性格だったならば、まだ幸せに生きられただろうに……。
ことん、と何かが倒れる音がしてラウルフィカは遺体の傍らから立ち上がり振り返った。
「ああ……着替え終わったのか」
衣装を身につけ終わり、すっかりとこの国に来た時そのままの姿となったリューシャが無感情な瞳でラウルフィカの姿を見つめていた。
姿は同じだが、これはリューシャではない。レネシャもそれに気づいたから動揺していたのだろう。内側から発される気とも言うべきものがまるで違う。
「神の血を伝える国の、神託の王子か……お前はやはり特別だったのだな」
様子の違うリューシャを、ラウルフィカは泣きたくなるような気持ちで見つめた。
出会った時から彼には何か感じるものがった。それ故に共感を覚え、それ故に誰より遠かった。
リューシャが手を一振りすると、室内に炎が現れた。
彼の瞳と同じ青い炎だ。確か青い炎は通常の赤い炎よりも高温。そう考えてラウルフィカはすぐに間違いに気づいた。
「これは……」
部屋中を埋め尽くした青い炎のような光の揺らめき。だがそれらは温度を持たない。ラウルフィカが誤って触れた手も燃えることはせず、ほんの少し痛んだだけだ。
だがそれ以外のもの、人体以外への影響は絶大だった。寝台も天井から垂れ下がる鎖もテーブルも、床も壁も何もかもが包まれてゆっくりと風化していく。
燃えて灰になるのではなく、腐り錆びつき粉々になって滅び去る。本来時の流れに任せれば何十年もかかるはずの変化を一瞬でこの目にしているようだ。
ものによって滅びる速さに違いがあるようだが、何故そうなるのかはラウルフィカはわからない。
「汝は……総てを滅ぼす破壊者となる……」
リューシャに与えられたという神託を思わず口に出して呟いていた。
これは純粋な滅びの力。総てのものに終わりを与える能力。
リューシャは静かにラウルフィカを見つめていた。その性質を量るように。
彼は何も言わず、何もしない。結局ラウルフィカにも声を掛けることも触れることもせず、その横をすれ違い堂々と部屋を出ていった。
青い炎が全てを滅ぼしていく。ラウルフィカは呆然とそれを見守る。
しばらくして決意の表情を固めると、自らも踵を返し、部屋を出たリューシャの後を追うように出入り口たる扉を目指す。
廊下に出るとそこにも青い炎があちこち灯っていた。宮殿内の人々が理由もわからない非常事態に混乱している騒然とした空気が伝わってくる。ラウルフィカは騒ぎの大きい方に向けて駆けだした。
静かに青く輝く部屋の中。横たわる少年の亡骸だけが緩やかに滅びて行った。