荊の墓標 18

第6章 忘れ果てた痛みの先に(3)

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「殺さない、あんただけは」
 執務が終わってその部屋を訪れてみれば、やけに憔悴した表情のロゼウスに迎えられた。
「……そうか」
 エルジェーベトが訪ねると言っていた通り、室内には彼女の持ってきた薔薇の花束が残されていた。手枷に繋がれたままのロゼウスの口にそれを含ませていると、シェリダンは誤って指先を鋭い棘で切った。
 滴り落ちるは紅い血潮。
 この世のどんな生き物にとっても、血は命の源だ。それを啜って生きる吸血鬼は、自国に閉じこもる慎ましやかな暮らしぶりに対する高評価と、逆に何を考えているのかわからない不気味な種族だと言う偏見の間で常に彷徨っていた。いくら世界皇帝が認めた一族とはいえ、人間とヴァンピルではあまりにも生態が違いすぎるから。
 自らの知るものと違うものを人は恐れる。知らないものの中に知っているものを見つけ出そうとし、逆に知っているものの中に知らない一面を見出すと勝手に動揺する。そういう生き物だ。それは人間だけではなく、すべての思考能力のある生物に共通の真理だ。 
 誰かと誰かを重ねて安堵する。それはありふれたことだ。それがよほど似ている相手ならば、なおさら。
 シェリダンは寝台に横たわり、その上にロゼウスが覆いかぶさっている。いつもとは逆の体勢だが、その頬を覆う白銀の髪が作り出す紗幕はそっと降りてきて視界を塞ぐ。退けと命じる暇もない。
 顔が離れて、貴族の娘というには短過ぎるが、男であるならば少しばかり長めの髪がシェリダンの頬を撫でていく。突然の、羽根のように軽く触れるだけの口づけにシェリダンが驚く間もなく、ロゼウスが身を摺り寄せてきた。
 その細い体に腕を回し、半身寝転がったまま彼を抱きしめてシェリダンは問いかける。
「答は出たのか?」
 それを聞きに来たんだ。
「――っ!」
 すでに半分紅い瞳を潤ませていたロゼウスは、ぎゅっときつく瞼を閉じる。さらに強く胸に飛び込んできた身体を包み込んで、その髪に顔を埋めた。
 本当は、彼の答など知りたくない。
 シェリダンはもう、自分自身の想いを自覚した。幾たびも自分を誤魔化し、何かの間違いだと目を瞑り、相対するのを避けてきたその心を実感した。もうなかったことにはできないそれを吐露し、ロゼウスが戸惑い拒むのを承知で無理矢理想いを遂げた。いや……最初から、無理矢理以外の穏やかな瞬間など一切なかったのだ。シェリダンはローゼンティアを侵略した王でロゼウスは侵略された国の王子。欲しいものを手に入れるためなら、シェリダンは一日百人の無辜の民さえ見せしめに殺すことまで考えた。
 人質をとって脅迫し、その心の内側まで砕くように幾度となく蔑んだ。傷つけて苦しめて貶めた。
 けれど――愛している。
 お前が私をどう想っているかなど関係ない。私が、お前を愛しているのだから……
 どうせどんなに捧げたところで、心など報われることがないのだ。父王は母を追い詰めて無理矢理手に入れた挙句に彼女の自殺を止められなかった。シェリダンは父と肌を重ねたが、ついぞ彼に愛情を感じたことはない。いや……幼い頃は感じていたのかもしれないが、そんな時期は夢のように儚く過ぎて後には憎悪と怨嗟しか残らなかった。
 求めれば求めるほど、欲しいものは遠ざかるものだ。この胸の裡を焼けつくすような想いに駆られている、自分の望みは叶わないだろうと。
 何故求めてしまったのか。こんなにも強く。始めはただの玩具だったはずだ。一人で破滅するのは寂しくて、だけれど、真の意味で自分の道連れとなる者など思い浮かばなかった。
 だから、どれだけ手荒に扱って壊して、その身も心も弄んで構わない相手が欲しかった。始めはそれだけだった。なのに。
「シェリダン」
 シェリダンの胸に頬を当てて、ロゼウスが名を呼んできた。
 彼をこの部屋に閉じ込めて外に出る事は許さず、時間の限りを尽くしてあらゆる方法で責め苛んだ日々はそう遠くはない。こうしてロゼウスが今日は何をされるのかと怯えた不安混じりでない声で呼ばれるのは久々だった。
 ただ、その声にはもう怯えも不安も忌避もないが、そんな言葉では言い尽くせないような深い悲しみと鮮やかな切なさが含まれていた。
 彼は告白する。
「俺は……あんたの言うとおり、あんたと兄様を重ねていた」
 知っていた。そんなことは。何度も何度もそう言った。
 ロゼウスの兄は、彼を虐待していたらしい。それなのにロゼウスはその長兄を愛しているなどと言うものだから、兄にしか向かない彼のどうにか関心を引きたくてさんざんに嬲った。
 愛している。
 便利な言葉だ。
 愛している。
 それさえ告げれば、何もかもが許されるわけではない。
 でも愛している。
「……そうか」
 あまりにも色々なことがありすぎた御前試合のどさくさで一度救出され、その手を振り切ってまでシェリダンの元へ戻って来たロゼウスはどこかが変わっていた。彼に何があったのかは知らないが、彼の内面で確かに何かが変わったのは確かだ。
 シェリダンはロゼウスの手枷を外し、山と積まれたクッションを背もたれに身を起こした。枷が外れて自由な身体で寝台の敷布の上にぺたりと座りこんだロゼウスは、じっとシェリダンを見ている。
 何故そんな目をする?
 シェリダンは今まで、ロゼウスからこんな眼差しを向けられたことはなかった。いや……一度だけなら、あるか。
 カミラが死んだと聞かされ、それを信じ、国葬を行ったあの日。エヴェルシード王家の墓所《焔の最果て》で妹の墓標を眺めながら彼をローゼンティアから攫った理由を告げたシェリダンに、ロゼウスが見せたのがこのような表情だった。
 シェリダンは、自分のはかじるしを求めた。荊の這う墓標へと続く道こそが、シェリダンの人生だ。それは破滅への道。
 ――母は父を呪っていた。私が生まれる前からずっと。父もこの国の王位も、この国も。全てを憎む女の腹から生まれた私の辿る道もやはり憎しみだけだ。
 憎悪と絶望から生まれたこの生に、もとより未来などあるはずがなかったのだ。だから彼は全てを壊し、殺すつもりでいた。欲しいものなどなかった。
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない。
 それなのにロゼウスの声は優しい。
 ――堕ちていこう、一緒に。
 あの言葉は真実だった。ロゼウスは本気でシェリダンと共に、破滅の道を選んだのだ。
 だからいっそう狂おしい。ロゼウス、私のものだ。お前を誰にも渡しはしない。お前自身がどれほど望み、あの言葉を後悔して撤回しても逃がさない。
 必要ならばその羽根をもぎ、足を折ってでも鳥籠に閉じ込めると。だから、この監禁部屋に閉じ込めて壊すつもりで嬲り続けた。どれほど憎まれ恨まれようとも構わなかった。彼の中でシェリダンの存在がどうでもよいものになるくらいなら、いっそ恨まれた方がよっぽどいい。
 それなのにロゼウスは変わらない。
 あの日の墓標の前と同じ、透明な眼差しでシェリダンを見つめ、この身体を抱きしめる。
「シェリダン……俺はあんたを、ドラクル兄様と重ねていた。俺が愛した兄様と」
 ロゼウスの口から、シェリダン以外の者へ向けて好意や愛を示す言葉が漏れるたびにその首を捻り潰したくなった。
 しかし彼の言葉は続く。
「俺は、兄様を愛していると思ってた……いや、愛されなければならないと思っていた」
「……ロゼウス?」
 いつもと体勢が逆転しているので、ものの見え方が違う。身体を起こし、シェリダンの顔を覗き込むように覆いかぶさりなおしたロゼウスの俯きがちの陰のある表情が見慣れない。
「兄様は俺を愛していると言った。大好きだって言った。そう言いながら……いつも、俺の嫌がることをした。傷つけて、苦しめて、嬲った」
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!
 ――なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 ヴァートレイト城の庭で起きたできごとを思い出す。恐慌状態になって叫んだロゼウスの様子はまだ記憶に新しい。
「俺は、自分で自分に言い聞かせた。兄様が俺にこんなことをするのは、俺を愛しているからだって。兄様が俺を愛してくれるんだから、俺もその愛情の分だけ返さなくちゃいけないと思った……」
 ロゼウスが身を乗り出し、腕を伸ばして、白い指先でシェリダンの頬を包む。
「でも、違ったんだ」
 ぽろり、とロゼウスの瞳から涙が零れる。容易に目元が腫れることもないヴァンピルの流す涙は、極上の水晶玉のように美しい。
「兄様は俺を愛していない。でも俺は、兄様に愛されたかった。愛されてると思ったから愛したのか、愛しているから愛されたかったのか、最後の方にはもう何もわからなくなった。でも……あんたについてのことは、一つだけわかったよ」
 彼は懺悔する。
「シェリダン、俺にとって、兄様と同じように俺を嬲りながらそれでも血縁関係のないあんたを……兄様の身代わりに憎んでた」
 憎んでいた。
 その言葉は、思いがけず深く胸に突き刺さる。
 憎まれても恨まれても当然だと頭では考えながら、いざそれをロゼウス自身の口から聞くと、こんなにも耐えがたい。
 それでもシェリダンが泣けないのは、何故かその言葉を口にしたロゼウス自身の瞳から、後から後から枯れることのない涙が溢れているからだった。
「兄様は憎めないけれど、あんたなら憎める。俺にとって、あんたは都合が良かった。とても」
 余計な感情を挟む隙間もないくらい、ロゼウスにとってシェリダンは都合が良かったのだと。
「……そうか」
「でも、今は違う。あんたが俺を、《愛している》とか言うから……」
 ぱたぱたと、温かい雨が頬に降る。
 鉄格子の嵌められた窓から差し込む光も届かない闇の中で、その感触だけが確かな真実。
「俺が誤解をする暇もないくらい真剣に本当に、そんなことを言うから……」
 言葉が続かないロゼウスの身体を、シェリダンは身を起こして抱きしめる。二人お互いに抱き合う姿勢となり、相手の肩口に顔を埋めてその場所を濡らした。
 シェリダンを憎んでい《た》ロゼウス。では今はどうなのだと。
 ああ、妙なところで鋭いくせに、彼はシェリダンがこれまで出会った者の中で一番鈍感だ。血を流す自分の心にも気づかず痛みを忘れ果てるなんて、普通の人はそんなことできない。
 そのようなロゼウスだからシェリダンは惹かれた。自らが血まみれであることに気づいていなかったからこそ、父の血で自らの手を汚したシェリダンには、心から血を流しても戦うロゼウスはあまりにも眩しかった。
「愛している、ロゼウス」
 だからただその言葉に、万感の想いを込めた。

 ◆◆◆◆◆

 それまで俯き、寝台の上で膝を抱えていた少女が突如顔を上げた。
「ロザリー?」 
 エチエンヌは彼女の様子の変化に、思わずその名を呼ぶ。ロザリーはほっとしたように息を吐いた。
「ロゼウスの《気》が安定したわ。ようやく少し、落ち着いたみたい」
「そう」
 その言葉に対し、エチエンヌは一体何と答えればよかったのだろうか。よかったね、とでも言えと? ロザリーが兄であるロゼウスを大事にしていることは知っているけれど、エチエンヌは彼が嫌いだ。だからそんなことを言う義理はない。いっそ永遠に大丈夫じゃなければいいんだ。
「シェリダンが、側にいるみたいよ……」
 けれど、ロザリーがそんなことを言い出して、エチエンヌは思わずその顔をまじまじと見つめた。普段この上なく気の強い彼女の顔に、今は安堵と等しく痛苦や孤独や、寂しさと言った感情が見える。
 足音を立てずに、エチエンヌは寝台へと近付いた。どこか遠くを眺める様子のロザリーの肩口に顔を埋め、背中に腕を回す。ぎゅっと抱きついた身体からは薔薇の香りがして、柔らかな肌の感触が気持ちいい。
 けれど、その腕の中はどうしても空虚だった。どこかが埋まらない。埋められない。ロザリーは慕わしいものでも見るように遠くを見つめながら、口元で小さく苦しげにしている。
「ロザリー」
 耳元で囁いたエチエンヌの声に、ようやく反応して彼女は顔を上げた。天蓋付の寝台の上で子どものように抱き合う。その顔を見なくても済むように。
「何よ、エチエンヌ」
 一つ年上の妻は、くっついてきたエチエンヌを振り払うでもなく、優しく受けとめた。初めこそあれだけ仲が悪かったと言うのに、今ではこんなにも自然に身体を寄せ合うことができる。
 でもそれは、ロザリーにとって何もエチエンヌだけに限ったことじゃない。
 その切なげな視線の先にいるのは、兄であるロゼウスでは、ないよね……
「シェリダン様が好きなの?」
 直球で尋ねれば、目の前でロザリーの顔が歪んだ。ゆっくりと視線を逸らし、小さく否定する。
「違うわ」
「違わないでしょ? ロザリーは、シェリダン様が好きになっちゃったんだ……」
「違うって言ってるでしょ!」
 怒鳴ったロザリーに突き飛ばされ、エチエンヌは寝台から落ちかける。敷布を巻き添えに床へと落ちて、逆さまに彼女を見つめた。
 エチエンヌを見るロザリーの紅の瞳は潤んでいて、今にも泣きそうだ。
「……ロザリー」
 わかっていた。知っている。シェリダン自身が興味も関心もないからと側に女を置く事はないが、本当はあの人を愛する女性は跡を絶たない。今は絶世の美貌を誇るロゼウスが側にいるからそう派手な動きはないが、過去には何人もの女性がその寵愛を求めてシェリダンの側に侍ろうとした。けれど、その誰をもシェリダンは相手にしようとしなかった。
 シェリダンは、女を抱かない。
 子どもは両親を選べないけれど、いくらなんでも彼の境遇は酷すぎた。権力を行使して母を陵辱した父を、彼は許さなかった。シェリダンにとって、女性を孕ませることは最大の禁忌。それを貫く限り、例えあの人自身の血が途絶えたとしてもそれは変わらない。
 けれどその危うさにこそ、惹かれる人間は多い。
 軍事国家エヴェルシードの若き君主。だけれど、絶対に甘い処断はしないシェリダン。甦って来られるのだという情報を知らなかったローゼンティアの王族は殺し損ねた人々も多いが、それでも老人から年端も行かない子どもまで一度は皆殺しを命じた。
 それなのに、それでも、あの方には独裁君主にありがちな傲慢さが感じられない。
 あんなにも厳しいのに、シェリダンは自らに自惚れたりしないから。いつも自分で自分自身を責めて否定して生きるその姿は、あまりにも強く、儚いから。
 エヴェルシードの紋章は、十字に六本の刃を組み合わせたもの。その十字架を背負うには、彼の背中は一人ではあまりにも痛ましい。
 それでも、自らの道を支える伴侶など、生涯選ぶことはないと思っていたのに。
「選んで、しまったんだね」
 ヴァートレイト城から帰ってきてからのシェリダンは変だった。いや、ローゼンティアを滅ぼし、かの国から戦利品たる《花嫁》を連れ帰った頃から彼の様子はずっとおかしかった。エチエンヌは気づいても上手く言葉にできず、ローラからは本当に困ったならばその元を消せばいいだなんて簡単に言われた。
 でも違った。見過ごしてはいけなかったんだ、他の何においても、あれだけは。
「シェリダン様はロゼウスを選んだんだ」
 それまで、肌を合わせながらもどこか他人と距離をとっていたシェリダン。両親の事情が事情だけに、どんなにしたところで何をやったところで手に入らないものもあるのだと知っている彼は常にどこか冷めていた。言葉の上では激情に駆られていても、いつも心の裡は酷く凍えているようだった。しかもその氷は外からでは溶かせない。
 その胸の奥に、憎悪や破壊衝動以外の火を灯したのがロゼウス。どうやったものかは知らないけれど、シェリダンの心の中に、彼はやすやすと入っていけるようだった。
 悔しかった。
 寂しかった。
 けれど、シェリダンが望んでいるのだからそれは仕方のないことだとも思っていた。ロゼウスが来てからは一度もシェリダンに触れてもらえることがなくなったエチエンヌはその残酷さに震えながら、それでもシェリダンには幸せになってほしいから、と。
 だけど……
 エチエンヌは起き上がり、服が乱れ髪がぼさぼさになったのも気にせずまた寝台に上がった。どうせ今日の仕事は終わっていて、後はもう寝るだけなのだから構いはしない。
「……ねぇ、ロザリー」
 堪えきれずに顔を手で覆い、嗚咽を漏らし始めた妻を再び抱きしめる。彼女を責めることはできない。こんなの浮気のうちに入らない。
 焦がれてはいけない恋に、身を焦がした。誰を責めることもできるわけがない。彼女が悪いわけでもない。
 それでも、エチエンヌは思う。
「あの二人は、出会ってはいけなかったんだ」
「……え?」
 いかな再生能力の強いヴァンピルと言えども、泣いた直後は目が腫れる。瞳だけでなく、目元まで真っ赤にしたロザリーにエチエンヌは繰り返した。
「シェリダン様は……ロゼウスと出会ってはいけなかったんだ」
 それは確たる証拠もない、けれど絶対的な予感だった。