Fastnacht 20

第4章 波音の向こう

20.混乱の塔

077

 数冊の本を抱えたまま叫び声を上げたのは、先程リューシャたちを案内してくれたあの女性司書だ。
 一番動きが早かったのはダーフィトだ。室内を見回し逃走者を発見するとすぐに追いかける。
 リューシャとセルマは、腰を抜かしてへたり込んでいる司書のもとへと駆けつけた。
「どうした!」
「大丈夫ですか?」
「あ、あの男が稀覯本を奪って……職員に怪我はなかったんですが……」
「本? それって盗むようなものなんですか?」
「稀覯本と言っていただろう。ここは特殊な街だ。他では手に入らないような本もあるのだろう」
 書物の流通には、印刷技術や出版体制、そして作者の有無が関係してくる。世界の東側では日夜宇宙の秘密を解き明かそうと奮闘する魔術師が多いのであらゆる学問が発展し、様々な人物が比較的気軽に自説を書としてまとめている。
 しかし、西側では教会の勢力が強い。魔術研究は禁じられているし、魔術師に関する調べ物をすることも許されていない。神話の真偽を取り沙汰す話題なんて以ての外だ。研究内容如何によっては、下手をすれば異端審問にかけられて処刑される。
 そのため西側では経典以外の書物も一応手に入ることは入るのだが、どれもが高価で貴重である。そして魔術研究の本は更に少ない。
 西側であらゆる審査を潜り抜け発行された一握りの本は、東側に持ち込むと高く売れる。
「まぁ大丈夫ですよ。今我々の仲間が追っていますので」
「おーい」
 セルマの説明の途中で、ダーフィトの呑気な呼びかけが響いた。
「捕まえたぞ。こいつだ」

 ◆◆◆◆◆

 犯人は無事確保。盗まれた品も取り戻せた。
「本当にありがとうございます」
 先程の女性司書を筆頭に、図書館の職員たちが深々と頭を下げる。
「お役に立てたなら良かった。こちらこそ本をありがたく利用させてもらっている」
「失礼ですが、旅の方ですか? お礼に何か我々にできることがあれば仰ってください」
「そんなのい――」
 断ろうとするダーフィトを押しのけて、リューシャが口を開いた。
「知りたいことがあるんだ。ここ以外で創造の魔術師研究に詳しい書物があれば紹介してほしい」
「創造の魔術師・辰砂について、ですか。その様子ですと当館の蔵書はすでにお読みになられたのですね?」
「ああ。だがこれ以上に詳しい情報が知りたい。以前別の場所で読んだ最新の研究書もなかったし、他にそれらを収めているところはないか?」
「その研究書について題や著者名など伺っても?」
 リューシャは女性司書に、ラウルフィカに見せられた二冊の題を告げた。
「著者はアリオス・フェルナー」
「アリオス先生ですか。その二冊でしたら、バベルの図書館に存在しますよ」
「「バベルの図書館?」」
 リューシャたちの怪訝な声が重なった。博識なウルリークも知らない言葉らしく、不思議そうな顔をしている。
「ええ。正式名称はジグラード学院図書館。通称“バベルの図書館”と言います。そこでならこの世のどんな著作も読めますよ」
 ジグラード学院には総ての本が集うとまことしやかに囁かれている噂を肯定する言葉に、四人は顔を見合わせた。司書は更に続ける。
「それからもう一つ。ジグラード学院には、アリオス・フェルナー本人が教師として在籍しています。臨時講師ではなく長期学習部門の教師ですから、受付で依頼すればすぐに会えます。授業を受けることもできるでしょう」
「本当か?!」
 思いがけない朗報に、リューシャの顔が輝いた。創造の魔術師についてこの世で最も詳しいとされる人間が、この街にいる――!
 終わりのなさそうな情報収集に希望が見えてきた。彼らの反応を見て取ったのか、司書は更に、懐から取り出した小さな鍵をリューシャに渡してくれた。
「これを」
「なんだ?」
「これはバベルの図書館の“鍵”です。鍵の形をしていますが実際は身分証明のようなものです。図書館で困ったことがあった時には、どうぞこれを見せてください。その時は“バベルの司書”が対応いたします」
「バベルの司書……?」
「ええ」
 単純に考えればバベルの図書館と呼ばれるジグラード学院図書館の司書。だが本当にそれだけならばこんな鍵を渡してまで含みを持たせる必要はないだろう。司書は謎めいた笑みを浮かべる。
「私の名はゲルサ。もしも困ったことがあれば、その鍵と共に私の名をお呼びください」
 直接的な情報ではないがそれに辿り着く手段という思いがけぬ収穫を得て、リューシャたちは街の図書館を後にした。

 ◆◆◆◆◆

「やはり行くしかないようですね。地平の学院に」
 その日は街の中に宿を取った。夕食は約束通り、セルマが目をつけていた屋台の品を買ってきた。
 腹がくちくなり人心地つくと、リューシャはゲルサと名乗った女性司書に渡された小さな鍵を見つめる。
 そこに、ひょいと横から華奢な指が伸びた。
「リーク……」
 セルマとダーフィトは買い出しに行った。今残っているのは彼だけだ。
「うーん。本当に何の変哲もないただの鍵ですね。大きささえ合えば何でも開けそうな。でもそんな単純な仕組みの鍵で貴重書を収めた図書館の管理をするわけはありませんから、やはりこれはただの身分証明で――何かの符丁なんでしょうね」
 古美色の小さな鍵はそれだけ見ればただの玩具のようだ。よく見ると精緻な彫刻が施されているが、絵はわかっても文字の意味は分からない。
「薔薇の絵にR・Rだから……ロゼウス=ローゼンティアかな」
「なんだそれは?」
「知らないんですか? この世界に神々が生まれる前に存在した帝国の皇帝の名前ですよ」
「そんなもの知るか」
 自分が生まれる前どころか世界が生まれる前の話など、わかるはずもない。そう言うとウルリークは笑った。
「この世界は何度も何度も滅びと発展を繰り返しているんですよ。かつて世界そのものを支配した一つの大帝国が滅び、今の世界が生まれた。今神々と名乗っている人々は基本的にこの帝国の人類を“改良”した存在なんです。秩序神ナーファなんかは『エヴェルシード人』と呼ばれることがあるでしょう。今の人類からすれば“上位人類”と呼ばれる存在。それが神です。彼らが元より天界ではなく地上で暮らしていた理由でもあります」
「……なんでお前、そんなことまで知っているんだ?」
 実際に「神」であるリューシャですら知らないことをさらりと口にするウルリークに、破壊神たる者は怪訝な目を向ける。
「背徳神様から聞きました。あの方は神とは言うものの本来は“アディス”、原初の混沌とも言うべき存在で――どうします? この話全部すると死ぬほど長くなりますよ?」
「……いや、いい。もう頭がいっぱいだ。今聞いても明日辰砂のことを詰め込めば一気に抜け落ちそうだ」
 リューシャはウルリークの知る事情を全て理解することを断念した。いつか必要になるのかもしれないが、とりあえず今ではないことを祈る。
「我が知りたいのは辰砂のこと。辰砂が生まれてからの世界。それ以前のことなど興味ない」
「清々しいくらいに辰砂大好きっ子ですね。いいんじゃないですか? それで」
 古の皇帝のことなどどうでもよい。エヴェルシード人だかなんだかも知るものか。
「今ここに我がいる。この世界に辰砂がいる。それで十分だ」
「それでも過去を知りたいという歴史家泣かせの発言ですね。ま、いいんじゃないですか」
 歴史をどれだけ辿ろうと、真理にどれだけ近づこうと、決して真実を全て知ることはできないのだと知っている。だからリューシャはそんなことには興味はない。
 ウルリークは聞かせるのを断られた解説をひとりごちる。
「……かつて人類は科学技術の限界を超えて、魂を改造する術を見つけ出した。彼らは集合的無意識への接続法を第七感と呼び、それを人類の基本能力として定着させる術を探し出した。しかし、確実性はなかった。彼らが造り出した新しい“人類”は、極稀に第七感を有して生まれ、後天的にも比較的第七感に目覚めやすくなった。だがやはり第七感覚醒者――魔術師の数は、限られていた」
 この世界の歴史を今伝えられる神話よりも遥か昔から思い返し、言葉を噛みしめるようにゆっくりと紡いでいく。
「人類は幾度も滅びの道を辿る。一度目の滅びの後、この世界で人類と呼ばれるのは新しく生み出された第七感との接続がしやすい生物となった。覇権を握った彼らはしかしその後、人と魔族という二種の生物に分かれて闘争と和解を成し遂げた後に滅びる。次に現れたのは、各地で無数に発生した小国をまとめ上げその諍いを収めて世界を一つの強大な帝国と成した皇帝」
 第一の滅びのきっかけは人類の傲慢。第二のきっかけは魔族の王こと、魔王。第三のきっかけは最後の皇帝……と言うよりも、彼に帝国解体を決意させたその前の皇帝らしい。その名が薔薇の皇帝ロゼウス=ローゼンティア。
「皇帝とは後天的第七感覚醒者。彼らは自らの魂を通じてバベルの――ばべる?」
 そこでウルリークは一度暗唱を止めた。本日聞いたばかりの単語と相まって、次々に仮定と推論が沸きあがってくる。
「そうか……じゃあ“バベルの図書館”っていうのは――」
 ジグラード学院図書館。通称“バベルの図書館”。そこには古今東西、この世の全ての書物が集う。
 総ての。
 誰も確かめられないはずのそれが、何故当然のこととして伝えられるのか?
 実際に世に現存した全ての書物が収められているかなんて、それを確認する必要はないのだ。バベルと呼ばれる図書館そのものが、それらの情報を瞬時にして取り出すことができる機構でさえあれば。
「なるほど……ならば、噂は本当なのかもしれない」
 あの図書館には全てが集う。ウルリークはそれが恐らく事実だと確信する。
「ねぇ、リューシャさん。――あれ?」
 抑えられぬ好奇心に口元に妖しい笑みを佩く彼の傍ら、リューシャが静かで平穏な寝息を立てていた。