第2章 薔薇の下の虜囚(1)
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体が痛い。それにやけに寒い。
視界は利かなかったが嗅覚だけはやけにはっきりしていた。五感が鋭いのはヴァンピルに限らず魔物係種族の特徴なのだが、今は何も見ることができないし、外の音を聞き取ることも困難だった。
辺りに立ち込めるのは血のにおい。
すぐにわかった。自分の血だ。そして家族の。
彼は暗闇の中で気配を探る。両親と父上の他の妃の死はわかったが、兄妹たちの安否はまだ知れない。何しろ数が多く、力の強さも様々だ。だが、ここから感じられる限りでは全員の気配が揃ってはいないようだということがわかった。きりりと胸に感じるはずのない痛みが忍び寄る。
これ以上、誰かに何かあったのか。
彼は身動きもできずにただ焦燥だけを募らせていく。
「アンリ……アンリ」
誰かが名を呼んでいる。綺麗な女の声。綺麗だけれど、いつもどこか寂しそうに陰を背負った声。知ってる、これは。
「ルース=ローゼンティアの名において命じるわ……吸血の王の一族よ、目覚めなさい」
柔らかな感触。アンリの唇に触れたのは、ルースの、アンリの異母妹でありローゼンティア第二王女の唇だった。錆びた鉄にも似た血の味が染みて、心臓の内で鼓動が響く。
「……っ、!」
彼は瞳を開けた。暗い夜空を背景に、自分を覗き込んでいるルースの顔を見る。ローゼンティア人特有の白い髪に赤い瞳。
体中を血がめぐる感覚と共に一気に外界の情報が流れ込んでくる。音、色、匂い、気配、感触、熱、光。
「……ルース……」
「アンリ、私がわかるのね……体の調子はどう? ……何があったのか、覚えている?」
静かな、けれどしっかりとした矢継ぎ早の質問にアンリは答えていく。
自分はアンリ=ライマ=ローゼンティア。吸血鬼の国、ローゼンティア王国の第二王子。
だが、彼の祖国であるローゼンティアはもう、どこにもない。あの日、隣国からの侵略者に滅ぼされてしまった。そしてアンリはその時に死んで、今、甦った。
「ここは、《風の故郷》か?」
アンリは土の下に埋められていたのをルースの手によって掘り出され、目覚めさせられたらしい。辺りには他に誰もいない。彼女の細腕で華奢とはいえない男一人を墓穴から担ぎ出したなどというと信じられないかもしれないが、人間とは比べ物にならない怪力を持つヴァンピルであれば、造作もないことだ。
見ればルースには傷一つない。もともと無事だったのか怪我が癒えるのを待ってアンリを呼び起こしたのかはわからないが、十分に余力のある状態なのだろう。そうでなければ死者蘇生は叶わない。ヴァンピルにも力の限界はある。
だが、今はいったいいつなのだろう? 王が代替わりしたばかりの隣国エヴェルシードに侵略されて国は滅び、王族がことごとく殺害されてから。
「父上や母上……あなたの母上である第二王妃や、第三王妃も……・駄目だったわ」
「ああ」
ヴァンピルには甦りの力がある。だが、完全な不死と言うわけではない。齢を重ねれば重ねるほど再生力は弱くなり、衝撃が大きくなるとその負荷に耐え切れなくなる。つまり、生き返ることができなくなる。寿命は長いが治世も永くに渡り幾多の困難を乗り越えてきた父たちは、やはり蘇生することは叶わなかったか。
「エヴェルシードの新しい王は苛烈だったな。俺は首を絞められた後に、四肢と胴を切り離され心臓を抉られて殺された」
死の際に与えられたダメージは少なければ少ないほど甦りやすい。それに、体の部位がもとのまま残っているのも重要だ。切り離されたぐらいならその部位が残っていれば元通りすげることも可能だが、例えば腕などを斬りおとされて、その腕の先を本体から遠く離されてしまった場合はその腕はもうくっつけることはできない。
甦ったアンリの、体中がひしひしと痛むのはそのためだ。宮殿に先陣切って攻め込んできたとき、一瞬だけ見た若い王。アンリよりも一回り近く幼かったはずだ。彼は一体アンリたちにどれだけの恨みがあるというのか、その死体を切り刻むだけ切り刻んで殺したらしい。
あの混戦の間際、一瞬だけ見た光景を思い返してアンリは胸を痛める。あの少年王と直接剣を合わせていたのはアンリから見て二番目の弟、第四王子だった。あんな残虐な相手に真っ向から歯向かって、あの子はどうなっただろう。酷い目に合わされていないといいが。
「ルース、他のみんなは?」
「家臣のものたちも古い世代は亡くなったものが多いわ。王族も、私たち兄妹以外はほとんど……。みんなを起こすの、手伝ってくださる?」
もともと青白い顔に疲れた色を湛えたルースがアンリに頼み込む。彼は当然頷いた。
「もちろん。そのために俺を先に起こしたんだろう?」
一人でやるより二人でやった方が断然効率よい。それに死者の蘇生は強大な魔力を要するから、途中で力尽きて目覚めさせる者がいなくなればまた何日も兄妹たちの目覚めを待たなければいけなくなる。幼い弟妹たちから起こしては目覚めさせる者が少ないし……本当は、アンリなどよりよほど魔力が強く剣の腕から体術、内政能力まで高い長兄がいれば一番なのだが。
「なあ、ルース。ドラクルはどうした? あの人がいれば、こんなことぐらい」
アンリがその名を出した途端、ルースの肩がびくりと大きく震える。あからさまな動揺を前に、彼は頭の上に疑問符を浮かべる。まさかあの兄までが死ぬとはとうてい考えられないんだが。
「兄上は……すでに動き出しているわ。何か考えがあるようで、私にここを任せられて……」
「考えって……兄妹の甦り以上に大切なことなんて今あるのかよ」
能力は高いが、その性格は手放しで賞賛することはできない。アンリは嫌味なくらいに整った長兄の顔を思い浮かべて複雑な気分になる。彼によく似た二番目の弟は、ただただ可愛いだけなのに。
「とにかく、今はみんなを起こして」
「わかったよ」
急かすルースの声に従って、アンリは手当たりしだいに墓穴を掘り返し始めた。弟妹たちの体を引き上げて、地面に横たえる。本来なら清めてやりたいところだが、それどころではない。エヴェルシードの侵略者たちは、彼らの死体を柩にも入れず適当に墓穴に放り込んだようだ。
ん? いやちょっと待て。だったらこの腕の布はなんだろう。アンリの四肢をきつく縛っていた、土の中でぼろぼろに劣化した布。これのおかげで、彼は四肢を切断された達磨生首状態で蘇生せずにすんだ。
「手が止まっているわ……どうかしたの? アンリ」
「いや、これが……ごめん、後で聞くよ」
第五王子ミカエラを生き返らせたルースが動きを止めたアンリを訝しげに覗き込んだので、彼は作業を再開する。
土に汚れてぼろぼろの姿ながらも、次々と兄妹が甦っていく。すぐ下の弟、第三王子ヘンリー、数ヶ月違いの姉に当たる第一王女アン、弟の第五王子ミカエラ、第六王子ジャスパー、第七王子ウィル、第三王女ミザリー、第五王女メアリー、第六王女エリサ……。
これだけ、か?
「ねぇ、ルース姉様、ロゼウス兄様は?」
第五王子ミカエラが、すぐ上の兄がいないのを見咎めて声を上げた。ミカエラは第四王子のロゼウスを慕っていて、彼のあとをどこでもついて回る傾向があった。もっともそのロゼウス自身はミカエラなど眼中にもなく、長兄であり第一王子のドラクルの後ばかりを追っていたが。
「それに、ドラクルとロザリーもおらぬ」
一番年長の第一王女アンが、眉を潜めて辺りを見回した。ドラクルは先程ルースが言葉を濁しながら何かいいかけたから特に問題にはしていないが、ロゼウスと妹、第四王女ロザリーのことは気になる。
「……ドラクルは、もう蘇生しているわ。今は……」
いつもどこか伏目がちで沈んだ顔立ちのルースが、一層消えそうに儚い面持ちで告げる。蘇生、ということはドラクルも無傷だったわけではなく、一度は死んだのか。
誰にも負けない男だと思っていたのに。
「ロザリーは……一番最初に目覚めさせて協力を頼もうと思ったのだけれど、あの子憎しみに我を失っていて……」
「出て行ってしまったって?」
ミカエラが同じロゼウス大好き同士で犬猿の仲の姉の行動を聞いて、顔をしかめる。
「ええ。そう。私の言う事も聞かず、本性を発揮して飛び出していったから、ドラクルが追っているわ」
なるほど。そりゃああの人にしか無理だ。第四王女である妹のロザリーは、兄妹の中ではドラクルとロゼウスに次ぐ身体能力の持ち主なのだ。おそらくアンリが本気で喧嘩したら負けるだろう。瞬殺で。しかも我を失って本性を発揮と言う事は、普段は抑えているヴァンピルの能力全開ということだ。そりゃあ並大抵の相手では敵うわけがない。
「姉様、絶対無敵サディストのドラクル兄上も、猪突猛進直情径行娘のロザリーに関してもどうでもいいです。それよりも、ロゼウスは? ロゼ兄様は一体どうしているのですか?!」
泥だらけの衣装も汚れた体も荒された墓場も冷たく照る月光も、何もかもを気に留めずミカエラはそれを尋ねる。自分より一回り年上の姉に掴みかかって、その肩を揺さぶる。
「姉様!」
「あの子、は……」
どういう理由かは知らないが、一番先に目覚めてこの役目を受け持つこととなったルースは同腹の弟の行方について、いつも悪い顔色をさらに悪くさせながら。
「あの子は、エヴェルシードに攫われていったわ」
最悪の報を告げた。