Fastnacht 34

第6章 神の帰還

34.封じられた名前

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 式典の日はあでやかな晴天で、自然の恩恵に文句のつけようもなかった。急な話に国中もちろん驚きに湧き立ったが、それでもこの話を多くの人間が喜んだ。
アレスヴァルド中が待ち望んだ、ディアヌハーデ侯爵ダーフィトの戴冠だ。
 罪人となった元王子の存在を忘れたわけではなかったが、人々にとってそれはすでに亡き者として扱われていた。元より無能にして無力になるよう育てられていた、忌まわしい神託の王子だ。国に追われてまで生きていられるはずがないと。
 ダーフィトの急な戴冠がゲラーシム王の威光であることも皆わかりすぎる程にわかっていた。公爵子息から王子になるための書類や手続きはすでに完璧に整えられ、後は本人の意志を待つばかりの状況だったのだ。
 何の不満もなければ不安もなかった。誰もが祝福してその時を待っていた。
 そしてそうした事態に水を差すことこそが、もはやアレスヴァルドでのリューシャの役割なのだった。

 ◆◆◆◆◆

 着飾った本日の主役とその父親、居並ぶ賓客と言う名の貴族たち。遠目に式典を見守る王都の民。
 盛大な祝福の空気を打ち壊すように、リューシャは己の騎士を伴いその式典に現れた。
 バルコニーの様子が城下にも見えるような構造はタルティアンと同じだ。だがアレスヴァルドの城の造りはタルティアンのそれより更に大きい。
 天気が良い程光が生み出す影も強く暗い闇の中から姿を現す演出効果。入り口からただ歩いてきただけとはいえ、そこが一番目立つ部分だ。突如として現れたリューシャの姿に誰もが意表を衝かれた顔をしていた。ゲラーシム以外は。
 立場が立場だけに、アレスヴァルド国内でもリューシャの顔を知る者は少ない。
 しかし、一度もその姿を見たことのない者たちにも彼が誰だかわかってしまった。その身に纏う雰囲気で。こんな時にこんな場面に、こんな風に現れる人間は他にいないと。
 今にも王冠を被らされるところだったダーフィトだけが、微かな安堵の表情を浮かべている。他の者たちは誰もが皆憎悪の眼差しをリューシャに向けていた。
 それでも彼は帰ってきた。この舞台に。己の祖国に。どれ程憎まれ、疎まれようとも。

 ――……本当にそれでいいのか? 国に戻っても、お前に与えられた神託は変わらない。かけられた冤罪を晴らすのだって困難だ。――それなのに、戻るのか?
 ――それはまた難しいな。それで冤罪か。例え貴殿に国王殺しができるとは思っていなくても、国民は貴殿に国に帰ってきてほしくないわけだな。
 ――だから言ったじゃないですか。
 ――この国にあなたを待っている人なんて誰もいないって。

 ――で、貴殿自身はどうしたいのだ。

 リューシャ=アレスヴァルドは帰還する。

「その戴冠は了承できない」
 明確に口にしたとたん、突き刺さる憎悪の眼差しもこれまで以上に激しいものとなった。国中の敵となった元王子は、それでも堂々と告げる。
「何故なら今、国王を名乗る男、ゲラーシム=ディアヌハーデこそがエレアザル王陛下を殺めた罪人だからだ!」
 糾弾の言葉に、一瞬場が静まり返った。
 だがそれは高波の前の凪。一度押しこめられた分、すぐに反発が噴き出してきた。
「ふざけるな!」
「そんなことあるはずがない!」
「自分の罪を人に押し付ける気か!」
 半ば以上予想はしていたが、やはりアレスヴァルドにリューシャの言葉を聞く人間はいないようだった。
 いまや会場中の人間全てが敵と化し、老若男女関係なくリューシャを非難する。
 元々ゲラーシムの罪は立証しづらい。この完璧な男が、迂闊に証拠を残すなどありえなかった。
 それでもリューシャは自分が父王を殺してなどいないことを知っている。ただ問題は……。
「セルマ!」
 言われるまでもなく彼女は動いていた。隙をついてリューシャを取り押さえようとしていた兵士たちを次々と気絶させる。
 戴冠式の警備を務めるだけあって熟練の兵士たちを一瞬で伸したセルマの腕前に、またもや一瞬の空白ができる。
 リューシャはその空白に自らの言葉を滑り込ませた。
「証拠なら、ダーフィト=ディアヌハーデ侯爵が知っている」
 ざわめきは収まり、また広がる。人々の視線がリューシャからダーフィトへと集中する。
「――ああ」
 ダーフィトが懐から取り出した書類束を高官の一人に押し付けた。
「先王エレアザル陛下を弑逆したのは――確か我が父、ゲラーシム=ディアヌハーデ公爵だ」

 ◆◆◆◆◆

 不穏なざわめきが大きくなる。
 人々はお互い顔を見合わせて言葉にならない言葉を断片的に口にすることしかできなかった。
「そんな……」
「嘘ですよね! ゲラーシム陛下!」
「いくらダーフィト閣下と言えど、御父上に対してなんということを……!」
 波紋は広がる。降り始めた雨を受け止める水面のように。
 その中でただ一人、リューシャの糾弾を受け止めたゲラーシムだけが威風堂々と佇んでいた。
「へ、陛下……」
 ダーフィトが集めた証拠を添えた書類に目を走らせて大臣たちが震えだす。
 しかしゲラーシムはそんな周囲の動揺も一顧だにしない。
「ふ……」
 皮肉に口元を歪めて笑う。リューシャは眉根を寄せた。
「お前がそれだけ自信を持っていると言うことは、その資料には確実に私を追い詰めるだけの証拠があるのだろうな」
「ああ」
 リューシャとゲラーシムは睨み合う。
「だがお前はわかっていない。リューシャ=アレスヴァルド」
 ゲラーシムは会場に集う貴族たちと、眼下でこちらを見守る民へと視線をやった。

「今更それが明らかになったところで、誰がお前を認める? 呪われた神託の王子よ」
「貴様……!」

 その言葉で、リューシャがいくつか違和感を覚えていたゲラーシムの不可解な行動が、一つの線で繋がった。
 この半年間王を名乗っていた男、簒奪の公爵は暗く嗤う。
「破滅をもたらす凶兆の王子。リューシャ、私はお前を追い落とし、この国から排除するためなら自身の死も厭わない」
「……初めから、そのつもりだったのか! 我を排斥するそのためだけに、こんなことを!」
 彼は初めから、自らが権力を得るために簒奪を行った訳ではないのだ。
 ダーフィトを王にしたいというのは確かに親の贔屓目や息子可愛さもあろうが、それ以上にリューシャよりもダーフィトこそが王に相応しいと考えていたため。
 ――ああ、そうだ。そうだったではないか。
 ゲラーシムは野心家だ。その野心を現実にするだけの力もある。
 だがこの男にとって最も大事なものは、アレスヴァルドというこの国なのだ。
 国そのものを守るためであれば従兄弟王を手に掛けることも、その息子に罪を着せることも、口封じのために神官たちを殺すこともできる。自らの手を汚すことを厭わずに最も効果的な手段を選ぶ。
 それが、ゲラーシム=ディアヌハーデ。
「さぁ、呪われた王子よ。私を簒奪者と断罪するのであれば、お前自身もその存在によって国を揺らがせた罪を贖うがいい。――赦されない罪を犯す罪人同士、共に地獄に落ちようではないか」
 ざわめきが大きくなる。
「ゲラーシム陛下!」
「国王様!」
 民たちはゲラーシムの名を強く呼ぶ。エレアザル王のことを差し引いても、リューシャの神託から国を守るために行動したゲラーシムに責められる謂れはないと。
 国民はすでにゲラーシムを認めている。それが法に照らし合わせた罪であろうと、倫理的に間違った手段であろうと、国を守るための決断であれば致し方ないと。
「リューシャ王子を殺せ――!!」
「そうよ、呪われた王子こそがいなくなればいいのよ!」
 いくら法を調べ、証拠を探そうと全ては無駄だった。
 真正面からの問いかけによって、リューシャの存在は必ず否定される。
 だがリューシャもここで終わるわけには行かない。
「ダーフィト!」
 旅の始まりに交わした約束を思い返す。
 ダーフィトは言ったのだ。
 ――どこまでできるかはわからないが、俺は父上を説得するよ。
 何の取り柄もないリューシャにとって、ダーフィトの力は国を出る前から必要なものだった。ダーフィトはダーフィトで己の正義を信じ、父が改心する可能性を信じ、自分の存在をただ必要とするリューシャの求めに応じて彼を守ることを決めたのだ。
 その信頼は崩されることがないと、リューシャは確信している。疑ってもみなかった。
 今こそ、ダーフィトが親子の絆をかけて父であるゲラーシムを説得するその時だと名を呼ぶ。
 金属の立てる硬質な音がした。
「……ダーフィト?」
 年上の再従兄弟は、その手にした神剣の切っ先を、目の前のリューシャへと向けていた。