荊の墓標 02

第1章 吸血の堕天使(2)

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 白銀の髪に深紅の瞳。華奢な身体を美しいドレスに包んだその人は、庭園の四阿で今、カミラと向かい合って座っている。
 ……薔薇の花をもしゃもしゃと食みながら。
 カミラにのしかかって指を、というか指先から流れる血を舐めていたその人は、ひとしきり血を舐め終わった後、打って変わったしっかりした様子で頭を下げ始めた。彼女の話をよくよく聞いてみれば、ヴァンピルと言う種族はその名の通り、生物の血を飲まねば生命活動を維持できないということで。それを押さえる唯一の薬のようなものが薔薇の花なんだと。
「はあ……助かった。生き返る~~」
 なんと言うか。外見はこんなに美しい姫君なのに、言動が合っていないと言うか。
 これがローゼンティア王家最後の一人。
 シェリダンによって攫われてきた、囚われの姫。どうやら内面は可憐や繊細という言葉からは程遠いようだけれど、それでもその美しさは全てのものを魅了してとろけさせてしまう。かくいうカミラも何だか先程から頬が熱い。
 この方の美しさは、性別などと言う枠を越えている。
「本当にすみませんでした。見ず知らずの方にあんな振る舞いをしたうえに、このようなご親切まで受けて」
 その姫君が、正気を取り戻してからはひたすらカミラに頭を下げ続けている。
「そんなことありませんわ。私はただ品種改良を加えていない、在来種の薔薇をお教えしただけですもの。それよりも、身体の具合はいかがでしょうか?」
 雪のように白い肌の姫君は、柔らかそうな頬に薔薇色の血の気を取り戻している。初めて顔を合わせた瞬間には蝋人形のように顔色が悪かったものだから、カミラは少し安心した。
「はい、もう大丈夫です。ご迷惑、ご心配をおかけしました。……ところで、あなたは一体どなた様でしょうか? 見たところ良き家のご令嬢ではないかと見受けられますが」
 尋ねられてカミラはきょとんとする。あら? もしかしてこの方、私のことを知らないの? 
 さて、だとしたらどこから話始めるべきか。
 カミラの沈黙をどう勘違いしたのか、目の前の席に着いた姫は愛らしい仕草で小首を傾げると、慌てたように口を開いた。
「あっ、ごめんなさい。人に名を尋ねるにはまず自分から名乗るが礼儀ですよね。俺は……」
「俺?」
「うっ! ……いや、その、これは」
「まあ、一人称なんて些細な問題ですわね。別に女性の一人称が〈俺〉だろうと〈僕〉だろうと〈我輩〉だろうとたいしたことではありませんわ」
 姫があまりにもうろたえるので、カミラは先手を打ってそう言った。女性というものの心は複雑だ。かく言うカミラだって昔は女である自分を疎んで、なんとか男らしくなれないものかと気を配ったことがある。一人称を変えるなんてその序の口だった。最もこの外見ではあまり功を奏さないその作戦は早々と破棄されて、以後は女としての武器を最大限に使う生き方へと変えたのだが。
 カミラは目の前の女性もおおかたそのようなたぐいなのだろうと勝手に予測してそう言った。
「乱暴な言葉遣いとは自覚しているのですが、どうも直らなくて」
「気にすることはありませんわ。……それよりも、私の名はカミラですわ。カミラ=ウェスト」
「俺は……失礼、私は」
「俺でも別にかまいませんわ。それに、私、あなたのこと知っています。ローゼンティア王家の方でしょう?」
 カミラがそう口にすると目の前の人は、二、三度瞬いたあと痛みを堪えるかのような表情で。
「そう……でしたか。確かに俺の名はロゼウ―――いえ、ローゼンティアのヴァンピル。ローゼンティア王家の『ロゼ』です」
 シアンスレイト城の者は、もはや誰もがシェリダンがローゼンティア王家の姫君を妃にすると言って連れ帰ったことを知っている。それが彼女にはたまらないのだろう。そのことを知るたびに、自分が敵国に捕虜のように攫われてきた立場だと思い出さずにはいられないのだから。
「あの、お気を悪くされたならばごめんなさい。でも私……あなた様とは、できれば親しくしていただきたくて」
 嘘は別に言っていない。確かにシェリダンに拉致された姫君を利用して玉座を奪おうとは考えていたが、今のカミラは本当にこの人と近付きになりたかった。
 先程の飢え渇いた様子から立ち直った彼女は本当に美しくてけれどどこか儚げで、当人を見てしまったら道具として見ようという気が起こらなくなってしまった。もともとカミラはシェリダンのことは文字通り殺したい程に嫌いだけれど、その妃となる女性にまで恨みがあるわけではない。むしろ彼女は、故国を滅ぼされた男に無理矢理連れ去られた被害者。その胸中はいかほどのものか。おそらく今現在この城で一番つらい思いをしているのは彼女だろう。
「あの、ロゼ姫君」
「ロゼで結構ですよ。カミラ様」
「でしたら、私のこともどうぞカミラと。それに、あなたは……この国の王妃となられる方ですし」
 立場的には彼女の方が義理姉ということで上になるのだろうが、なんとも説明しようがなくてついそんなことを言ったらやはり彼女の顔は憂いに沈んでしまった。
「あ、あの! 今回のことは、まことに申し訳なく思っております。シェリダンがあんな暴挙をしでかして貴国に多大な損害を与えたことは、私どももいかんともしがたく」
「そんなにかしこまらないでください。カミラ様」
「いいえ、どうかカミラと。ロゼ姫様」
「では、カミラ。俺もどうかロゼ、と。……今回のことは……少なくともこの城に来ることについてだけは、俺が自分で決めたことです。だから、あなたがそんな風に恐縮することはないんです」
「ロゼ様」
 カミラはただその眼差しに見惚れる。
 ローゼンティア王家最後の姫君は、姿は勿論麗しく清らか。けれどこの人にはそれだけではない何かがある。毅然とした佇まい、凛とした瞳の奥に、燃える炎のような揺らめきがたゆたっている。
 国を襲った敵国の大将に拉致され、ここまで来るまでに何事もなかったはずはない。あのシェリダンのことだから、何をしたか知れたものではない。それでも彼女はまっすぐな瞳で自らを律するのだ。自国を滅ぼした敵だとエヴェルシードの全てを憎んでしまえば、それが一番楽だろうに。ヴァンピルの本能だって、あのまま押さえ込まずにカミラが干からびた死体になるまで血を吸い上げてしまえば、その方がよっぽど幸せだったろうに。
 こんな強い人は見たことがない。カミラはただ感服する。
 向かい合った姫君の、血のように紅く美しい双眸に見惚れていると、時を告げる鐘の音がこの庭園までも響いてきた。それを合図とするかのように、これまで風景を一部だけ切り取ったかのように、止まっていた時間が動き出す。葉擦れのさやかな音や、小鳥の泣き声が急に耳に入ってくるようになった。
 カミラは用事を思い出した。そういえばこの後、宰相バイロンに会いに行かなければならないの。元はといえばこちらが指定した時間ではあるけれど、今はもっとこうしてこのヴァンピルの姫君と話していたい。
 だがすっぽかすわけにはいかない。それは相手が宰相だからと言うより、他でもないその話がこのエヴェルシードの王権に関わるものだからだ。執務を一から十までこなすシェリダンよりは、玉座に座るだけ座って内政を人任せにするカミラの方が扱いやすいのだろう。彼は彼女に近付いてきた。カミラはその提案を呑んだ。こればかりは今更放り投げるわけにもいかない。
「申し訳ありません。そろそろ行かなくては」
「そうですか。お引止めしてしまったようで」
「いいえ! そんなことありません。私がここにいたのは、好きでここにいたのです!」
 カミラはローゼンティアの姫に向かい、カッと火照りやすい頬を誤魔化すようにしながら早口で告げた。カミラに釣られたのか、ロゼ姫も顔を赤くしている。
「今日はお暇します。でも、その、もし良かったら、明日も同じ時間にここに来ていただけませんか? できればお話をしたいことが……」
 一瞬嬉しそうに瞳を綻ばせた彼女は、次の瞬間ふと瞳を曇らせた。俯いて膝に置いた自分の手を見つめながら、悲しげに告げる。
「今日は……たまたま外に出ることができたけれど……明日はシェリダンがどうするかわからないので」
 カミラは胸の奥が急に凍えだすのを感じる。恐らく彼女もだろう。
「そう……でしたわね。シェリダンの意見によらないと」
 また、またあの男!
 カミラの胸の中で、この美しい人を汚し傷つける憎い男への苛立ちが急激に膨れ上がる。その怒りは衰えることなくやがて凝り、冷え塊、憎悪となって腹の底に住まう。
 そしてその相手こそが、ミナハークが憎んでやまず、ヴァージニアの哀しみの結晶であるこの国の新王。
 エヴェルシード国王シェリダン。……カミラの異母兄。世界中の誰よりも残酷で憎らしい男。
 ロゼのためにも、あの男を早く王位から遠ざけねば。カミラは深く決意する。
 近くの茂みに見事な純白の薔薇が咲いているのを見つけると、カミラはそれを、指を傷つけないよう慎重に手折った。できれば棘も切って差し上げたいのだが、生憎と今は何も道具を持っていない。無理矢理手折ったせいで切り口が無様に崩れ、青臭い匂いのする花を一輪、カミラは兄の妃の胸元へと押し付ける。
 鋭い棘がその手を傷つけぬよう注意して彼女の手にそれを移しながら。
「できれば、またお会いしましょう。これは私からの、約束の印です」
「カミラ」
「ごきげんよう、ロゼ様」
 驚いた表情のロゼ姫を置き去りに、カミラは四阿を後にする。これ以上遅れると、バイロンがうるさいだろう。せっかく進んだ話をここで打ち切られては困る。
 だってあの美しい姫君を解放するためにも、私は早くシェリダンを殺して玉座を奪わねばならないのだから。