荊の墓標 23

第9章 蘇芳のユダ(1)

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 黄金事変。

 帝政を造りたまいし神聖悲劇から三千年後。皇歴三〇〇三年晩春、ここに、アケロンティス帝国世界北大陸シュルト東方の王国、エヴェルシードは動乱の時期を迎える。
 欲しい物は力尽くで奪うのが道理として通る軍事国家で、それは歴史上類を見ない異例の事態であった。
 それまでのエヴェルシードでは女王が即位したとしても、いずれも短期間でその座を引き摺り下ろされるのが常だったという。男尊女卑傾向がある国家で、兄王が妹姫に玉座を奪われたというこの事変はいまだかつて、ただの一度しかありえない。
 その当時のことを知る者もすでにただお一人しかこの世になく、闇に葬られし歴史の裏側、今は昔の時の彼方に置き去りにされた真実たちは、あるいはいつか明るみに出る夢を見ることもなく、ただ久遠の眠りを貪るのみか。
 それでも我らがただ知るは、これらの事象の中には、今の時代を形づくる硝子のように脆く繊細な事実の欠片たちが息を潜めていることである。
 例えば今より四千年前のこの事変の中に、必ずその名を記されている人物がいる。
 エヴェルシード伯爵、ジュダ=キュルテン=イスカリオット。
 通称《狂気伯爵》と呼ばれる彼は、その名の通り狂気じみた振る舞いで近隣から恐れられていた。領地の民にこそ滅多に手を出す事はなかったものの、他国から買い付けた奴隷の扱いの酷さは、これまた歴史上に類を見ないものだという。
 ところでこの狂気伯爵ジュダ卿について、ある文書には興味深い記述が残されている。

 ……彼はエヴェルシード国王シェリダンにとって、たぶん、自国の貴族の称号を持つ貴族の中では、二番目くらいに信用されていた人物だったのだろう。ユージーン侯爵には敵わないけれど、主と臣下にしてはそれなりに気安い間柄であったはずだ。イスカリオット伯爵の奇行は国内外で有名だったけれど、それでも彼を重用するだけの理由が、シェリダンにはあったということなのだから。
 それにそういえば、俺が聞いた話では、イスカリオット伯爵はシェリダンの大事な懐刀の双子人形の元々の持ち主でもあるということだった。今はシェリダンの元で楽しそうに……むしろ俺にとってははた迷惑なくらい楽しそうに仕事に精を出す彼らは、元々はイスカリオット伯爵に買われてエヴェルシードにやって来た奴隷なのだと。
 シェリダンがイスカリオット伯爵と共にいる様子は、とても楽しそうなものではない。けれど彼が誰かを相手に無防備な表情を浮かべていることむしろ珍しいくらいで、だいたいの相手にはいつもそんな態度だった。無愛想でもなく素っ気ないわけでもない、けれど媚びることのない凛とした立ち姿で静に相手が自己の領域へ侵入するのを拒むかのような姿勢は、傍で見ている俺からも少々冷たく思うくらいだ。でも、だからこそ……

 実に面白いと言わざるを得ない。王妹擁立の謀反事件を起こした伯爵と、裏切られた王がそれほど気安い間柄であったなどと当時を知らない人間には誰が予想できようか。さらに後の研究者たちの興味を誘ったのは、この文書の作者自身の、シェリダン王への気安さである。
 一国の王の名前を呼び捨て他国の奴隷を小姓として使っていたなどの内情をあっさりと綴ったこの手記は、何の題も見つからずその執筆内容も定まっていないことから察するに、恐らく当時、誰かシェリダン王に親しかった人間の個人的な手記――つまりは日記なのだろうと考えられている。ただ残念なのは、それの後ろの部分が途切れた言葉を最後まで補わないまま、読めない字で書き殴られていることである。
 しかしその問題に関しては、後世の研究者がようやくその一部を解読した。
 それにはこう書かれているという。

 ……だけど、俺はそれを知っていたなら、なんとしてでも彼を止めるべきだったのだ。そう、例え殺してでも。
 それだけが俺の心残りで、当時の失態だった。殺しておけばよかった、あんな男。
 そうすれば、

 殴り書きどころか、この後は紙面自身が恐らく衝動的だろうと思われる乱雑さで破られている。この手記の作者は、一体その場所にどんな言葉を残そうとしたのだろうか。彼にとってシェリダン王とはどのような存在であったのだろうか。
 そして彼にとって、シェリダン王にとって、《狂気伯爵》ジュダ卿は、一体どのような意味を持つ人物だったのだろうか。
 これがエヴェルシードに今も伝わる家名持ち貴族の話であるならばそんな疑問もそれを追及する労力もいらない。しかし、エヴェルシード貴族、イスカリオット伯爵家はこの《黄金事変》が起きた三年後には、当主であったジュダ卿の死によりそのまま取り潰しとなっている。それもそのはずで、大貴族には極めて珍しいことにイスカリオット伯爵家は当時当主のジュダ卿を除くほとんどの人間が死に絶えていたのだ。
 その一族の滅亡理由こそが、ジュダ卿が《狂気伯爵》とあだ名されるに至った経緯でもあるという。
 卿が二十歳を数えるかどうかと言う頃に、彼は自らの一族を惨殺した。その一件で公爵から伯爵に降格されはしたのだが、ジュダ卿はそれ以来血の享楽に耽るようになったという。
 彼の人生に、その時果たして何が起こったのだろうか。
 惨殺事件を起こすまでは、ジュダ卿はどちらかと言えば温厚で理知的ながら武芸にも達者な秀才だったという。努力家の青年を変える何が、その時あったのか。
 そして、何故それから数年後、玉座にも権威にも興味のない堕落の狂気伯爵となったジュダ卿が、国王シェリダンに叛旗を翻したのだろうか。
 全ての真実は歴史と言う名の闇に埋もれ、我々は人の心が紡ぐものの中にそれを求めながら、今日もただ一つの答を探して彷徨うばかりである。

 「薔薇皇帝記」 第二章 裏切りの伯爵
 ――ルルティス・ランシェット