Fastnacht 21

第4章 波音の向こう

21.魂の向こう側

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「正直言って、僕は紅焔や銀月程の忠誠心はないんですよ。あの二人みたいに絶体絶命のところを辰砂に救われたわけではありませんから。でもね、あの人がいなければ、紅焔は前みたいに笑えるようにならなかった。それを思えば、辰砂の敵を僕の手で排除することも吝かではありませんね」
 いつの間にか白蝋の手には長い杖がある。その先端にはまるで炎のように揺らめく光が無数に輝いている。あれは杖というよりも、柄の長い燭台だ。金色の持ち手はそのうち白い蝋燭に変わり、頂点には炎の如き光が煌めく。
「お前……ッ!!」
「自惚れるつもりはありませんが、僕だって界律師の一人です。かつて無数の神々を相手にした創造の魔術師程とは言いませんが、覚醒しきっていない、ほとんど人間と変わらない未熟な神に手傷を負わせることぐらいならできると思いませんか?」
「白蝋!」
 ダーフィトとセルマがそれぞれの剣を引き抜き構える。中空という足場の悪さを補うように、背後の本棚を蹴ろうとした。だが。
「あ!」
 長靴の底が噛んだ瞬間、背後の本棚が消え去る。元通り虚空の闇が五人を包んだ。
「おっと、邪魔はさせませんよ。この空間の支配権は今、僕が握っている。やり方のわからないあなた方では、この空間を扱うのは無理ですよ」
 空中を遊泳するかのような不安定な状況では、剣士二人の戦力は半減する。ダーフィトもセルマも白蝋に飛び掛かるために何もない宙を蹴るが、思ったような推進力が得られない。
「セルマ!」
 ダーフィトが女騎士に向かって叫ぶ。一瞬で意図を理解したセルマが足場代わりに彼の肩を蹴って白蝋へと飛び掛かった。
「ダーフィト!」
 リューシャは再従兄弟の名を呼ぶ。だがセルマが飛び出した分、ダーフィトは下方へ際限なく後退していく。
 力学の難しい問題はわからないが、重力のないこの空間で動くのは水の中にいるのに近い。セルマは壁代わりにダーフィトを使うと、一気に白蝋へと飛んでいく。
 白蝋とてむざむざとその射線上に残りはしない。彼だけはこの空間でも自由に動けるのだ。
 しかし横に躱して逃げようとした白蝋の腕に錘付きの糸が撒きつく。
「しまった!」
 これでもう距離も移動も関係ない。隠し持っていた小道具で白蝋を捕らえたセルマは、そのまま白蝋に近づくと素手で彼の首を締め上げる。いくら男と女の体格差があるとはいえ、細身で格闘の心得もない男と元暗殺者だ。どちらに分があるかは明らかだった。
「ちょ……僕照れ屋なんで、女性に抱きつかれるのは遠慮したいんですが……ぐっ……!」
「照れ屋というよりただの同性愛者だと伺いましたが? 戯言を口にする暇があるなら、早く私たちを元の世界に返してください」
 そしてその上で辰砂に関しての情報をきりきり吐け、と。
 容赦なく急所を極めながら、セルマはなおも口を開こうとした。だが。
「ええ。戻しますよ。……あなたたちだけならね!」
「しまっ――殿下!」
 白蝋の言葉と共に、セルマの姿がその場からかき消える。機を窺っていたウルリークも、すでに見えない程離れていたダーフィトもだ。白蝋は彼らだけ一足早く本の外の世界に帰したのだ。
「さて、これでようやく一対一ですね」
 白蝋は視線を再びリューシャに定めた。微笑みながら宙を歩いてリューシャに近づいてくる。
「いくら俺が女性にも勝てないようなド文系でも、さすがに平均より小柄な年下の少年くらいならなんとかなると思うんです」
「や……めろ……」
 味方を失い独りきりとなったリューシャは、その場から動くことも出来ずにただ呻いた。
 白蝋の腕が伸びる。
「やめろ……!」
 指先が襟首に触れる。たまらずにリューシャは叫んだ。
「やめろ!! ――お前を殺してしまう!」
「ッ……!」
 瞬時にして青い幻惑の炎が湧き立ち燃え上がった。白蝋が宙を蹴りリューシャから離れる。
「これが……破壊神の滅びの力」
 あの時、シャルカントの宮殿を満たした炎を抑えることができたのはやはり辰砂の力が大きい。白蝋が一対一で立ち向かうのは分が悪い。
「制御ができないからと言って、力が出せないわけでもないんですか。うーん、実に性質が悪いですね」
「余計なお世話だ……!」
 力で敵わないと言う割に口での攻撃は絶好調だ。と言うか、そもそもここまではっきり敵意を向けられなければリューシャが破壊の力を振るう必要もないのだ。
「そこまでにしときなよ」
 第三者の声が響き、二人は振り返った。
「辰砂」
 白銀の髪、色違いの瞳の少年が、いつの間にか長い杖を携えて虚空に佇んでいる。
 彼の背後でウルリークが軽く手を挙げた。
「ちょうど辰砂さんたちもこちらに向かってきていたそうですよ。気配を感じたので迎えに行きました」
 ウルリークは短距離ならば転移術が使える。辰砂の気配を感じてすぐ行動を起こしたのだと。
「白蝋……いや、アリオス」
「お師様」
 辰砂はまず己の弟子たる青年に声をかける。
「お前がわざわざ宣言までして地上に降りたのはこのためだったんだな。僕の見ていないところで何やってんだお前」
「ああ言っておけば、辰砂はまた意地を張ってしばらく地上に降りないと思ったんですよ。なんでこんなとこにいるんですか?」
「お前と違って出来が良い方の弟子の意見だよ。お前が悪戯宣言するときは、絶対ろくなことにならないってね」
「あー……」
 紅焔が危惧していたことと白蝋のやろうとしていたことはほんの少し違う。だが辰砂の最も優秀な弟子は、恋人の態度から彼が何かを仕掛ける気だということにはしっかり気づいた。
「アリオス。お前はお前の考えで、僕と破壊神をこれ以上関わらせまいとしたんだろう。だがこの世界はあらゆる存在の熱量の均衡によって成り立っている。破壊神が『こんな場所』で消えれば色々と問題が起きるのはわかるな?」
「……はい」
「世の中には同種の虫が殺されるとその体液を嗅ぎつけて余計に集まってくる虫というものがいる。物事はやれるかやれないかだけでなく、その後の始末ということも考えねば良い魔術師とは言えないぞ」
「待て! さらっと我を虫に例えるな! いくらなんでも失礼だろうが!」
 師弟の真面目な教育的やりとりに見せかけてさらりと暴言を吐かれたリューシャが突っ込む。無表情でリューシャの方を向いた辰砂が、次の瞬間思い切り舌を出した。
「べー、だ!」
「辰砂!」
 子どもかよという突っ込みもなんのその、辰砂は悄然と項垂れる白蝋の腕を掴み、さっさとこの空間から転移する。
「おい!」
「あー。まぁ、とりあえず俺たちもこの空間から出ましょうよ、リューシャさん」
 呆気にとられてやりとりを見守っていたウルリークの力で、リューシャもようやくこの不可思議な空間から抜け出す。
「……結局何の収穫もなかった……」
 無人の図書館内に戻り、四人はがっくりと肩を落とした。

 ◆◆◆◆◆

 図書館からとぼとぼと四人が出ていく。その姿を、辰砂は彼らの遥か頭上の時計台の頂上から見下ろした。
「いいんですか?」
 とりあえずリューシャたちの相手をするのも面倒だと、辰砂は白蝋を連れてここに転移していた。ウルリークの探知も辰砂が本気で隠れようと思えば気づかれないらしく、誰も上を見上げる様子はない。
「さっき言った通りだよ。破壊神をこの世から消してしまうのは厄介だ。それはそれで均衡を崩して面倒を招く」
「それだけですか?」
 白蝋の企みが辰砂に見つかるかどうかは五分五分の賭けだった。彼がまだ破壊神に――リューシャに関心を持っているのであれば、たまらずに地上に様子を見に来るかもしれないとは思っていた。
「辰砂。あなたに今一度お聞きしたい。あなたは――リューシャ王子のことをどう想っているのです?」
「どうも何もないよ。あれは破壊神だ。前世で僕を殺した闘神。でもね……あれは姉神である秩序神の命令に愚鈍に従っただけの兵隊だ。だからまぁ、恨みはあるようでないよ。お前は自国が敵国と戦争したら、和解後も民間人まで全て憎むのかい?」
「嘘だ」
 淡々とした辰砂の言葉に、白蝋は異を唱えた。
「あなたにとって、破壊神はただの兵隊などではないでしょう。あなたにとって最も身近な神。だからこそ彼があなたと戦ったことは、あなたに対する裏切りだ」
「……そうだね」
 辰砂は目を閉じた。
 時計台の頂上。眼下を歩く豆粒のような人影をいつの間にか目で追っていた。そんな自分が嫌になる。
「でもそれは、僕が決めることだ。破壊神を憎み殺すのも、たかだか一兵士だと放逐するのも。お前が手出しをするようなことじゃない」
「後者ならまだいいんですけれどね。前者の場合――あなたは愛しいものを手にかけて、また一人で傷つくのですか?」
 憎しみが生まれるのは、その前に愛情があるから。辰砂が破壊神を恨むのは、自らの味方だと思っていた親しき神であった彼が敵として目の前に現れたからだ。
 辰砂が総てを赦し受け入れられるようであれば、白蝋も、紅焔や銀月も何も心配はしない。だが彼らの師はそう言った人物ではないのだ。そうでなければいつまでもあの頃の少年の外見を維持したりするものか。
 リューシャの存在は、今はそこにいるだけで辰砂を傷つける。
 そして今度、もしも辰砂が破壊神を手にかけるようなことがあれば――もう、二人はどうやっても元の穏やかな関係に戻れはしない。
「……それも、僕が決めることだよ」
 辰砂が転移で姿を消した。白蝋は時計台の頂上に一人残される。
 と、入れ替わるかのようにすぐに別の気配が傍に現れた。
「紅焔」
「よ。バカ。お説教は終わったか?」
「……怒られた方がマシだったよ」
「当たり前だ。余計なお世話なんだよ。お前のやったことは」
 辰砂の反応が思いがけず穏やかだった分、今度は紅焔に怒られる。
「話に聞いただけとはいえ、あの二人の関係は複雑だ。僕たちがどうこうできることじゃない」
「それはわかってるよ。でも少なくとも、僕が破壊神に手出しをして辰砂が怒れば、気持ちを自覚するくらいできるかと思ったんだ」
 リューシャへの宣言とは裏腹に、白蝋は自分の力で破壊神を殺せるなどとは微塵も考えていなかった。だが彼をあの空間――“バベルの図書館”の一画に封じて置き去りにするつもりはあった。そこから先は辰砂に任せようと。
 弟子たちは彼らの師を、誰よりも案じている。今まで辰砂がどれだけの人間と関わってきたか知らないが、生まれ変わった破壊神と再び邂逅する辰砂の姿を見るなどという機会を得たのは彼ら以外にいないだろう。
「あの人は確かに意地っ張りだ。でも賢いし、意図せず相手の先手を取れてしまう。だからこそ他人の思惑にはなかなか乗れない。……不器用なんだよ」
 紅焔が白蝋に優しく話しかける。師を想う気持ちは彼も同じだ。否、むしろ彼や銀月の方が白蝋よりも辰砂に対する気持ちは強いだろう。だからこそ彼らの行動は白蝋よりも慎重で、今だってきっと歯がゆい思いをしている。
「悔しいけど……僕たちじゃ駄目なんだ」
 爪が刺さり血が滲むほどきつく拳を握りしめ、紅焔は言う。
「人は、自分が救ってほしいと思う人間の言葉しか届かない生き物だ」
 他の誰かの言葉では駄目なのだ。その相手でなければ、響かない。
「お師様は口には出さなくても、本当はいつだって破壊神様からの言葉を待っているんだと思う」
「……」
 紅焔は辰砂に救われた。銀月も、間接的には白蝋も。でも彼らに辰砂を救うことはできないのかもしれない。
 辰砂が破壊神に求めているのは、彼らが受けたような救いではないのだ。それだけはわかる。
 紅焔は両手を伸ばし天を仰ぐ。神のいます天上よ。でもそこにも救いは存在しない。
 どうしたらあの人を救うことができる? どうしたら……。
「僕にとって、辰砂は神様みたいな存在だ。でも神は人を救えても、人は神を救えるのだろうか」
「紅焔、お師様は人間だよ」
「そうだ。そこに一縷の望みがある。でも僕らの手には、扉を開ける鍵がない」
 その鍵を持っているのはきっと、破壊神だけなのだ。