荊の墓標 15

第5章 黄金の復讐姫(3)

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 さあ、行っておいで。
 これはあなたのための舞台だ。

「……ちょっと、そこのあなた」
「はい?」
 彼女は自分のすぐ横を通り過ぎようとした一人の青年を呼び止めた。何かしたのだろうかと目を瞬かせて返事をした彼が不思議に思う間に、声をかける。
「少し、向こうで私とお話しませんか? 大事なお話があるのです」
「え!」
 彼女の言葉に彼は周囲の耳目まで集めるような狼狽した声をあげ、彼女はそっと唇に人差し指を当ててみせる。ハッと我に帰った彼が人々からの冷たい視線に困惑して慌てふためくところを、さぞ救い主のように手を引いて奥へと連れ込む。
 御前試合の間、シアンスレイト城の一階は一般市民や出場者に開放されている。王族の住居や会議室、客室の存在するそれより上の階と地下牢へ続く通路前は兵士によって警護されているけれど、一回部分だけなら好きに使っていいわけ。
 そしてこの城は彼女にとって庭のようなもの。人目につかない場所など簡単にわかる。青年の手を引いて、有無を言わせず中庭にまで連れ込んだ。
「あのっ!」
 芝生へと足を踏み入れたところで、彼はようやく彼女の手を振りほどく。人目から逃れたい気持ちと彼女から逃れたい気持ちの両方を考慮した結果、ここに来てから手を離せばいいという結論に至ったらしい。
「俺は……用がありますので」
 無視して去るのもなんだと思ったのか、簡単に言葉を口にして踵を返そうとする青年の横顔に彼女は愛しい人の微かな面影を重ねながら言った。
「ロゼウス様を探しに行くのですか?」
「えっ!?」
 途端、こちらが驚くほどの素早さと形相で青年が元通り振り返った。彼女の肩を強く掴んで、憚ることなく大声で問いかけた。だから人目のない場所へ行きたかったのだ。
「ロゼウスのことを知ってるのか!?」
「ええ、知ってるわよ。アンリ王子殿下」
 教えた覚えもそのはずもない名前が彼女の口から飛び出たことに驚いて、ますます彼は彼女の肩を強く掴む。
「なっ、どっ……!」
 何故。どうして。
「痛いわ。その手を離してくださらない?」
 告げれば案外にあっさりと引く人の良い王子は、彼女の顔をまじまじと見て、当惑を隠せない様子で尋ねてくる。
「あ、ああ。済まない。だけど、君は……?」
「私は、カミラ」
「カミラ……? だが、その名前、エヴェルシードではありふ―――!?」
 確かにカミラはエヴェルシードではありふれた名前だ。男子の王族の名前はその人が生まれてから死ぬまで使ってはいけないと定められているけれど、女子に関しては関係ないから、王家の姫の名を市井の人々がつけるなどよくあることだ。
 けれど、彼女のこの容姿。
 そして、この顔立ち。
「濃紫の髪と黄金の瞳を持つ姫、エヴェルシード第一王女、カミラ=ウェスト=エヴェルシード姫」
「ええ」
 不本意ながら、カミラは兄に似ている。ぱっと見ではわからなくても、雰囲気が似ているそうだ。そしてこの王子はエヴェルシードのローゼンティア侵略の際、シェリダンの顔を見ているはずだから。
 アンリ王子は幽霊でも見るような顔でカミラを見つめている。
「カミラ……姫? 本当に? だってあなたは、死んだはずでは――」
「ええ、そうよ。死んだわ。あなたと同じように」
「俺はこれでもヴァンピルだ。だが、あなたは人間……」
 いいかけて彼は気づいた。カミラの纏う異様な気配に。
「人間じゃないのか……? ノス、フェラトウ……いや、違う、ほぼ完璧な蘇生……こんな術誰、が……」
 口にしかけて彼は気づく。
 髪こそ蒼く染めているけれど彼はロゼウスの兄で、瞳は多少橙色が強いけれど赤く、耳は隠しているけれど尖っているはずで。
「まさかそれ……ロゼウスが?」
「ええ。言ったでしょう、王子殿下。私はあなたと同じだと」
 ローゼンティア王家の王息、王女たちは一度殺されてまた甦った。カミラも彼らと同じようなものだ。一度は死んだのに、ロゼウスの力のおかげで生き返る事が叶った。
「だが、何故エヴェルシードの姫君をロゼウスが……」
「隣国の誼で聞いたことはございませんでしょうか? 私はシェリダンの不倶戴天の敵です」
「ああ――そう言えば、仲が良くないようだとは聞いたことがある。もともとシェリダン王は男子でありながら正妃の血を引かない庶民を母親に持つ子ども、正妃の血を引くのは次の子ども、だがこちらはあの男尊女卑国家エヴェルシードで生まれた女。憎みあって当然だろうと」
「ええ。私はシェリダンが嫌いです。むしろ、あんな男死ねばいいと思っているわ」
「……それとロゼウスと、どういう関係が」
「おわかりになりませんか? ロゼウス様は無理矢理この国に連れてこられたお方……我が兄の外道によってあんな目に遭わされてなお、民を人質にしては逃げることも叶わぬ……私にとっては、大切な同志であり、何より大切なお方です」
 ロゼウス様。薔薇の王子様。
 あのような目に遭ってなお、私はあなたを……。
「ロゼウス様が、私を生き返らせてくださいましたの」
「なるほど……だが、実際にあなたの葬儀はあげられている」
「ええ。でもそれは、すべて兄を欺く策略……私は二度死に掛けたのです。一度目はロゼウス様が甦らせてくださいました。二度目はその時のヴァンピルの力の影響により、毒を含んだはずなのに死にきることはありませんでした。……二度目に関しては、ロゼウス様も知りません。あの方はまだ、私が死んだと思っているのかも……」
 ここまで言ったことは全て真実。他人に嘘をつくコツは、それに幾割かの真実を混ぜることだと。カミラはドラクルに言われた通りにそうして、アンリの協力を得ようとする。
 何故彼の名を直接出してはいけないのかと聞いたのだが……ドラクルは、第二王子殿下とは仲があまりよろしくないのですって。歳の近い男の兄弟などそんなものなのか。とにかくドラクルが関わっていることを知ったらアンリは逆に警戒するかも知れないから、カミラだけで行った方がいいのだと。
「それで、あなたがロゼウスと知り合いであることはわかった。だが何故、俺の名を知っている? それもロゼウスが話したのか?」
「ええ。簡単に説明を聞いたことはあります。けれど、それだけではありませんわ。ロゼウス様救出のために、もう一人動いていらっしゃる方がいるのです。その方から」
「……それは誰だ? 名前は」
「それは……」
 カミラはいかにも秘密めいて、彼の耳元にその名を囁いた。
「ええ? ……なんで、そんな人が」
「彼もまた、ロゼウス様に関わった一人ですから」
 カミラの告げた名に盛大に訝りの表情を浮かべながら、それでも大切な弟を助け出すためには手段を選んでいるわけにはいかないのか、アンリは疑わしきながらも頷いた。
 カミラは彼とまた二言三言話、計画を詰める。
 ロゼウスを救うための計画を。
「……一つだけ、聞きたい」
 計画を話し終わったところで、いまだ戸惑いながらも自らの心を宥めたらしきアンリが真っ直ぐな眼差しで問いかけてくる。
「あなたの目的が知りたい。いくらロゼウスに恩義があるとは言え、エヴェルシード王族の者がそれだけで動くとは思えない」
 人間なんて所詮私利私欲の生き物。それをわかっていて言う彼の言葉に、不思議と悪い気はしなかった。むしろ、人が良さそうな見た目よりずっと内面は周到でカミラが思っているよりもずっと彼は賢いのだと知る。
「その通りよ。私はただ、ロゼウス様に恩義を返すためだけに動いているのではないわ。もちろんそれも大きな理由だけれど、それに加えてもう一つ大きな理由があるわ」
「その理由は?」
「私は、シェリダンと不仲で、彼に殺されかかった妹姫」
 異母兄であるシェリダンが玉座にいるかぎり、カミラに未来はない。
「だから私がこの国に戻ろうとするならば――シェリダンを殺し、ロゼウス様を取り返してあなた方ローゼンティアの後ろ盾を得るぐらいしかないのです」
「……与えた分は貰うってことか」
「ええ」
 アンリは頷いた。
「わかった。ひとまずあなたの話を信じて、ロゼウスや他の兄妹の救出と打倒シェリダン王に努めよう」

 ◆◆◆◆◆

 それは馴染みのある気配だった。
「あ、王妃様!?」
 廊下で行き会った侍女の驚きも無視してロゼウスは城内を走り回る。身体的には限界だけれど、動かずにはいられなかった。
「……どこだ……?」
 疲労と痛みのせいで、感覚が鈍っている。この御前試合の間そこかしこで感じている知り合いの気配。でもあれは、あの気配だけは異質で……。
「どこ……?」
 ヴェールをつけたままでいるのは、救いなのか煩わしいだけか。走り出した体が生む風になびくそれを鬱陶しく思い、でもこれのおかげで一瞬すれ違った程度の相手からはロゼウスの表情がわからないに違いない。
 今のこんな顔、誰にも見られるわけにはいかない。
「あっ」
 階段で躓きかけ、慌てて体勢を立て直した。石壁に爪を立ててしがみつき、傾いだ身体を支える。後を追いかけてくるような自らの足音が病んで、耳障りな呼吸音だけが耳についた。
 一度足を止めてしまったらどっと疲労が来て、ロゼウスはその場に崩れ落ちる。忘れていた痛みが全身に襲ってきて、立ち上がるのも億劫だ。これからまたシェリダンたちのいる部屋に戻らなければならないというのに。
 それに、その前に、確かめなきゃ……。
「カミラ……本当に、君なのか……」
 ふと感じた、一瞬の気配。やわらかな花の香りと共に。
 でも彼女は死んだはずだ。
 自分が殺した。自分とシェリダンが。
 でも、ならばどうしてこの気配は……。
 自らの感覚と記された事実と、二つの言葉がぐるぐると頭の中を回っている。
 何か……何か自分は、カミラについて重要なことを忘れているような。
「あぁあ……」
 全身の力が抜けて、起き上がれない。城の階段の途中に座り込む。動きやすいよう膝程度の長さに調節されたスカートをぐしゃぐしゃに身体の下に敷いてしまう。この辺の不器用さが、ロゼウスが顔は女っぽいのに性格は全然そうじゃないと言われる理由なのだろう。
 本当に女の子っぽいというのは……。
 カミラ。
 ロゼウスの初めて恋した少女。シェリダンの妹。エヴェルシード王妹殿下。
 ロゼウスは、彼女の事が好きだった。あのふんわりとした笑顔と闊達な口調、きらきらと輝く金色の瞳に魅せられた。夜毎ロゼウスを犯して苛む、シェリダンの骨ばった体じゃなく、カミラの抱きしめると壊れてしまいそうなほどやわらかな体を求めた。
 しかし、だからこそ、ロゼウスは何度あの時に戻っても、あの通りの選択をするのだろう。
 シェリダンの命じるがままに、自分はカミラを犯しただろう。ローゼンティアの民の命を手に取られて、仕方なく? 違う、だって俺は、自分が彼女を手に入れるにはそれしかないから……。
「あ、ははは。あははははは……っ」
 永遠に振り向いてもらえないならぼろぼろに犯してずたずたに引き裂いて壊してしまえばいい。
「俺に怒る資格はないんだ」
 拷問部屋に閉じ込められて彼の考えつくままの責め苦を味わわされても、シェリダンを糾弾する資格なんてロゼウスにはない。
「だって俺は……あんたと同じだから」
 手に入らないのならば壊してしまえとカミラを犯す共犯者となり、ローゼンティアにいた頃だってドラクルを押し倒して一緒に死んでと詰め寄った。
 なのに今更、シェリダンのしたことを拒絶するだけの資格なんて自分にはない。
「……戻ろう。戻らなきゃ」
 笑いの発作が止まらない。それと同時に薄い黒レースのヴェールが濡れていく。
「一緒に死んでやるって言ったんだもの……」
 シェリダンにそう約束した。
 ロゼウスは彼を愛してはいないし、一生愛することはない。だけれど、たった一滴、この流れる涙ほどに彼に捧げられる穏やかな感情があるとすれば、それは、あの約束が示すものだと。
 ロゼウスは、花嫁として彼に寄り添う。病める時も健やかなる時も絶望する時も希望を知る時もあんたの側にいると……。
「大嫌い……シェリダンなんか大嫌い……」
 ドラクルに言われたとおり、ロゼウスは彼を通して自分に都合の良い夢を見ていた。
 シェリダンとドラクルは、全てが同じと言うわけではないけれどどこかがやはり似ていた。それが王族の世継ぎの王子として育てられた者に特有の感覚なのか、それとも別の共通項が二人にあるのか、そんなことまではロゼウスにはわからない。
 けれどシェリダンは、ドラクルに似ていた。彼に抱かれていれば、ドラクルを思い出した。殊更目を瞑って兄の顔ばかり思い出していた。肝心な時に兄の名を呼ばないよう、必死で声を殺していた。
 シェリダンだってそれはわかっているのだろう。だから、あんなにもひっきりなしに囁くのだ。《愛している》と。
 彼がその意味を知らなかった頃に戻りたい。シェリダン自身もそれを願っている。彼はロゼウスにとっての敵で、ローゼンティアはエヴェルシードに侵略されてロゼウスは人質と言う名のシェリダンの玩具となるべくこの国に連れてこられて、だから遠慮なく彼を憎みながら、その腕の中でドラクルのことを考えることができた。
 ロゼウスがドラクルの名を出すたびに、シェリダンが狂っていくことにも気づかずに。
「大嫌い……でも、ごめんなさい……」
 ごめん。ごめん、ごめんね。シェリダン。
 俺はあんたを愛せない。あんたを憎むことはできる。好きになることだってできる。でも愛する事はできない。
 友人のように愛せるほどには、あんたに親しくしすぎた。でも、あんたが望むほどの激情は返せないんだよ……シェリダン。
 だから殺してくれればよかったのに。
 ――何故そのまま、その刃で私を殺さない。
 ――殺しても、お前は私のものにはならない。
 ――……もういい。何をしても、殺してすら、お前は手に入らない。その命も身体も私のものなのに……永遠に私のものには、ならないのなら……。
 ああ、そうか……こんな滑稽なやりとりを、自分たちは幾度も繰り返したんだった。
 一度前に言った言葉を、ロゼウスはすぐに忘れてしまう。言葉なんて所詮何の意味もないから。
 誰だって、欲しいのはいつもただ一つだけだ。けれどそれが手に入らない。
 それを手に入れるために手を変え品を変え求め続けるのだけれど、やっぱり手が届かない。
「カミラ……!」
 もしもロゼウスの全ての中で彼女が何にも比類ない位置にいたのだとしたら、ロゼウスはこの足が折れても、彼女の気配を求めて駆け出していった。辿り着いたそこで血を吐いて力尽きても構いはしない。
 けれど、戻らなければいけないんだ。
 エヴェルシード王妃ロゼとして、自分はシェリダンの隣に戻らなければいけない。
 ふと、カミラの気配が城内から消えた。もともと以前とは微かに別の感じを纏っていたそれを、弱った今のロゼウスでは嗅ぎわけることができない。この広い城内の外に一歩出てしまえば、もう彼女の居場所はつかめない。
 その代わり、耳には足音が届く。
「……ロゼ様?」
「……イスカリオット伯?」
 長い蒼い髪を動きやすいよう一つに束ねた、ロゼウスより十歳ほど年上の伯爵の姿が階段の踊り場の下にあった。
「どうしたんです? 階段の途中で一休みしなければならない程のお歳でもないでしょうに」
 城内は基本的に立ち入り禁止だが、御前試合の間は一階部分だけ解放されているらしい。それより上は王族の住居や会議室があるから立ち入り禁止だが、イスカリオット伯爵相手なら顔パスだろう。
 ロゼウスの側まで階段を昇ってきたジュダは、ヴェール越しにロゼウスの頬を流れるものにも気づいたらしい。見る見るうちに不機嫌な顔つきになって、座り込んだロゼウスをさらに乱暴に突き飛ばす。
「こんなところで涙なんか浮かべて? 何がご不満なんです? 王妃様。あれほどの寵愛を我らが陛下から受けておられながら」
 階段の段差のせいで、ただの床に叩きつけられるよりよほど体が痛い。ジュダはさらに打ち伏したロゼウスの胸倉を掴んで顔を上げさせ、ヴェールを剥ぎ取って頬に残っていた涙の筋を舐めとり始めた。
 首が絞まって、苦しい。もう限界だと思ったところで、彼はようやく手を離した。酸素不足で朦朧とした頭は上手く受身を取れずに、またもや階段で擦りむく。
「陛下にその涙を見られたら困るでしょう。拭って差し上げましたよ、ほら」
 嘲るように笑って彼は、ロゼウスを無理矢理抱き上げる。
「ここであなたを送り届けて、少しでも陛下に恩を売っておきませんとねぇ……」
 乱暴に抱えられても、今のロゼウスにはもはや抵抗する気も、その力もなかった。