荊の墓標 08

第3章 双子人形(2)

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「エチエンヌ! どうした!」
 廊下の向こうから歩いてきたのは、エチエンヌを抱きかかえたリチャードだった。シェリダンが慌てて二人に駆け寄り、ぐったりとしたエチエンヌの具合を見る。一見意識を失っているように見えたエチエンヌだが、こちらが思ったよりしっかりしているようだ。
「シェリダン様、ユージーン侯爵……」
「ジュダか」
「ええ」
「あのバカ娘は何をしている!」
 リチャードが世話したのか、着衣こそ整っているものの生気がなく、明らかに憔悴した様子のエチエンヌに何かがあったことは一目瞭然だ。シェリダンの怒りはジュダよりも先に、エチエンヌと共に行動するはずのロザリーへと向かう。
「僕が……自分で言ったんです。ついてくるなって。……たいした距離でもないから、大丈夫だろうと思ったんですが……」
 エチエンヌは初めて会った時からそうなのだが、自分が誰かに守られたり、弱く見えることをとても嫌がる。特に、女性に対してはいつも強気でいたいようだ。彼は双子の姉であるローラがいつもジュダに虐待されているのを間近で眺めさせられていたそうだから、無理もないこととは思うが。
 とにかく、彼は自分の問題に人を巻き込むことを極端に嫌うのは確かだ。
「怪我は?」
 クルスはシェリダンと同じくエチエンヌの元へ行って、その全身の様子を見た。服の上からなので細かい事は言えないが、特に大きな怪我をしているようには見えない。顔に青痣や手首に縛られた痕があるわけではなく、本当に短い間のできごとだったようだ。
「だい……じょうぶです。単に、ヤってそのまま……ですから」
 リチャードがその現場を押さえて、部屋へと運ぶところだったそうだ。ではエチエンヌがこうしてぐったりとしているのは、その、単に疲れたからということだろうか?
「……本当に、大丈夫だな?」
「はい。……僕も、もう昔みたいな……小さな子どもじゃありませんから」
 身体が大きくなってきたから、昔ほどにはそうした行為も負担ではない、というのだ。けれど、そうした負担と、強姦による精神的な傷は別のはずだ。
「そんな顔しないでくださいよ。ユージーン候」
 クルスは自分でも知らぬ間に、痛いのを堪えるような顔になっていたようだ。だが、本当にそういう顔をしたいのは、クルスではなくて。
「僕なら大丈夫ですから……それより、あなたも気をつけてください」
「わかっています」
 つい先ほどもシェリダンに注意されたばかりだ。
「それより、シェリダン様、こんな格好でなんなんですが、ちょっと二人きりでお話したい事があって」
「なんだ? ではリチャードに部屋の用意をさせるから、三人で――」
「いいえ!」
 エチエンヌは何かシェリダンに話したいことがあるらしく、リチャードに抱かれたまま身を乗り出して、彼の服の袖をつかむ。リチャードもジュダには及ばないまでも相当鍛えているからそのぐらいなんでもないのだが、あまりにも大きく身を乗り出したため体勢が崩れる。
 落ちそうになったエチエンヌの両腕をとって支えてやりながら、シェリダンが怪訝な顔をした。
「エチエンヌ?」
「あの……どうか、できれば二人で……というか、リチャードさんには外してもらいたいというか……」
「私、ですか?」
 エチエンヌを抱きかかえたまま、リチャードが困惑とも小さなショックともつかないような、微妙な顔をした。この二人は義理の兄弟にあたり、普段は仲が良いのに一体どうしたのか。
 クルスにはよくわからなかったのだが、シェリダンは何か思い当たる事があるようで、その言葉に目を細めた。
「……わかった。二人で話そう。リチャード、私の部屋に先に行って用意をしておいてくれ。エチエンヌのところにはまだロザリーがいるだろうからな」
「かしこまりました」
 いろいろと思うところはあるだろうに、出来た侍従は顔色を変えずに一つ頷くと、クルスたちよりも先にシェリダンへとあてられた部屋へ行き、準備を整えるようだ。
客人用に用意された部屋に何の準備か? とは言っても、シェリダンはこの国の王である。その人にいつ何時でも不都合がないように気を配るのは侍従の役目だ。さらに今回は、エチエンヌの着替えの用意などもするようだ。
 思わず腕を伸ばしたシェリダンを遮り、クルスはリチャードからエチエンヌの華奢な身体を受け取った。しがみついてきた彼の腕をしっかりと抱えなおす傍ら、シェリダンが尋ねる。
「向こうに行ったらまず湯を使うか?」
「……はい」
 リチャードのことだから、何も言わなくとも気を利かせてそれぐらいのことはすでに準備しているだろう。
 エチエンヌは軽く頬を赤らめた後、小さな声で頷いた。見ているこちらが申し訳なるくらい、ばつの悪い様子だ。下半身を気にする様子を見せないようにはしていても、弛緩しきっていた足に多少力が込められたのがわかった。
 クルスはふと、以前ジュダに決闘で負けて、危うく暴行までされそうだったときのことを思い出した。ジュダのやり方はその気でさえなければ乱暴ということはないが、とにかく基本的な腕力が違う。クルスでさえまだ彼と純粋な腕力で渡り合う事はできない。エチエンヌも常々鍛えてはいるが、元々麻薬漬けの影響で十五歳なのに十二歳ぐらいにしか発育していないので、どうしても力では敵わない。今だって、それほど体格のよくないクルスにさえ軽々と抱きかかえることができるぐらいだ。
 それにエチエンヌは、クルスよりもよほど、ジュダ相手にはトラウマがある。
 ジュダは優しくない。
 クルスはそれを知っている、彼がどんなに微笑んでいても、クルスにはそれを信じられない。シェリダンもジュダの笑顔は胡散臭いとは言うのだが、本気で乱暴になったジュダからそのように扱われたことはないという。
 それはシェリダンがエヴェルシード王、であるからなのか?
 それともあの何も求めず何も望まない虚無伯爵イスカリオットにとって、シェリダンという少年だけが特別なのか。
 クルスにはわからない。ただ、覚えているだけだ。
 五年前、十四歳のいつかの日。
 王城の中庭でたまたま出会ったジュダに決闘を申し込んだ。クルスはとにかく強くなりたかったので、強そうとだ思える人物にはとりあえず決闘を申し込んでいたのだ。とは言ってもエヴェルシードの決闘は本気で命を懸けたものではなく、軍の遠征の最中、暇つぶしにと兵士が始めたもので、真剣な意味での決闘からはまたそれた、模擬試合のようなものを指す。だから大抵懸けるのも名誉ではなく金銭で、一種のゲームとして扱う場合もある。
『私と決闘、ね。ではユージーン侯爵子息、あなたが勝ったら、私はあなたのお好きなものをなんでも譲りましょう。その代わり私が勝ったら、あなた自身をいただくことにでもしましょうか』
 そう言ったジュダの言葉の意味などその時はまだ知らず、クルスは賭けの内容もよくわからないまま負けて、その場で、決闘をしていた中庭でそのまま押し倒された。
『な、何をするんですか? イスカリオット伯! や、やめてください!!』
『言ったでしょう。私が勝ったら、あなたをもらう、と』
 クルスの上にのしかかり、器用に服のボタンを外し上着の中へと差し入れられた手のひら。肌を撫でるその感触は蛇に這いまわられる不快感にも似ていて。ジュダの右手が上だけでは飽き足らず、ズボンを脱がすように腰へとかけられたときにはクルスは自分の立場も年齢も忘れて泣き出していた……。
『嫌だ! 助けて! 誰かぁ!!』
 あの時、駆けつけてきたのが父だったからなんとかなったようなものだ。これがジュダの私兵だったらどうなったものか。
 あの後しばらく、クルスはシェリダンのような年下で華奢な子ども相手にしか、男と顔を合わせられない時期が続いた。
 決闘の際に激しい一撃で肋骨の折れて動けないクルスの体を好きにまさぐっていたジュダの、得物を飲み込む獰猛な獣のような瞳は忘れられない。
『破るんですか? 約束を』
 助けに来てくれた兵士の言葉から事が発覚し、クロノスに責められた後ですらジュダはそう言って笑みを浮かべていた。
 クルスは、あの時の決闘の賞品をまだ払っていない。だからあの結果はまだ宙ぶらりんになっている。
 けれど、あの伯爵に対して、クルスのようなものが、一体何を支払えるというのだろう。ジュダは何を手にしたって、その身の内に飼う虚無から逃れられはしないのに。
 思わず考え込んでいたクルスの耳に、ふいにシェリダンの言葉が滑り込んだ。
「エチエンヌ。お前が話したいこととは、ローラのことだな」
「はい、そうです」
 エチエンヌは、ゆっくりと、そしてしっかりと頷いた。

 ◆◆◆◆◆

 一年ほど前、ローラは数ヶ月の間、行方不明になったことがある。
『ねぇ、ローラ』
『なぁに? エチエンヌ』
『最近太った?』
 ……こんな会話の後だったから、ただ単に拗ねてエチエンヌと顔を合わせないようにしているだけだと思っていたのだが。
『エチエンヌ、ローラを見かけませんでしたか?』
『どうしたんですか? リチャードさん』
『部屋に帰ってこないんです。もしかして、何かあったんじゃあ――』
 シェリダンの命令によって娶った割には、リチャードはローラを大事にしている。少なくとも、他者の目にはそう見えていた。そのリチャードが、数日前からローラが帰ってこないと言ってきた。元々ローラはリチャードが好きではなくて、時々ふらりとエチエンヌの部屋に逃げ込んだりしてきていたから、リチャードも二、三日は放っておいたらしいのだが。
 その時ばかりはエチエンヌのところに家出ならぬ部屋出してきているわけではなかった。念のため普段はさほど親しくしていない顔見知りにも声をかけたが、誰も知らないと言う。エチエンヌとリチャードは大慌てで、とにかくシェリダンに報告して、物凄く怒られて、シェリダンも心当たりがないらしく城内を隅々まで探させたけれど見つからなかった。挙句の果てには、シェリダンに絶対の忠誠を誓っているけれどローラとも顔見知りだから、何かあったら彼女が頼ることがあるんじゃないかと考えられる貴族、クルスにまで連絡してみたがやはり見つからなかった。
 エチエンヌは泣いたし、リチャードも目に見えて気落ちしていた。シェリダンも時々苦悩するような表情をすることを知っていた。
 それから半年近く経って、ローラはようやく城に帰って来た。
 誰にも行く先も目的も言わず神隠しのように消えてしまった彼女に対して、けれど人々の反応は暖かかった。帰って来たローラは、城を出る前と比べて少しやつれているのがわかった。ローラはリチャードを愛してはいないけれど、それを我慢して側に仕えるぐらいシェリダンのことが好きだから、誰か他の男と駆け落ちしたとか、そういう噂だけはない。
『ローラのバカバカ! 僕をおいてくなんて!』
 まだ少し顔色の悪い、双子の姉が笑う。
『……ごめんね。エチエンヌ』
 エチエンヌを抱きしめて肩に顔を埋めて、その身体が小刻みに震えていた。
『……ローラ?』
『……私も』
 私も、あんたのように、男だったらよかったのに。
 姉の涙の理由が、エチエンヌにはわからなかった。わからなかったけれど。
「あの時、ローラはこの城に……イスカリオット伯の元にいたそうです」
 お茶の用意された席で向かい合う。これだけの言葉で十分だった。すぐにエチエンヌの言わんとするところを察して、シェリダンが顔色を変える。
「何? だが、ローラが進んでこの城へ来るなどと」
「僕もそう思っていたんですけれど、でもイスカリオット伯が」
 あの伯爵は確かに言った。
『ローラは半年ほど前にここに少しいた』
 ローラが城から姿を消したのが一年前。帰って来たのが半年前。ジュダは少し、と言っていたが、もしかしてその六ヶ月間、ずっとこの城にローラはいたというのか。
 何のために?
 エチエンヌもシェリダンも押し黙って、そのことを考える。ローラがこの城にいたこと自体は、不思議だがありえないことではない。今から五年前、その時から四年前には暮らしていた城。ジュダの奴隷として生活していたし、もちろん城主は伯のまま変わっていないから、関係もさほど変わっていない。だからローラが何故ここに来られたか? というのは問題ではないのだ。問題なのは、何故、よりにもよってここに彼女が来たのか? ということだ。
 この傷しか残らない城に。
 ジュダに虐待されていた一年間は、まさに地獄だった。エチエンヌだって、ローラだってもちろん、ここに二度と来たいなどとは思わなかったはずなのに。
 それでも何故か、ローラは理由不明の家出先にこの城を選んだのだ。
 ジュダが嘘を言っているわけではないだろう。そんなすぐにバレる嘘を。何より、あの時シェリダンはジュダの余計な横槍を警戒して、クルスには教えたローラ失踪の情報を他の誰にも告げていなかったはずなのだ。どこかから情報が漏れたと言う事も考えられるが、ローラの身分は奴隷で、役職は侍女。たかだか奴隷女の動向にさほど注意を払う間諜もいないだろうと思う。
「……たぶん、本当のこと、なんだろうな」
「ええ」
「だが、何故だ? 何故ローラはよりにもよって、この城に……」
 あの頃、確かにローラの様子は少しおかしかった。けれど女の人にはよくあることだし、エチエンヌもシェリダンも、夫であるリチャードでさえ、よく考えずに見過ごしていた。その分ローラがいなくなってから一番自分を責め、恐慌状態になったのはリチャードだった。明らかに錯乱している彼を、その言葉通りローラの捜索に城下に出すわけにもいかず、エチエンヌとシェリダンは必死で止めたのだが。
 あの時、姉に何があったのだろうか。帰ってきてからエチエンヌを抱きしめて泣いたのは、どうしてか。忌まわしい記憶と傷を植えつけただけのジュダを頼ってまで、彼女は何をしたかったのか。
「……同じ女である、ロザリーにでも探らせるか?」
 シェリダンはやはり放っておけないらしく、出し抜けにそんなことを言い出した。
「無理ですよ。そんなの。ローラが自分から話すならともかく、あの時いなかったロザリーがそんな話をしたら、僕らのスパイだってすぐに疑ってますます警戒を強めちゃいますよ」
 ローラはそういった性格だ。今はいつでもにこにことしているけれど、昔は無表情で、感情のないような子どもだったローラ。続く虐待に身体は慣れてきても心のほうが耐えられず、静かに狂い始めていった。
 エチエンヌはその場にいたわけではないが、彼女はシェリダンを殺そうとしたこともあるのだという。エチエンヌが今までの生活から一変、まったく別の環境で四苦八苦しながらもシェリダンやリチャードの厚意に甘えてどことなくふわふわとした幸せを感じていた頃も、ローラはそれまでの憎しみを忘れずに募らせていたのだと。
 エチエンヌとローラはそっくりだけれど、二人はやっぱり別々の人間だから、エチエンヌにはローラの考えていることがさっぱりわからない。今も昔も。
「お前はどう考えている。エチエンヌ。ローラのこと、何があったか問いただしておくべきだと思うか?」
「僕は……」
 返答に詰まった。自分はどっちなのだろう。ローラのことを思うならそっとしておいてあげるべきなのかもしれないが、何かまずいことに関わっているならやめさせるためにも事情を知らなければいけないかもしれない。どっちがいいのだろう。わからない。わからない。
「ローラに、直接聞かないと無理な気がします」
「でも答えないだろう、あれは?」
 確かにそうだ。
「でも、イスカリオット伯に関わるのは……」
「それは私がやる。お前たちは心配するな。この訪問が終ったら、もう二度と、お前たちをあの男に会わせないようにしよう」
「シェリダン様」
「大丈夫だ、エチエンヌ」
 ジュダは何故か、シェリダンにだけは無体をしない。こんなに美しいシェリダンにあの男が手を出さないなんてことがあるわけないし、二人が身体を重ねたことがあることもエチエンヌは知っている。けれど、エチエンヌとローラがされたような乱暴なことは、されていないらしい。
 それがシェリダンがエヴェルシードの王であるからなのか、もっと別の理由があるからなのかまでは知らない。
「……僕の命も、ローラの命も、あなたのものです」
「エチエンヌ」
「ローラもそう言うと思います。例え何があったって、あなたの命令なら聞けないわけがありません。ですから」
 シェリダンは押し黙る。
「あなたの、お好きなようになさってください」