第4章 波音の向こう
22.見知らぬ愛しき人
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前触れのない高波はどう考えてもただの自然現象ではない。
大いなる海の力がリューシャと辰砂を包み込み、二人を海岸から沖合まで一瞬にして連れ去った。
水の中なのに息ができることに気づき、リューシャは目を瞠った。辰砂が叫ぶ。
「アドーラ……! 邪魔をしないでよ!!」
世界が青い。心許なく体が浮遊する。足元も天井も四方が青に包まれている。
けれどバベルの図書館と呼ばれた何も存在しない虚無とは違い、体を包む水の安心感があった。あの時は空中遊泳を水の中で泳ぐようなものだと感じたが、実際に海中にいると全然違う。
夜が明けたのか。遠い水面から金色の光が差し込んできた。周囲は快晴の空のような明るい水色で、足元に行くほど深く底の見えない紺碧が広がる。
無数の魚たちが、二人の周囲を泳いでいた。遠くの魚群がきらきらと光を反射して銀に星屑のように輝く。近くを通り過ぎる小さな魚は赤と青の模様が入っている。
呆然とそれらを眺めていると、ふいに向こうから大きな影が近づいてくるのに気付いた。
「人魚? ……と?」
魚のようにひれを持つが魚とは比べ物にならないずっと大きな生き物がこちらにやってくる。そして、その生き物に付き添うように数人の人魚がいた。
大きな生き物はリューシャの方にやってきた。一方、人魚たちは辰砂の動きを拘束するようにするするとその腕にまとわりつく。
「海神アドーラの眷属、波乙女と呼ばれる人魚たちか」
少女たちのくすくす笑いが泡のように海中に広がる。
かつて神々に反逆した辰砂も、海神の眷属には手荒な真似はできない。人魚たちのされるがままにまとわりつかれている。ほっそりした手に杖を奪われて、溜息をついた。
リューシャは自分の方へとやってきた生き物と向き合った。つるりと滑らかな白い肌とひれを持つ、つぶらな瞳をした大きな生き物。確かこれは……。
「くじら!」
「イルカだよ馬鹿」
「うう……」
辰砂に呆れられる。大きさも形も全然違うだろうと怒られるが、絵本で見ただけで両者の正確な知識が思い出せない。
白イルカは懐くようにリューシャへとすり寄ってくる。人魚たちにまとわりつかれたまま、辰砂がイルカに話しかけた。
「今日はイルカの気分なの? アドーラ」
『そうだ』
イルカが喋った。いや――海神が喋った。
この大海原そのものである海神は、破壊神や背徳神のように人の姿を持たぬ神なのだ。そのため肉の器持つ人間と話をする時は、海の生き物の肉体を借りる。
「海神アドーラ……?」
悠々と海中を旋回し触れてくるイルカを、リューシャは恐る恐る呼ぶ。
「兄上……?」
『久しぶりだ。弟よ』
破壊神は神々の末子。母なる創造の女神以外の全ての神々が、兄であり姉である。
前世でも彼と話した記憶は少ない。だがいつもその存在を近くに感じていた。
辰砂たちの住む村は海辺にあったから、天界から辰砂に会いに行くたびにその傍にいる海神アドーラの力も感じられたのだ。
辰砂が溜息をつく。一体どういう原理なのか、水中でぷくりと泡になる。
「で……何の用?」
『あまり破壊神を苛めないでやってくれ。辰砂』
イルカの姿をとった海神は、創造の魔術師にそう頼み込んだ。
「……そいつが力を暴走させれば、この世界が滅びるんだよ。海神」
『それでもだ』
穏やかな目のイルカはすいとリューシャから離れ、辰砂の周囲を泳ぐ。
『懐かしい日々は還って来ないが、私は昔の己の決断を何一つ悔やんだことはないよ。辰砂。君にも力を貸してほしい』
辰砂が杖を異空間にしまった。渋々ながらも戦意を収め、臨戦態勢を解く。
「やれやれ……。大恩あるアドーラ神様の頼みじゃ仕方ないか」
『恩に着る』
辰砂はイルカの頬を撫でた。
人魚たちが次々に彼の傍を離れていく。辰砂が目を閉じる。海神が辰砂の耳元で何かを囁く。
リューシャがハッと気づいた時には、二人は再び大きな波に攫われていた。
足元に砂浜の感触が戻ってくる。海岸に引き戻されたのだ。
「兄上……!」
遠く水平線を眺めると、海と空を別つ夜明けの黄金の光の中で一匹のイルカが飛び跳ねた。
「僕は昔、海神アドーラの慈悲によって、海中に沈みかけたところを救われてあの村へと流れ着いた」
全身を水浸しにした辰砂が同じように立ち上がり海を見ていた。昇る朝日が美しい。ここは大陸の東側だ。
「その後の神々の運命とやらを思うなら、海神はそのことを後悔してもおかしくはない。……けれどアドーラは、悔やんではいないと」
海神が辰砂を救うことなく見殺しにしていれば、その後の世界の運命はまったく違ったものになったに違いない。
だが海神はそうしなかった。そして今も後悔はしない。咎なく沈められた希代の魔術師の少年がその後の世を大きく動かすと予感しつつも、彼の身を背徳の民が集う岸辺へ送り届けた。
神々に反逆したという言葉からよく誤解されるが、辰砂はフローミア・フェーディアーダに存在する全ての神と敵対しているわけではない。
神々の中でも己の職分によって正義は別れ、かつての戦いでも一部の神々は辰砂の敵に回らず中立を保ってくれた。
海神や大地神など、基本的に大自然や生命そのものを司る神々は懐広く慈悲深い。彼らは時にその大いなる力で人の都を文明を一瞬で呑みこむこともあるが、それ故に常は儚い人の子らの命運を見守り続けている。
辰砂を神々への反逆者として敵視するのは、主に律神を始めとする人間の職能や権能に関わる神だ。人なくして存在しえない権能から発生した神は、人の秩序を乱す辰砂のような異端を赦さない。
辰砂と神々の関わりは深い。あるいは末子であり、ほとんど神としての役割もなかった破壊神以上に。
「船は無事に岸に着いた……だって。余計なことを」
辰砂が独りごちる。それはきっとリューシャに聞かせるための呟きではない。彼の目はいまだ遠くを見つめるままだ。
「今更知りたくなんかないんだよ。魔の海で僕を沈めて船を動かそうとした奴らのその後なんて……」
――かつて、辰砂は。
その色違いの瞳故に、行く先々で不気味がられたのだ。
ただ瞳の色が違うだけならまだしも、彼は魔術師。その頃は今とは違う理由で、魔術師という存在はまだこれほど受け入れられてはいなかった。
何か不吉なことが起こる度にそれは辰砂のせいにされる。一つ所に留まることができないからこそ、彼はいつだって余所者。余所者で異相で魔術師とくれば、それはもはや迫害を避けようもない時代だった。
辰砂が背徳の民の村に辿り着いたのは、彼が船から海へと落とされて漂流し、海神の慈悲により流星海岸へ届けられたから。
彼を海神への贄と称して海に沈めた船は、それでも無事に目的地へ辿り着いたと。
今更の話だ。もう何千年も前のことだ。すでに辰砂以外の誰一人残っていない。そんな結末を今更聞かされてどうするのかと。
唇を噛む辰砂にリューシャは言った。
「……良かったじゃないか」
「何?」
振り返る白銀の髪の先から水滴が滴り落ちる。
「お前が心配していた船の人たち……無事だったのだろう?」
「心配なんか――」
「いいや。お前は船の行く末を案じていたはずだ。それが例え自分を生贄として海に落とすような輩の乗っていた船でも」
辰砂は善人とは言えない。だが決して悪人ではない。
それが自分に危害を与えた者たちであっても、無事に助けられた後でまで彼らの不幸を願うような性格ではない。
もはや何千年も経過して全てが死に絶えた今更だったとしても、その結末を海神の口から聞けたことは、辰砂にとっては良かったはずなのだ。
少なくとも破壊神の知る辰砂とはそういう人間だ。
「…………お前、この会話の意図、完全にわかってないだろ」
「は? え、な、なんだ?! 何か特別な符丁でもあったと言うのか?!」
辰砂が微妙とも珍妙とも何とも言えぬ表情で髪をかき上げる。何故だかよくわからないが、毒気を抜かれてしまったらしい。
「完全に天然でやってるところが恐ろしいよ。まさか空気まで破壊するとは……」
「空気を破壊?! どういう意味だ?! 我が何かしたか?!」
今のは普通の会話じゃなかったかと慌てふためくリューシャを見て、辰砂は長い長い溜息を吐きだす。
海神の言葉は、謂わば念押しだ。まったく関係ないどころか自分を殺そうとした連中の生死まで気に掛ける辰砂が、一度は敵対したとはいえ、かつてあれほど可愛がっていた破壊神を見捨てられるはずはないだろう? と遠回しに言いたいのだ。
リューシャ自身はそれに気づいてはいない。だが彼も海神と同じように辰砂という人間を捉えている。
船の結末を伝えたと同時に、海神は最後にこう問いかけた。
『殺せるのか?』
殺すのか、ではなく。殺せるのか、と。
日が昇る。朝が来る。太陽神の恩恵が地上を照らす。地上を去った今でも神々はこの世界を愛し、その光を投げかけている。
「辰砂」
リューシャの呼びかけに辰砂は意図的に踵を返し、その顔から視線を逸らした。
背後に項垂れる子犬のような気配がある。わかっていて辰砂はまだ、目を逸らし続ける。
「――オリゾンダスに戻るぞ。そろそろバカ共もちゃんと収拾つけている頃だろう」
リューシャが顔を輝かせた。辰砂が無造作に伸ばした手をとる。声なき歓喜が聴こえるようだ。
けれど一点だけ強烈に痛みを思い出させるかのように、氷の針が胸を刺すのを辰砂は感じた。
ここにはもう自分たちしかいない。他の皆はいない。
埋められぬ隔たりがあることを再確認しながら、今はひとまず休戦だと、辰砂はリューシャと共に転移した。