第5章 祈りの行方
30.地の祈り、天へ
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新しく豊穣の巫覡として紹介されたのは、アナイスと言う名の僅か九歳の少女だった。
大地の聖色である茶色の髪と緑の瞳を持つ可憐な容姿の少女だ。
しかし王都の民たちは失望した。彼らは豊穣の巫覡と聞いて、ルゥの姿を久々に見られることを期待したのだ。
アナイスは容姿こそルゥより幾分優れているが、あまりにも幼すぎた。巫覡として初めての舞台がこの大仕事で緊張し、民たちの反応に委縮もしている。
ルゥとてまだ十四歳の少年でしかないが、昨年の事件にて威勢の良い啖呵を切った彼の元気な姿を見ることで、人々は安心したかった。しかし出てきたのはクラカディル派によって誂えられたお飾りの巫覡であり、今回の即位は総て仕組まれたものだと尚更実感せずにはいられない。
簒奪をする側としてはこの辺りの形式的なことなど無視してクラカディルに王としての名乗りを挙げさせたいものだが、そうもいかない。シャニィディルを王として不適格とした理由が大地の聖色を持たぬことであるのだから、クラカディルとしては式典をきちんと行い、自らが大地神に認められた王だと民に示さねばならないのだ。
アナイスが新たに豊穣の巫覡の名を継ぐ一連の儀式が終わる。
「それでは新たなる豊穣の巫覡、アナイス様からクラカディル新国王陛下の戴冠を――」
「待ってください」
小さな少女は些か舌足らずな物言いで、式典の進行を司る儀典長の言葉を遮った。
「私はまだ、大地の神の加護を戴いておりません。いいえ。この国の人々みんなが――今は大地神の加護を失っているのです」
しんと静寂が落ちる。少女の言葉が人々の脳内に染み込んだ頃から、ざわざわと徐々に動揺が広まって行った。
「な、何を……!」
顔をどす黒く染めた儀典長の指示によって、アナイスが取り押さえられようとする。それを庇ったのは、傍で護衛をしていた神殿騎士たちだ。
「お前たち……!」
「あなたたちが決めた神子とはいえ、豊穣の巫覡は豊穣の巫覡。無体な真似は神殿の者が許しません!」
会場がざわめく。誰にもどうすることもできず、ただその場で立ち尽くすのみ。
「……戴冠ができないと言ったな」
クラカディルは豊穣の巫覡に歩みより、静かに問い詰める。
「は、はい」
「この国が神の加護を失っているとはどういうことだ。それによって国王の即位ができないとなれば、国は崩壊するぞ」
「そ、それは――」
これから王になろうという王子に冷たく見つめられて、アナイスは縮こまる。そこに、天からの声のように救いの声が降ってきた。
「それは、この国が神の加護を失った理由が、あなたの振る舞いにあるからです。クラカディル王子」
どこからともなく、彼はこの場に現れた。大勢の兵士たちが守るはずの王城内を抜けて、式典会場に。
「ルゥ様」
クラカディルとアナイスの声が重なる。
突如として現れた先代豊穣巫覡の姿に、民衆の間には再び驚愕が広まって行った。
「ルゥ様」
「ルゥ様だ」
「神子様!」
「豊穣の巫覡様!」
歓喜と悲哀が入り混じる民の切望の声。彼らは真に大地神の声を聞く巫覡を求めていた。
神の加護を失った国。
取り戻せるのは、豊穣の巫覡しかいないと――。
ルゥは両手に花束を抱えながらゆっくりと歩いてくる。
――花束?
この国に存在する植物は総て枯れたのだ。地に生えた雑草も、花売りの切り花も例外ではない。そんなものどこで。
その答はすぐに知れた。
ルゥの腕の中で抱えられた花束はますます瑞々しさを取り戻して行くようだった。
「アナイス」
「は、はい!」
「力を貸して」
彼は次代の巫覡を呼んだ。クラカディルの脇を抜けて、アナイスがルゥのもとに駆けてくる。
ルゥは少女に花束を手渡す。アナイスはルゥに指示された通りにそれを持ち、式典会場の端に立った。
戴冠の儀を行う会場は、城の二階の広いテラスだ。そこから民衆の頭上に花々を降らせるように、アナイスがそれを放った。
一年前の事件の時を髣髴とさせる行動に、人々は降ってくる花々に目を奪われる。その光景の中、一つの歌声が響いた。
どこからともなく聞こえてくる竪琴の音を伴奏に、ルゥが歌っている。静かな曲調でありながら遠く深く響く澄んだ声で。
歌詞はわからない。これは神に捧げる歌だから、人に理解できる言葉ではないのだ。
集まった民衆に、儀式会場の貴族たちに、わかるのはその歌声と竪琴の音の美しさだけ。
やがて、人々は少しずつ異変に気付き始めた。
「見て! 植物が……!」
「緑が蘇るぞ!」
王都の植物たちが息を吹き返す。道に植わった街路樹も、家々の軒先を飾る鉢植えの花さえも。
彼らは知らねども、同様の奇跡はタルティアン各地で起こっていた。
山が蘇る。森が蘇る。畑の作物が蘇る。
あらゆる植物が息吹を取り戻す。
民衆より高台にある儀式会場にいたクラカディルにはその光景がいくばくか見えていた。ここから見えるだけの景色でも、すでに王都を囲む壁の向こうの山々がその色彩を取り戻して行く。
「ルゥ様!」
「豊穣の巫覡様!」
歓声が響く。誰もがルゥの名を呼び豊穣の巫覡の威光を湛えた。
歌い終わったルゥがゆっくりと振り返る。そして告げた。
「皆さんに謝らねばならないことがあります」
え? と小さなさざめきが走る。ルゥは構わずに続けた。
「私はこの三年、ずっと嘘をつき続けてきました。自分がこの国一番の神子であるという嘘を」
◆◆◆◆◆
時間は少し遡る。
神殿の隠し通路から戴冠の儀の会場に忍び込もうとしたルゥと、王城の抜け道から会場に忍び込もうとしたリューシャとラーラと、やはり王城内部から忍び込もうとしたダーフィトたちは、最後の通路で全員が落ち合った。
「ルゥ!」
「ラーラ!」
三日振りの再会を果たした元豊穣の巫覡とその護衛騎士は固く抱き合う。お互いの無事な姿をこの目で見れて涙が出てきた。
「無事だったんだな。良かった」
ラーラの言葉に、ルゥがほんの少し痛そうに瞳を歪めたのがリューシャにはわかった。そしてそれ以外の彼の変化にも。
「そちらは――って、え? 嘘。リューシャ王子、ダーフィト閣下。どうして」
髪色を染めたままのリューシャと、ダーフィトやセルマを見てルゥが目を丸くする。かくかくしかじかでと簡単に事情を話したところで、兵士が通りがかった。
硬質な金属の音がして一瞬で二人組の兵士は倒れた。セルマとラーラが剣を抜き、素早く斬り捨てたのだ。
「峰打ちです」
剣を鞘に戻しながらラーラが言う。
「良かった。ラーラたちがいてくれて……」
「ルゥ、お前一人でどうやってここまで来たんだ?」
「神殿の隠し通路と王城の隠し通路は繋がっているんだ。前にシャニィや先代様に聞いていたから、そこを通ってこの角の向こうの部屋まで一気に抜けてきたんだよ」
リューシャとラーラ組はラーラが、ダーフィト、セルマ、ウルリーク組はセルマが先陣を切って兵を倒しながらここまでやってきた。戦う力のないルゥがどのようにして来たのかを聞いたラーラが、なるほどと納得する。
クラカディルの手によって王城の敷地内にある閉鎖された塔に監禁されていたルゥは、そこから脱出しすぐに隠し通路に身を潜めた。クラカディルの部下は当然隠し通路のことなど知らないので、ルゥを見つけることができなかったのである。
「話している時間はないぞ。豊穣の巫覡。すでに式典は始まってしまった。もうすぐあなたは代替わりせざるを得なくなる」
「うん。それは別にいいんですけど」
え? いいの? とこちらが聞きたくなるほどあっさり頷いたルゥは、しかし次の瞬間顔を引き締める。
「巫覡のことはともかく、クラカディル殿下の戴冠は止めなくては。リューシャ王子たちも、協力してもらえますか」
「ああ、もちろんだ」
ダーフィトが躊躇なく頷く。クラカディルのことも心配は心配だが、だからといって彼の望むままタルティアンを混沌に落とすわけには行かない。
意外にもルゥはリューシャやダーフィトではなく、セルマに主な頼みごとをした。合図と共に彼が歌うその伴奏をして欲しいと。ウルリークがその言を受けて中空から竪琴を取り出す。
準備は整った。しかしリューシャは、今にも走り出そうとするルゥを制止せずにはいられなかった。肩に手を置いて動きを封じる。
「リューシャ王子」
「その体では無茶だ」
神としての力に半ば目覚めたリューシャは、おぼろげながらルゥの心身の状態と彼がこれからやろうとしていることがわかった。そしてそれをすれば、ルゥ自身もただでは済まないと言うことも。
タルティアンから消えた大地の神の加護を取り戻す繋ぎの役割を、神力の弱った身で行うには命を燃やすしかない。
「大丈夫です。アナイス……当代の豊穣の巫覡が助けてくれますから」
「ルゥ……?」
すでに代替わりを当然のものとして受け入れているルゥの様子に、ラーラも不審を覚えた。昨年の事件の際にはかけられそうになった嫌疑を威勢のいい啖呵で吹き飛ばした、あの時の力が今のルゥにはない。
「それに、俺はこのために、今この時代にこうして生まれて来たわけですから」
長い間、ずっと嘘をついてきた。人々を騙し、シャニィディルには痛みを強いてきた。
全てはこの日のため。神との約束を、今、果たす。
「これが俺の運命なんです」
神々の末子に向けてルゥは微笑んだ。
リューシャがルゥの魂の状態を感じ取れるように、ルゥもまたリューシャが神の一柱であることに気づいた。
それがわかる程に、彼はすでに近づきすぎた。生と死を超えた第七感、神感司る天の世界へ。
大地神によって選定され、大地神のために存在する豊穣の巫覡。
「ルゥ……確かにシャニィ様のことは残念だけど、クラカディル王子を止めるために、お前がそんなに無理しなくても」
「ごめん、ラーラ。色々と事情があるんだ。これは今、俺がやらなきゃいけないことなんだ」
三年もの間、ずっと傍にいた。共犯者のシャニィディルより、恋人であるティーグより近く。親友である彼女にルゥは告げる。
「今までありがとう、ラーラ。幸せになれよ!」
「あ、おい」
彼は振り返らない。
豊穣の巫覡の正装を纏い、颯爽とした足取りで戴冠の儀に乱入する。
「……リューシャさん。あの方は、もう」
他の者たちに聞こえぬよう、ウルリークがそっと話しかけてきた。
「長くはない。……わかっている」
リューシャも。ルゥ自身も。
クラカディルに彼の行動以上の悪意がなく、その本音がルゥへの愛情だったことは知っている。けれど彼の行動は、結果的にこの国の破滅への引き金となりかねないものだった。
ルゥはその破滅を止めに行ったのだ。クラカディルではなくとも誰かがいつかそうしただろう、破滅へと転がる道を止めるために。
「わかっているけれど……歯がゆいものだな」
リューシャは恐らくラーラとの約束を守れない。ルゥは死ぬ。大地神が“死んだ”ためにこの国から失われた加護を取り戻すために力を使って。
単に顔見知り程度の間柄であるリューシャでは、その決意を変えさせることはできなかった。
馬の嘶きがする。
「あ……」
通路の奥、現れたのはもう馴染みとなったその生き物と、彼の上に騎乗する人影。
「あなたは……!」
金髪に緑の瞳、褐色の肌を持つ神が笑った。