荊の墓標 24

第9章 蘇芳のユダ(2)

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 その視線が遠い。
「くっ……う、は、ぁあっ」
 いつものように、お互いの体を重ね合わせる。習慣化した行為。肌を触れ合わせて、相手の体温を感じながらではないと眠れない日々。
「ああっ」
 背中に立てられる爪。一瞬の灼熱感の後、痛みが走って傷口が血を滲ませる。自分では見えないそれを痛みとして感じながら、暗い愉悦に口元を歪める。
 愚かしいと笑うなら笑えと、恥も外聞もなく、むしろ世界の動きなどどうでもいいとばかりに投げ出して、ただこの、狭くはないが外に比べれば決して広くはない一室で、朝と夜を交互に繰り返す。
 いや、時々は太陽が西から昇って朝の次にまた朝が来ていたりしているのかもしれないが、とりあえずジュダはそれを知らないと言うだけ。この部屋の外のことなど、関係ない。
執務も滞りがちになった。この時のために雇い入れた優秀な執事たちが、眉を潜めながら仕事をしている。そのための給料に払う金は増えた。稼がない間に金は湯水のように浪費されていく。
 特に変わったことを始めたわけではない。ただ保つべき日常がゆっくりと綻び始めているだけ。その兆しがゆっくりと現れ始めている。
 世界など、日常など、この平穏など、人生など。
 そんなものは壊れるなら、好きなだけ壊れるがいい。そして残ったものが灰色の瓦礫の山であるなら、私は裸足でそれに登り、喜んで笑い続けよう。
「んっ……はぁ……やめ……っ!」
 艶めいた喘ぎを聞き慣れることはあっても、この熱の昂りは何度だっておさまることなく煽られ続ける。仰け反る白い喉首に、それこそ吸血鬼のように噛み付きたい気分になる。
「あなたを殺して」
 ぴく、と彼の手が反応した。物騒な言葉に身を守る刃を探すかのように、敷布の上を利き腕がしばらく彷徨う。
 無駄な行為としか言いようのないそれを何の気なしに見つめながら、ジュダは言葉を続けた。
「あなたを殺して、その死体をばらばらにして、白い首筋に喰らいついてその血を吸血鬼のように干からびるまで飲み干して、全て食べてしまったら」
 そうして狂ってしまったら。
「とても幸せになれそうですね」
 ざく、と意図的な行動によって、背中の傷が抉られた。さすがに痛い。顔をしかめて、その爪でただでさえ引っかき傷だらけだった背中を抉った目の前の少年を睨む。
「馬鹿じゃないのか、お前」
「馬鹿? そんなもの、今更でしょう」
「ああ、今更だな。そして改善されないのだから、これからだって何度でも言い続けるぞ」
「それは恐ろしい」
 背中を血が伝う感触がする。シェリダンはジュダの背から離した指を自らの口元に引き寄せ、爪についた血を舐めた。それは酷く淫靡な仕草だとこの目に映り、赤い舌が紅い血を舐めとる光景に視線を奪われる。
「……どうした、ジュダ」
 自らの指先を舌で清めると、彼は挑発的に笑った。
「そんな真似をするとますますヴァンピルのようですね」
「ああ。そうだな……いや、だが、そうだ。先ほどのお前の言葉、間違っているぞ」
「どの辺りが?」
「喉に喰らいつく、という辺りだ。私が知る限りでは、ロゼウスはそんな吸血方法は選ばなかった」
「ほう」
 ここに来て、目の前の相手以外の男の名を出すとはいい度胸だ。けれど彼は言葉を続ける。
「そういえばお前のおかげで、ロゼウスに血を提供しなくていい今は貧血もなくてすこぶる体調良好だ。礼を言っておこう、ジュダ」
 心に思ってもいない皮肉を口にする彼に、ジュダは囁きかけた。
「それはどういたしまして。……ねぇ、シェリダン様。知っておりますか? ヴァンピルが普段はその喉に……喉にではなくてもいいから、相手の肌に自らの牙を突き立てない理由」
「理由?」
「ええ。そうですよ。本来ならヴァンピルは獲物の喉笛に喰らいついて血を啜る。それをせずにロゼウス王子があなたに対してしたように傷口の血を舐めとるという行為には、意味があるのです」
「その意味とは?」
「どうして私がそこまで教えて差し上げねばならないのです?」
 にっこりと笑みを返してやると、好奇心に乗せられていた少年は悔しそうな顔をした。
 下唇を噛んで、視線を僅かに逸らす。瞳を細めるその様子がさらに仇っぽくて、ぞくりと下肢に震えが走った。
 ジュダは彼の手を強く掴み、痛みに僅かに歪んだその顔をじっくりと見る。
「そんな相手を誘うような、挑発的な表情、どこで学んできたのですか?」
「どこも何も、お前は私のことを私と同じくらいよく知っているはずだろう?」
 この瞬間の顔つきは自覚がなかったのか、一瞬不思議そうな表情をした後、自嘲の笑みを浮かべてシェリダンはそう言った。そう、確かにジュダは彼のことを執拗なまでに臣下に調べさせ、しかも目の前で口にしたそれを彼自身に肯定してもらったこともある。
「一国の玉座とは、売春で買えるものですか。安いですね、シェリダン様。その安い玉座にかつてついていらしたあなたも、さぞやお安いことでしょう」
「……」
 ジュダの言葉に何も反応を見せないその彼の様子に少々つまらないものを感じて、中断していた愛撫を再開する。
「ヒァ……っ!」
 中途半端に反応していたものの根元をきつく握れば、ひっくり返った悲鳴があがった。可愛らしいそれをついつい聞きたくて、また意地悪をする。
「あっ……くっ、やめろ、は、離せ」
「あなたが私の言葉に、全て素直に返答してくださるのなら」
「……っ」
 食い破りそうなほどにきつく、悔しげな表情で唇を噛み締めたシェリダンが吐息のように囁いた。その言葉を聞いて、ジュダはようやく彼のものから手を離す。
 乱れた寝台の上、横たわった高貴な人は、ジュダの問いかけに嫌そうに答える。内壁をかき回す動きの合い間合い間に、あられもない問いを重ねる。
「――で、その公爵とは一晩に何回ほどしたんです? 薬は? 玩具は? 衣装はどのようなものを? 相手の反応は?」
 狂気じみた細かさで相手の言動を逐一知りたがり、その時の彼自身の反応を知りたがり。
 ジュダが問いを重ねるたびにシェリダンの表情が歪むのを、とても愉快な気持ちで聞いた。
「本当に、大層なご苦労をされたようで」
 この一言に、シェリダンの表情が一瞬さっと強張り、ついで険を含んだ強い眼差しに変わる。
「ああ。苦労ならしたさ。幾らでもな。父上の目を盗んではそれなりの地位と厄介な趣味を持った貴族に渡りをつけ、望まれるままに何でも差し出した。足を開けと言われるならば、開いた。跪けと言われるならば、跪いた。這い蹲って男の醜いものをしゃぶり、この身を好きにさせたそうまでして」
 話している内に感情が昂ってきたのか、彼の顔が悲痛に歪む。
 男尊女卑国家とはいえ、彼の母は初出の第二王妃。対抗馬である妹姫は貴族の出である正妃の子ども。
 シェリダンが玉座を手に入れる事は、楽な道のりではなかった。他でもないその道に協力したジュダだからこそわかる。
 裏切り者だからこそ、誰よりもその心情が良くわかる。ジュダはわかっていて、彼がもっとも傷つくように行動したのだから。
 朱金の瞳に、暗い憎悪が宿る。その刃のように鋭い切っ先は、間違いなくジュダに向けられていた。
「そうまでして手に入れた玉座だったのに」
「私があなたから奪った。……そう」
 憎めばいい。呪って恨めばいい。この私を。
 そうでもしなければあなたは永遠に私を見てくれない。そのくらいならば、恨まれた方がマシだ。
「私が憎いですか、シェリダン様」
「ああ、憎いさ。憎くて、憎くて、憎しみで息が止まりそうだ」
 望んでいた言葉を手にして、シェリダンとは逆にジュダは恍惚とする。
 私はずっとあなたが欲しかったのだから。ロゼウスに向ける執着と独占欲の何分の一でもいい。その感情が欲しかった。私だけを見てくれる瞬間が確かに欲しかった。
 以前はそれこそジュダに興味などなくても、他の誰にも執着などしない王子様だったのに、シェリダンはロゼウスが来てから変わってしまった。あのヴァンピルのためだけの王様になってしまった。
 何が赦せないと言って、それが一番赦せない。私の物にならないくせに、他の誰かのものとなるなんて。
 だから攫ったのだ。
目を離した隙に相手が変わってしまうというのなら、ずっと目を離さなければいい。捕らえて手に入れて縛り付けておけば――。
 そうすれば、大事な相手は自分のものになるだろうか。
 ……いいや、少なくとも私は、必ずそうさせて見せる。
「シェリダン様」
 ぽつりと落ちた声は雨のような重さを持っていた。窓の外は薄暗く、欠けた月の光が今は夜なのだと教えてくれている。
 この夜が明けなければいい。今この瞬間に時間など止まってしまえば、そうすれば……。
「お慕いしております」
 ジュダがそう告げたその刹那。
 視界の隅に、鈍色の光が閃いた。

 ◆◆◆◆◆

 国王になったことに後悔などない。ローゼンティアを侵略し、ロゼウスを傷つけ、王族を殺したことも。カミラを犯したときでさえ、シェリダンは後悔などしなかった。その資格もない。全ての物事が喜びに繋がるわけではないが、少なくともそうすることを選び、望んだのは自分だからだ。
 だから何を感じても、何を考えてもシェリダンは自分が今までしてきたことを否定などしない。自分はエヴェルシードにとって良い王ではなかった。だがシェリダンが自らを否定すれば、そのために命を懸けた者たちはどうなる。
 一つのことを貫くならば、その信念には最後まで責任を持つことだ。誰だって気まぐれで殺されては溜まらない。自らの命を懸けるならば、それはどうせなら最後まで自分の意見を曲げない相手がいい。
 世界中の誰が否定しても、誰が批難しても、それが善や最上の選択ではなくとも、それでも望んだのだと言い続けられるような。
 なのにお前は私の胸を抉る。
「一国の玉座とは、売春で買えるものですか。安いですね、シェリダン様。その安い玉座にかつてついていらしたあなたも、さぞやお安いことでしょう」
「……」
 シェリダンを傷つけることで、ジュダは自らをも傷つけていることに気づいていない。相手も自分も貶めながら落ちていく。
 滑稽なことだ。
 私も、そしてお前も。
「ヒァ……っ!」
 陵辱の手は止まらない。以前シェリダンがロゼウスを監禁して加えたような虐待にこそ走らないものの、執拗な愛撫はむしろ拷問と同じだった。長い指がそれを握りこむと、せき止められる苦痛に苦鳴が思わず漏れる。
「あっ……くっ、やめろ、は、離せ」
「あなたが私の言葉に、全て素直に返答してくださるのなら」
「……っ」
 手元の敷布を握り締め、食い破りそうなほどにきつく唇を噛み締める。微かに鉄錆の味がした。
「……わかった、話す」
 耳元で囁くと、ジュダが口元に薄っすらと笑みをはく。ようやく彼は手を離し、それにシェリダンが息をつく暇もなく質問を浴びせかけてきた。
「――で、その公爵とは一晩に何回ほどしたんです? 薬は? 玩具は? 衣装はどのようなものを? 相手の反応は?」
 あの頃の自分を思い出すのは好きではない。母親が庶出の王子に、できることなど何もなかった。
 差し出せるのは、いつだってこの身一つだけ。わかっていて、この男は聞くのだ。国王になってからはこれ幸いと王都から遠ざけた者たちとのやりとりなど、シェリダンが口にしたくもないのを知っていて。
 露骨な問いを重ねられるたびに、思わず眉根を寄せてしまう。
「本当に、大層なご苦労をされたようで」
 わざとらしく漏らされた言葉に、何かが堰を切りそうだった。言葉が勝手に溢れてくる。胃の中にどろどろとした黒いものが溢れかえっているようで、苦しい。
「ああ。苦労ならしたさ。幾らでもな。父上の目を盗んではそれなりの地位と厄介な趣味を持った貴族に渡りをつけ、望まれるままに何でも差し出した。足を開けと言われるならば、開いた。跪けと言われるならば、跪いた。這い蹲って男の醜いものをしゃぶり、この身を好きにさせた。そうまでして」
 虚空に手を伸ばしかけた。鋭く伸びた腕がそれを止める。求めるものはどうせそんなことをしても今は手に入らない。触れることもできない。
「そうまでして手に入れた玉座だったのに」
「私があなたから奪った。……そう」
 捕らえた腕を離さずにそのまま顔を近づけてジュダがこの身に口づけた。先ほど食い破った唇から血が滲み、その口づけに錆びた暗い情欲の色味を添える。
 シェリダンは目を閉じた。貪るような深い口づけに、男の本気を知る。
 裏切り者の接吻は、死の合図。
「私が憎いですか、シェリダン様」
 肌に触れるのはさらさらとしたさわり心地良い長い髪。切れ長の橙色の瞳。
 ジュダ=キュルテン=イスカリオット。狂気伯爵と呼ばれるイスカリオット伯爵当主その人にして、シェリダンの協力者であった相手。シェリダン自身も覚えていない場所で、実に因縁浅からぬ相手。
 いつの間にか、腹心であるクルスとほぼ近い位置にジュダを置いていた。
 皮肉な笑みに全てを隠しながら、偽悪ぶって乱行を繰り返しながらそれでも心の奥底にある絶望と後悔が透けて見えるジュダが、自分は嫌いではなかった。
嫌いでは、なかったのに。
「ああ、憎いさ。憎くて、憎くて、憎しみで息が止まりそうだ」
 これは本当だ。今はこの男が憎い。
 閉じていた瞳を開ける。その一瞬の瞼の裏の闇を白い髪が過ぎり、紅い眼差しが切なげに見つめてくる。
 彼の容姿の印象はこれ以上なく儚いのに、実際に口を開けばガサツの一言に尽きる。あれほど女装が似合う顔を持ちながら、行動は男らしい以外の何者でもない。しおらしい態度など一瞬で、今頃向こうは向こうで暴れまくっているのかもしれない。
 ああ、早く彼を取り戻さないと。
 泥にまみれ汚濁にまみれ愛する妹を蹴り落してまで手に入れた玉座でようやく、シェリダンが本当に手に入れたものはあれだけなのだから。
 シェリダンが今欲しいのはロゼウス、ただ一人だけなのだから。
 ジュダには応えてやれない。
「シェリダン様」
 嫌いではなかったのに、シェリダンから全てを奪ったジュダはもう憎いだけだ。許す事はできない。けれどジュダの気持ちを思えば、ただ罵り責め立てたところで何も意味がないこともわかっている。どちらが悪かったのだろうか。自分が間違えたとでも言うのか?
 俯いたジュダの視線が顔ではなく、胸の辺りにぼんやりと落ちていることだけを確認してシェリダンは右の耳元に手を伸ばす。いつもと変わらないピアスの感触を確認する。
 窓の外は薄暗く、欠けた月の光が今は夜なのだと教えてくれている。一度満ちた月は後は欠けるばかりで、やがては全てが消え去った新月の暗闇になる。そこからまた新たに生まれ来るものなど、満月を過ぎて欠けるばかりのジュダには関係ない。シェリダンが関係させない。
「お慕いしております」
 けれどジュダが本当に欲しいものはシェリダンではなく、シェリダンが望んでいるのもジュダではない。
 だからこんなやりとりは無意味だ。ジュダが何度空言の愛を囁こうともシェリダンは応える事はない。こうしている間にも刻一刻と時間は過ぎていく。いつまでもこの男の夢のままごとに付き合ってはいられないのだ。
 だからシェリダンは覚悟を決めた。
 王族はそう簡単に自らの身辺から武器を手放さない。ここに囚われる時に腰にはいていた剣も懐に忍ばせていた小刀も取り上げられたが、単に相手を殺傷するだけの威力を有した道具と言うのなら、何もわかりやすい刃物だけとは限らない。
 むしろ隠してこその暗器だ。自分の身を守るためならば、武器は四六時中手放してはいけない。そう考えるならば切り札はそうとは見えない形でいつも身につけていられるものがいい。
 片耳のラピスラズリを外し、金具を指先でほんの少しだけ弄る。ジュダの視線はまだ作業をするこちらには向いていない。宝石の隙間から毒が染み出した。その毒の種類は、王族ならば必ず耐性をつけさせるもので、シェリダンには効かない。
 針の銀が完全に毒に曇る。
 シェリダンは、その針を無防備なジュダの肩口に向かって振り下ろした。