第5章 黄金の復讐姫(2)
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「何故そのまま、その刃で私を殺さない」
シェリダンの剣を弾き飛ばし、喉元に刃を突きつけたロゼウスが切っ先をひくのを見て、シェリダンは思わずそう口にしていた。
剣技ではシェリダンに敵わないなどと言っていたくせに、ロゼウスはやはり強い。あのローゼンティア王城侵略の際だって、セワードがブラムスに勝つまで、シェリダンはロゼウスの剣を持ちこたえるのにやっとだった。本来なら王子の一人程度さっさと片付けてセワードに加勢し王を討ち取るつもりだったのだが、その目論見を阻んだのは他の誰でもなく、今目の前にいる少年だ。
華奢な身体を普段よりは多少動きやすい女衣装に代えて、剣を持つロゼウスの姿は美しい。儚げなその姿と無骨な剣の取り合わせに、何とも言いがたい迫力が漂う。
シェリダンを見つめるその紅い瞳。極上の鳩の血色の眼差しが、不思議そうに瞬く。
「どうして?」
直前まで夢と現を彷徨うかのような風情だったくせに、いざ試合となればしっかりとシェリダンに勝ったロゼウスは、感情の篭もらない瞳でシェリダンを、見つめる。
「今更あんたを殺して、何になるの?」
ローゼンティア侵略の際ならば、大きな結果をもたらすことになった。華燭の典をあげる前ならば、彼がシェリダンから逃げ出す好機となった。
だが今ここで自分がシェリダンを殺す理由はないと、ロゼウスはあっさりとそのように告げる。
「……理由なら、ある」
シェリダンがいなくなれば、もう牢獄に監禁されて陵辱の限りを尽くされることも、兄妹を人質に脅されることもなくなるはずだ。兵の報復はあるかもしれないが、もともと自国を侵略した敵国の民に情けをかける必要などない。それならばロゼウスは、吸血鬼の実力を発揮して簡単にエヴェルシードの民を虐殺することも可能だ。
何故、殺さない。
何故、殺したいほどに私を憎まない。私はあんなにも、お前を傷つけているのに……
周囲では観戦していた兵士たちがまだ度肝を抜かれた様子で呆然としている。誰もロゼウスが勝つとは思っていなかったのだろう。立ち尽くすシェリダンとロゼウスの姿に釘付けになっているが、試合のための舞台と観戦位置までは距離があるから、この声は誰にも届いてはいない。
シェリダンと同じ舞台に今も立つ、ロゼウス以外には。
「お前は、私を憎んでいるのではないのか?」
問いかけたその言葉に、ロゼウスが長い睫毛を瞬かせてまばたきする。
「憎、む?」
思いもかけない言葉を言われたように、シェリダンの言葉を鸚鵡返しに呟いてそのまま沈黙した。
そんなこと考えてみたこともないと言うような態度に、きりきりと胸が締め付けられる。
問いに対する答を誤魔化すように、今度は彼の方から問いかけてきた。
「あんたは……そんなに死にたいのか?」
そうだな。私も頭がおかしい。何故殺さないなどと聞いて、まるで自分が殺されたかったみたいな言い様だ。
「別に。ただ死にたいわけではない」
お前になら殺されてもよかったと思うだけで。
「無駄死には嫌いだ」
お前が私を憎まない理由がわからないこの今のように、意味のないものは嫌いだ。
「……俺は」
ロゼウスが何かいいかけて、ふいに口を閉ざした。眩暈を起こしたように急にその場に蹲り、観客の兵士たちからどよめきが走る。
「どうしたんだ?」
「急に倒れちまったぞ?」
「実はさっきの陛下の攻撃が後からじわじわ利いてきて……ってパターンか?」
「演劇の見すぎだ、お前は」
好き勝手言う兵士たちの言葉を右から左に流しながらロゼウスに駆け寄れば、自らの体を両腕で抱きしめ、白い肌をさらに血の巡りが悪いような色にしている。
「どうした?」
「日に……あたりすぎた。疲れた」
練兵場は屋外にあり、屋根がない。今日の天気は雲ひとつない快晴、シェリダンやここにいる兵士のようなただの人間には心地よいぐらいの青空だが、ヴァンピルであるロゼウスには辛いらしい。
ああ、そうだった。お前はいつも、曇り空にしか優しい眼差しを送らない。
太陽などいらないのだと。
「わかった。もう今日はこれで終わりにする……エチエンヌ!」
駆け寄ってきた小姓のエチエンヌにシェリダンの分とロゼウスの分の剣を預け、シェリダン自身はロゼウスの身体を抱きかかえる。五センチほどしか身長の変わらない相手だが、ヴァンピルはやけに華奢で、軽すぎるわけではないのに、どうしてか運ぶのが苦にならない。
ぐったりと力ない様子のロゼウスを横抱きにして、練兵場から離れ城へと戻る。寄ってきて事情を聞いてきた二人ほどの兵士に簡単に説明をしてから、いつもの牢獄ではなく、シェリダンの寝室へと向かった。長い廊下をロゼウスを抱きながら、真紅の絨毯の上を歩く。
シェリダンに抱えられたロゼウスが、呻くように彼の胸に顔を押し付けて囁いた。
「……シェリダン」
「どうした?」
ともすれば虫の羽音よりも儚いようなその声を、シェリダンは耳を済ませて聞く。触れられた胸から音が骨を伝って脳髄に響くかのように、全身全霊でロゼウスの言葉に耳を傾けた。
「どうしてあんたこそ、優しくするの」
「……何?」
ロゼウスは淡々と零す。
「俺を抱きたいだけなら、もう望みは叶ってるじゃないか。痛めつけて楽しむのだって、国民を人質に取れば逆らうこともできないと、知っているくせに……」
「……ロゼウス」
「俺があんたを恨んでいるかどうかなんて、どうだっていいことだろう……? だってあんたは恨まれて憎まれて当然のことをして、そのための奴隷として俺をローゼンティアから攫ってきたのだから。……だったら最初から、こんなことしなければ良かったんだ。閉じ込めて犯して傷つけてぼろぼろにしてくれれば良かったのに……」
抱きかかえているために肌の一部は触れている。その箇所から伝わってくる、何かを深く後悔するような、過去の一部を消そうと必死にもがいているような、その苦しげな声音が余韻を残す。
「王妃なんて、妻だなんて、道連れに死ぬなんて言わなければ良かった。ただ引き裂いて切り裂いて気まぐれで殺してくれれば、楽だったのに……」
久々に剣を握ったロゼウスの手は紅く染まり、ローラが丁寧に手入れをしていた爪の一部が割れて血を流し無惨な有様を晒していた。その血を華奢な手で掴んだシェリダンの服の襟元に移しながら、ロゼウスが呟く。
「あんたを殺したいよシェリダン。なのに、どうしても殺せない」
殺してくれれば全てが終わったのに。
「……俺の方が聞きたいよ。あんたは、俺をどうしたいんだ……?」
私は、お前を。
「陛下、お部屋に」
考え込むあまりうっかり自室すら見逃す始末。後からついてくるエチエンヌの控えめな指摘により、寝室に到着していたことに気づく。
剣の試合で汗をかいた服を放り出し、ロゼウスを抱きかかえて浴室に向かう。エチエンヌには新しい服を用意させるように命じ、もう一つを命じて、それが終わったら部屋を出て行くようにとも告げた。一瞬彼が切なげな顔をしたのを見なかったことにし、シェリダンはロゼウスと浴室に消える。
これまでずっとローラに世話を任せきりにしていたロゼウスを、久方ぶりに自分の手で入浴させる。先程の試合で何箇所か浅い傷はつけたはずなのに、ヴァンピルの回復力でもうどこにも見当たらない。
練兵場は屋外にあるせいで砂っぽくなってしまった白銀の髪を丁寧に洗い流す。身体も洗い、シェリダン自身の洗髪も終え、風邪を引かないよう二人とも十分に全身を拭ってから外に出る。
まだ日は高いが、今日の分の仕事は元々終わっている。剣の稽古は、明日からはリチャードとエチエンヌに交替でさせることにする。
浴室から出て寝台に向かい、その上にあるものを見て、一度温まったことで戻りかけたロゼウスの顔色が再び蒼白になった。
「シェリダン……」
「私がお前をどうする気かと尋ねたな」
シェリダンはただその答を示しただけだ。
「おいで、ロゼウス」
殊更ゆっくりと手招いて、ふらつく足取りでやってきたロゼウスの首にまたもや鎖のついた枷を嵌める。こんなものがなくても彼が自分に逆らえないのを知っているくせに、形を見て安心したいがためにシェリダンはそれを使うのだ。
「……お前は私のものだ」
何度も繰り返すあまりに、いつしか道化の見る夢のように滑稽となったその言葉を繰り返す。
「愛している」
だから閉じ込める。誰にも渡さない。お前は永遠に私だけのもので、私のためだけに生きればいい。
シェリダンの言葉どおり、涙目で鎖を嵌めたロゼウスの従順なその姿に小さな満足と。
同じだけの痛みを、胸に覚えた。
◆◆◆◆◆
室内に濡れた音が響く。
「んっ……ふっ、……ふぁ」
女の赤い舌が、蛇のように艶かしく、ハデスのそれを這う。
「あ……ああ、姉さん……」
わざわざ跪くようにして、ハデスの股間に顔を埋めている女のことを呼ぶ。
本当なら陛下と呼ばなければならないところ、けれどこの寝台の中では身分も何もない二人に戻る。けれどその関係は皇帝とその補佐以上に、こういった色事には向かないものだ。
「あ……姉さん!」
張り詰めたものを強く吸われて、姉の肩を掴み達する。びくびくと跳ねたそれは美しい女の口の中で精を放ち、先程までハデスのものを愛していた唇から、彼女は淫らな白濁を伝わせる。
「ん……ハデス」
ハデスの名を呼んで、彼の姉であり、アケロンティス帝国の三十二代皇帝であるデメテルが口づけてくる。舌を絡ませて唾液を吸われるその行為に、ハデスは激しい嫌悪を感じて振り払うと、彼女はつまらなそうな顔をした。
内心の憎悪を嗅ぎ取られないように、ハデスは慌てて取り繕う。
「ちょっと……酷いよ、姉さん。何も僕が出した後にキスすることないじゃんか」
「うふふ、だからでしょ、ハデス。あなたの出したものなんだから、じっくりと味わいなさい」
ハデスの裸の胸を撫でて、熟した赤い飾りを口に含んで転がしながら、デメテルは言う。
大地皇帝。世界の神にも等しい支配者。
けれど彼女はその実の弟であるハデスの腕の中で、ただの女と化していた。
「ふあ……」
唾液だの精液だの愛液だのでぐしょぐしょになった体に、指が伸びる。片方の乳首は口に含まれ、もう片方は手で弄られて、内面に反して体の中心はまた勃ちあがるのを感じる。
気持ちいい。
気持ち悪い。
前者は体の問題で、後者は心の問題だ。だからハデスは行為に肌が火照っても頭の隅で感じるその嫌悪感から意識をそらそうと、殊更彼女の体に集中する。
男なんて肉欲だけで相手を抱ける生き物なんだからと、自分で自分に言い聞かせる。いいじゃないか。別にたいしたことじゃない。それが世界の神たる皇帝であろうが、実の姉であろうが、性欲処理の肉人形ならなんだって構わない。
そう思うことで、デメテルに触れられるたびに生じるこの不愉快さから目を逸らす。
考えるな。没頭しろ。
姉であると言う事を考えなければ、そして相手がデメテルという女であることを考えなければ、その身体は豊満と言うしかない。皇帝になったために十八歳で成長を止めた身体だが、長い間玉座についていたためか、十分に女としての貫禄があり、熟れきった果実のように成熟している。
男として、抱くには申し分のない体だ。実際彼女に触れたい、本当にただ触るだけでいいのだという男は五万といる。
ハデスは誘ってくる姉の手をそっと握り返して、すぐにそれを解き、指を彼女の中へと伸ばす。
「ん……あぁん」
しとどに蜜を垂らすそこをかき回されて、自らに課せられた重責も何もかも頭から追い払い肉欲に没頭する女は歓喜の声をあげる。
その体勢のまま、さんざんに中をかき回し花びらを可愛がって彼女を一回達かせると、ようやく甘噛みされていた乳首から彼女の口が離れる。
「可愛いハデス。あなたはずーっと、私だけのものよ」
感情や意志に関係なくただひたすら行為のせいで昂ったものに手を当てて、唇をその赤い舌で舐めながら、デメテルが言う。
「そして私は、あなただけのもの」
豪奢な天蓋付きのベッドで、狂ったように繰り返されるそれは禁じられた遊戯。
愚かな姉さん。
愚かで、そして醜いあなた。
そのあなたに選ばれて選びし者の宿命を課された僕。
世界中にすでに知れ渡っている話。ハデスは彼女の本当の選定者ではない。皇帝の選定者は身内から生まれるのが通常だが、その本当の選定者はデメテルとハデスの父だった。しかしハデスは父の顔も名前も知らない。
自らが次代の皇帝だと知った時、デメテルは父母に懇願した。自分を補佐するための最も近い血族、弟が欲しい、と。
彼女の望みを聞いて、その願いを叶える代わりに不老不死の皇族の一員にしてもらうという状況で高齢にも関わらず父母は、もう一人の兄妹、すなわちハデスを作った。ハデスはデメテルが皇帝に選ばれた一年後、デメテルが十九歳の時に生まれた弟だ。
そしてハデスが生まれると、デメテルは父の身体にあった選定紋章印をハデスの腕に移植し、両親を殺害した。だからハデスは両親を知らず、乳母の手でずっと育てられてきた。
そして十六になった時、姉の寝台に侍るようになった。
「ん……来て、ハデス」
求めに応じるがまま、ハデスはデメテルの中に挿入する。皇帝はこの世の絶対権力者である。彼女は後のことなど何も気にせず、また何があっても問題にする気もないのだろう、避妊具も使わずに実の弟であるハデスと交わり、遠慮なく中に出させる。
それはもしかしたら、幸せなことなのかもしれない。
「愛してるわよ、私のハデス」
だけど僕は。
「んぁ……姉さん……」
締め付ける女の内壁に、身体は快感を覚える。けれど、どうしても消せない、この背筋に走る悪寒。
「姉さん……デメテル」
ひたすら腰を振って、姉を満足させ、自分も性欲に片をつける。後始末など頼まずとも周りの人間がやってくれる身分だ。ハデスはただ何も考えずに腰を振り、彼女を満足させればいい。
そのために自分は生まれたのだから。それだけのために。政治の補佐なんて建前だ。デメテルが欲しかったのは、自分に似ていて自分を裏切らない人形。
同じ親から生まれた兄妹だって、同じ心を持つわけじゃないのに。
「ああ、ハデス……っ!」
恍惚とする声。昇りつめる感覚。
「はぁ……はぁ……」
解き放たれた悦楽にぐったりと身を横たえる、艶かしい肢体の美しい女。顔立ちはハデスと似ている。でも内面は似ていない。
可哀想な姉さん。
可哀想で、酷いあなた。
男が怖いあなた。
物心ついた頃から父に虐待を受けていたデメテルは、男が怖いのだ。見ず知らずの男など怖いから、間違っても傍に寄せ付けない。たまに性欲を覚えても男娼を買うことすらできないから、だから可哀想な彼女のためにハデスは生まれた。
僕は、皇帝の玩具。
「あら? ハデス、どうして泣いてるの?」
言われて、ハデスは頬を滑るぬるい水の感触に気づいた。あんたのせいだよ。飛び出そうになる言葉を飲み込んで、それとは正反対の言葉を口にする。
「ああ……姉さん、僕のデメテル……もっと、もっと……」
触れた唇に舌が這う。滑り込んでこちらの舌を絡め、熱く濃く、交じり合う。
もっと、もっと抱かせて。抱いて。
その方がより深く、あなたへの憎しみが育つ。
ハデスは皇帝である姉のために生まれ、いつも彼女のために生きるのだと教えられてきた。彼女を抱いて満足させ、甘えておべっかを使い彼女を身体も心も満足させるために、そのためだけに生まれた。
だからデメテルは、ハデスが自分を裏切る事はないと思っている。
馬鹿な姉、愚かな姉。そんなに傷つくことが怖いなら、選定者を取り替えてはいけなかったのだ。例えそれまでがどうであろうと、選定者は皇帝を一生傷つけない者を天が指名するのに。
豊かな胸に顔を埋め、その熟した身体を楽しむ。考えるな。何も。この憎しみと、情欲以外。
ハデスはただ、浅ましい女を抱いているだけだ。これは、ただの肉人形。性欲を発散させるだけのくぐつが、何であろうと関係ない。
昂ったものを再び姉の中に抜き差しする。ぐちゅぐちゅと淫猥な音が響き、それぞれの嬌声があがる。
その傍らで、脳裏に美しい一対の男女の姿がちらつく。いや、本当は男女ではなく、男同士だ。エヴェルシード人の美しい少年と、ローゼンティア人の美しい少年。
彼らこそ神が見出した完璧な一対。
そして彼は。あのヴァンピルは……
(させない)
女の腰を掴んで多少乱暴なくらいがくがくに揺さぶりながら、もはや向ける場所のわからなくなった憎悪を滾らせる。
そんなことは、絶対にさせない。見ていろよロゼウス。僕はお前を……
達した姉に締め付けられて自身も精を解放しながら、ハデスは快楽とは違う恍惚の笑みを浮かべた。