荊の墓標 20

第7章 湖底の王家(2)

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「さぁ、これで役者は揃った」
 始めよう、とその人は告げる。
 これは絶望に満ち、狂気に堕ち、腐敗した白骨に還るための舞台。
「ディヴァーナ・トラジェディアを」
 神聖なる悲劇。
 硝子の柩に縋る未来。薔薇の庭園で傷つけられた記憶。繰り返し繰り返し見せ付けられた悪夢。
 永い時間をかけて育まれた憎悪。
 兄は白い手のひらを自分に向かって差し伸べた。次の瞬間流れるように優美な動作で礼をとる。
 そして言った。

「ローゼンティア第一王子、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア」

 そう、この物語は始めから間違っていたのだと。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝陛下の歓迎晩餐会の日、襲撃の折に紛れて届けられた手紙に書かれていた通りの場所に、ロゼウスとロザリーはやってきていた。手紙を届けに来た、署名の宛先もドラクル。そしてあの場でロゼウスはハデスとジャスパーの姿を見たのだから、彼らが手を組んでいることは間違いない。
「ロザリー……ロゼウス」
「アンリ兄様」
 その場所には、兄妹のほとんどが揃っていた。
 エヴェルシード王都シアンスレイトの郊外にある森。鬱屈として暗く、月の明かりも禍々しい夜、ロゼウスはそこへと呼び出された。
 ドラクルの手紙に従って森へと足を踏み入れ、複数の気配が集まっている広場を目指して妹のロザリーと共に歩く。
 辿り着いた場所にいた面々は、全員がこの国には通常いるはずのない種族、ヴァンピル。それも、あの侵略の日に生き別れ死に別れ離れ離れとなった兄妹たちだった。
 第一王子ドラクル、第二王子アンリ、第三王子ヘンリー、第五王子ミカエラ、第六王子ジャスパー、第七王子ウィル、第一王女アン、第二王女ルース、第三王女ミザリー、第六王女エリサ。
 第四王子であるロゼウスと、第四王女ロザリーに関してはここで合流するまでエヴェルシード王シェリダンのもとにいたわけだけど、いつの間にこんな、みんな集合していたのか。ローゼンティアがエヴェルシードの属国化されてからロゼウスが見たのはアンリ、ミザリー、ミカエラ、ジャスパー、ウィル、エリサだけで、第一王女のアンと第三王子ヘンリーはこれまで全くの安否不明だった。
 第二王女ルースとも一度顔を合わせたけれど、彼女が誰かと行動を共にしている様子もなかったのに。
 今のルースは極当然のように、ドラクルの隣に寄り添っている。
 兄妹の中で唯一ここにいないのは、第五王女でありロザリーのすぐ下の妹であるメアリーだけだ。
「久しぶりだな、ロゼウス。それにロザリーも」
 ドラクルがロゼウスたちを見て微笑む。
「にい……さま……」
 自分でもみっともないと思うほど、掠れた声が出た。幼子のように、兄の名を呼んだ。
 久しぶりだなんて。ヴァートレイト城で会ったときからまた少し時間が空いたから、確かに久しぶりなのかもしれないけれど。
「ドラクル」
 兄は微笑んでいる。
 あの時のことなど、まるでなかったかのように。
「どういう、こと?」
 言葉の出ないロゼウスの半歩後ろに立ったロザリーが、代わりに尋ねた。
「どうして、みんないるの? どうして、メアリーだけはいないの? なんで、ドラクルがいるの?」
 どうして、どうして、どうして。
 これまでの状況が状況だっただけに、どういう経緯でここにこうして集まることとなったのか全くわからない。
 十歳程歳の離れた兄は、頑是無い幼子に言い聞かせる調子でロゼウスとロザリーを見つめた。
「もちろん、お前たちを取り戻し、ローゼンティアの復興を目指すために決まっているだろう」
「ドラクル!?」
 その言葉に驚きの声をあげたのは、ロゼウスでもロザリーでもなかった。第二王子、ドラクルのすぐ下の王子である、兄が叫ぶ。
「アンリ、お前は私が何の策もなく、ただこの国に足を踏み入れると思うのかい?」
「いや、確かにドラクルなら……」
「すでに国内の協力者は募った。エヴェルシードの離反者も抱きこんである。そろそろ私たちが私たちの国を取り戻してもいい頃合だろう?」
「そんな簡単に……」
「簡単だよ。相手は、たかだか十七歳のシェリダン王だ」
 事も無げに言うドラクルに、ちりちりと胸が疼いた。何だろう、何か、容易には形に出来ないような、不安感と不審がある。
 ロゼウスが言葉にできなかったそれを、同じように感じて上手く説明して見せたのは第三王子であるヘンリー兄上だ。
「簡単? そのたかだか十七歳の王に、私たちの国は一度負けたんですよ、ドラクル第一王子殿下」
 彼に続けて、第一王女のアン姉上も口を開く。
「そうじゃ。父上も母上方も、大公閣下ももういらっしゃらない」
「! それってっ」
 アンの台詞から何かを得たのか、それまでミカエラの肩に縋りながら不安な面持ちで皆の様子を眺めていたミザリーが叫んだ。
「今、王位継承権の第一位にいるドラクルお兄様が、次の国王として立たねばならないってことじゃない!」
 言われてみれば当たり前のことに、全員が一瞬言葉を失う。
「じゃあ、ドラクルが国を取り戻すっていうのは……っ」
「もちろん、私がローゼンティア王になるということだね。ロザリー」
「……ぇえええええ!」
「そんなに驚くなんて兄は悲しいな」
「父上がいなくなった以上、第一王位継承者が国を継ぐのは当然のことだと思うけど……?」
 うっそりと深紅の瞳を細めたドラクルに、ルースも追従する。けれどその次のドラクルの言葉は、思考を麻痺させられていたロゼウスや他の兄妹たちを現実に戻すに十分だった。
「そのためには、まずこの国の破壊が必要だね。ローゼンティアとエヴェルシードで戦争をするんだ」
 目の前に邪魔な石があるからどけましょうという気安さで兄王子は言い放った。
 破壊する。
 ここを、この国を、エヴェルシード王国を。
 確かにエヴェルシードはローゼンティアを侵略した。滅ぼして属国化した。国民を奴隷にし、ロゼウスを人質にした。
 今更和平交渉などできようはずもない。ローゼンティアを取り戻すと言う事は、エヴェルシードと戦うということだ。
「せん、そう?」
 でも、その言葉の響には何度だっていつだって動揺する。肩を震わせてよろめいたロザリーを支えて、ロゼウスはドラクルを見つめた。他の兄妹たちの様子は目に入らず、ただ彼だけを見つめていた。
「そうだよ、ロゼウス――私の可愛い弟よ」
「っ!」
 その唇から放たれた甘い響に、ロゼウスは思わず身を震わせる。ヴァートレイト城での悪夢のような再会、そして今だってこんな何もかもわからない状況で過激な発言をしているのだというのに、それでもまだドラクルの声に引きずられる。取り込まれそうになる。
 でも。
「お前だって、いつまでもこの国で人質生活などしていたくはないだろう」
 ああ、そうだ。
 そうだった、けれど。
「エヴェルシードを滅ぼして、ローゼンティアを取り戻そう。私に協力して、くれるね?」
 じれったいほどに言葉と言葉を区切り、いちいち念を押すように尋ねてくるドラクルの話術は人を引き込む。永い間刷り込まれ続けて抗いがたい力を放つそれになんとか抵抗しながら、ロゼウスはその瞬間を待っていた。
「ねぇ、ロゼウス。わかっているよね」
 あなたの言いたい事は。
 こくりと喉を鳴らして、唾を飲み込む。緊張が辺りを満たして息苦しい。隣に立つロザリーも、他の兄妹たちも一様に不安そうな顔をしている。痛いほどの静謐。それを切り裂くのはドラクルの声。
「――シェリダン=エヴェルシード王を殺せ」
 酷薄な声音が命じたその言葉に対し、腹の底からロゼウスは叫んだ。
「嫌だっ!」

 ◆◆◆◆◆

「嫌だっ!」
 その声を合図に、疾風が駆けた。
「なっ!」
「え、ちょっと――」
 人影の一つはすらりとした、驚くほど整った容姿の少年。月影の中で目立つのはエヴェルシード人でも珍しい色合いの、濃い藍色の髪に朱金の瞳。
 そしてもう一人は、小柄ながら恐ろしいほど正確な剣を振るう、剣聖と呼ばれる青年。
「シェリダン! ユージーン候!」
「退がっていろ、ロゼウス!」
 剣を抜いて迅雷の速さでドラクルに斬りかかったシェリダンが怒鳴る。応戦のために残影を残して剣を抜き刃を受けたドラクルに、シェリダンは力負けする前に自分から離れて距離をとった。
 一方、シェリダンと同じようにドラクルへと攻撃を仕掛けようとしていたユージーン候の剣を受けとめたのは華奢な影だった。ルースは懐に隠していたらしい短剣二本で器用に彼の一撃を押さえ込んでいる。こちらは二、三撃斬り結んだ後で離れた。
「動かないでね、ヴァンピルの皆様」
「怪我をしたくないのなら、動かない方が懸命ですよ?」
 バートリ公爵エルジェーベトとイスカリオット伯爵ジュダもそれぞれ得意の得物を手にして現れる。隠れ潜んでいた茂みから立ち上がった彼らは、他の兄妹たちが妙な行動をとらないようにと見張る役目だ。
 みんなには悪いけれど、今はこうするしかない。
「これがお前の答か。ロゼウス」
 お互いにそれぞれ即座に斬りあうよりはまず事情を確認した方がいいだろうと、あっさりとシェリダンを退けたドラクル。彼はロゼウスを見て、何故か旅人を見送る人のような目をしていた。
「……ええ。兄様」
 多分ドラクルは、最初からロゼウスたちの後にシェリダンやクルスがいたことに気づいていたのだろう。もちろん最大限の努力をして彼らは気配を殺していたけれど、ヴァンピルの感覚はそれほど甘くない。そしてそれでいて、あえてドラクルはシェリダンたちがこの場に立ち会うことを黙認したのだ。
 そのことを証明するかのような彼の言葉。
「残念だよ。目の前でお前が自分でなく私を選ぶところでも見せれば、そちらの国王様は絶望してくれるかと思ったのに」
 ロゼウスが、シェリダンではなくドラクルの手をとるところを見せれば、と。
「だからせっかく、エヴェルシード王を溺れさせるために傾国の美貌を持つお前を差し出してあげたのに」
 ひとを……ロゼウスをものか何かのように扱う言葉すらあっけらかんと言い放ち、兄は美しい人形のような笑みを浮かべた。ああ、そうだ。昔からこの人はこうだった。
 こうして笑いながら、ドラクルはロゼウスを憎み続けていたのだ。
この人はどこまで知っていて、そして何を考えているのか。
「エヴェルシードを滅ぼしたいの? 兄様」
「ローゼンティアを取り戻したくはないのかい? ロゼウス」
「取り戻したいよ。帰りたいよ。あの国に、俺たちの国に。でも」
 酷く泣きたい気分になったけれど我慢した。
「俺は、兄様が何を考えているかわからない。だから――あなたには従えない」
 はっきりと言い放てば、言われた当のドラクルよりも周りの兄妹たちが息を飲んだ。
「ロゼウス? お前、何を言って……」
 アンリが顔を歪める。ロゼウスもまだ事態がよくわかっていないけれど、彼らもそうらしい。いや、むしろ彼らこそがこの事態を把握できないでいるのか。同じ兄妹であるロゼウスとドラクルが争っている。しかも、ロゼウスの方はシェリダンたちと手を組んでいる様子だ。
 その時、第二王子のアンリはふと自分に剣を向けるイスカリオット伯に視線を移した。何かを訴えるような目で彼を見る。ジュダは応えない。
(……?)
 それに違和感を覚えたけれど、追求している暇はなかった。
「やれやれ。こうなってしまっては仕方ないか。まさか土壇場でお前が裏切るなんてね、ロゼウス」
「兄様……」
「お前ならば例えどんな状況にあっても私の味方をしてくれると思ったのに、残念だよ」
 詰られるたびに、心が痛い。それが度重なる虐待による刷り込みなのだとわかった今でさえ、ロゼウスにはドラクルを憎みきることなどできない。
「ねぇ、兄様、なんで、皇帝陛下のお命を狙ったの?」
 その言葉に、ぴくりと反応したのはジャスパーだった。以前は吸血の狂気に侵されていた彼は今ではちゃんと正気に戻っているようだけれど、それでも心配をしていないわけではなかった。ジャスパーは何かを知っている。
 そしてジャスパーのような何かに確信を持っている反応でなくとも、他の兄妹たちはその言葉に酷い混乱を来たしていた。
「皇帝陛下にって―――」
「そんな、ドラクル! まさかっ!」
 ハデスと一緒にジャスパーがいたし、皇帝陛下はロゼウスたちをこの場に呼び出すあの手紙を渡したのは間違いなくドラクルだと言っていた。
 何を考えているんだ。兄様。帝国宰相ハデスと手を組んでまで、皇帝の命を狙うことに何の意味がある?
 あのヴァートレイト城の庭園で犯された時から――いや、それまで心も体も弄ぶように構い続けていた態度から急に手のひらを返して彼が自分を拒絶したあの日から、ロゼウスはドラクルを絶対的に信用などできなくなっていた。
「知らないね。それはハデス卿の方の都合だ。私はただ私の欲しいもののために、彼の協力を欲し、その見返りを返しただけ」
「ドラクル……」
 彼は、否定しなかった。
 皇帝の命を狙う。その、神に背くも等しい大罪を犯しかけながら。
「彼が何を考えているかは知らないが、私は私の目的を果たすためならば何でも使う。何だってする」
 酷い男。
 でも、それでも、今のロゼウスがあるのは。
「ドラクル、俺は――」
「王子?」
 言いかけたロゼウスを遮って、声をあげたのはロゼウスとドラクルを隔てるようにロゼウスの目の前で剣を構えていたシェリダンだった。彼はざっと周囲に視線を走らせ、その様子を確認してもう一度ドラクルへと視線を向けた。
「貴様が、第一王子ドラクル?」
「そうだよ。シェリダン=エヴェルシード陛下」
「本当に、第一王子か?」
「少なくとも国内での認識はそうだね」
 竜王子の名を持つ長兄。
 シェリダンは訝しげな、不審げな眼差しをドラクルに向けてくどいほどに念押し確認する。
「……ほう。それは初耳だな。私は貴様を知っている気がするが?」
「奇遇だね。私もあなたとは顔を合わせたことがある」
「そうだろうな」
「シェリダン?」
 シェリダンは先程より更にロゼウスを庇うような位置に立って、今にも相手を射殺さんばかりのきつい眼差しでドラクルを睨み付ける。
「知らなかったな。いつからローゼンティアは王子に爵位を兼任させるような国になった」
「え?」
「エヴェルシード王?」
「そうだろう――ローゼンティア貴族、ヴラディスラフ大公爵」
 その、名前だけは聞きなれながら、それでもドラクルとは結びつかないはずの名称に兄妹たちは一様に首を捻った。
 ロゼウスは背を滑り落ちる冷や汗の重さを感じる。
「ドラクル……?」
 彼は笑みを深くして、ロゼウスと、ロゼウスを庇う位置に立ったシェリダンを見つめた。
 そしてその恐ろしい事実は、シェリダンの口から発せられた。

「我が国がローゼンティアに侵略する際、手引きをしたのは、貴様のはずだ」

 月の光が、終始口元に笑みを刻むドラクルの立ち姿に重たく貼りついた。