荊の墓標 25

第10章 白骨に祈る夜(1)

139

 ひたひたと上がってきた水位が壁に寄りかかった体を飲み込んでいく。足首に濡れた感触。それは徐々に徐々に脛を膝を太腿を舐めていき、ついには腰に達する。
「ん……」
「起きたか」
 罅割れたような声が耳朶を震わせる。覚えのある地獄に、ハデスは目を覚ました。
「ん……なんで、タルタロスに来てるの?」
「我が連れて来た。主、お前には休息が必要だったようだからな」
 地上では醜悪なモンスターの姿をとる冥府の魔物も、ここ、地下世界タルタロスでは自由に力を振るい、その身を変えることができる。先日ハデスが呼び出した魔物は、背の高い女の姿をして、岩に背を預けて座り込んだ彼を見下ろしていた。
 眠りにつく前の記憶で、てっきりどこかの部屋の壁に寄りかかっているものだと思ったハデスの予測は間違っていた。目を開けたら、それは戸外だった。
 いつも薄紫色の空が広がる、地下の世界、つまりは死者の世界タルタロス。この地には紫色に染め上げられた永遠の夜が広がっている。
 ハデスは泉の中にいた。温泉と言うほどではないけれど、温くて気持ちのよい薄緑色の温度の水。というかお湯。に、腰までを浸して上半身だけ起き上がって泉を囲む大岩に背をもたせかけられていたのだ。
 触手相手とはいえまあ事後は事後だから裸であることに異論はないのだが、だからといって近くに服が見当たらないのは困る。いつまでここに浸かっていればいいんだ自分は。というか、ふやけるだろう。温泉の中なんかで眠ったら。
「どうりでシェリダンに術をかけるとき、やけに効き目がいいと思ったら……」
 あれはタルタロスの魔力に助けられてのものだったのだと、今更になって気づく。冥府の王の称号の通り、ハデスの力が使えるのは冥府の影響が届く範囲だけ。普段はこうして魔物との契約や何かで誤魔化し誤魔化し魔術を使っているが、さすがにここから離れて魔術を使うのも限界だった。
「体の方は回復したか? 主よ」
「って、どうせこっち連れてくるなら、わざわざ上でヤらなくても良かったじゃんか……」
 だからといって、これとこれは別だ。冥府にいれば自然と力が増すのだから、わざわざこの魔物が地上で動きやすいように餌である人間を食わせてやる必要はない上に、それが足りないからと言って、ハデスが身を捧げる必要もない。
「何を言う。人間の味は人間の味でまた別腹だ。我は主の捧げた生贄の数が足りないからと、その正当なる報酬で行為を要求したのだ。ちょうど、エレボスの監視者も気を抜いていたところだしな。上手い具合に戻ってこれた」
「あ、そ」
「別に良いだろう。向こうは特に急ぐ用事でもなし」
「十分に急ぐ用事だよ。あと半年しかないんだ!」
 冥府の魔物のあまりにもおざなりな態度に、ハデスは腹が立った。こんな温泉につかってのんびりしてる場合じゃない。僕は、早くあいつを殺さないと……。
「薔薇の皇帝ならば殺せないぞ?」
「何故!」
 契約と言う術で繋がっている相手、その上こんな近くにいる場合ではこちらの思考なんかこの魔物には筒抜けだ。先ほどの発言に加えまたしてもあっさり言われてしまったそれに、なおさら怒りが込み上げる。
「何故も何も、あの王子の力はもとより主を上回っている。ヴァンピル相手に、人間が勝てるわけないだろう?」
「~~~~、僕は、黒の末裔だ」
「そうだな。だが人間であることには変わりない。地上であの狼坊やにも言われていただろう」
 確かに、生贄を要求した時にロゼウスに飲ませる血を手に入れるために人間を残しておけという話になって、その時ヴィルヘルムに言われたのだった。お前も人間だったな、と。
 しかし何故それを。
「どうして、お前がそんなこと知ってるんだ! いつから覗き見してた!?」
「主、我は主のことならなんでも知っている」
「ふざけんなこのストーカー!」
 怒鳴ったらやたらと疲れてしまった。
 ずるずると背後の大岩に身を預け、温い湯の中に沈みこむ。
 パシャン、と音を立てて女型の魔物はハデスの上に覆いかぶさるような形で薄緑の湯にその長い手足を浸す。
 ちなみに姿は女型とは言っても、実際にその体が女性であるかというとそうでもない。むしろ、顔がこれでも体は男性型という場合も多い。顔の美しさは、それで餌である人間をおびき寄せるための疑似餌だという。古今東西、綺麗なお姉ちゃんに弱いのは男の性だ。
「お前は何がしたいんだよ……」
 いきなり冥府に連れてこられて、こんな場所で、こんな奴とくだらないネタで喧嘩して。
「はぁ……」
「疲れているな。主」
「誰のせいだと思ってんの?」
「どうせならそのまま休まないか? あと半年ほど」
 その言葉に、ハデスはぴくりと肩を揺らした。
「何が言いたい?」
「あの王子に手を出すのは、もうやめろ」
「どうして!」
 言葉は問いかけではなく、糾弾だった。ハデスは魔物の襟首を掴む。邪魔はさせない。誰にも、こいつにも。
「言っただろう。主、お前の力では、あの男には勝てない」
「そんなこと、」
「やってみなければわからないなどと言うなよ、大預言者」
「っ!」
 唇を噛んだ。切れた。ピリリと痛みが走り、錆びた鉄の味がした。
「預言者よ……お前は知っているのだろう。視たのだろう。未来を。だったらわかるはずだ。薔薇皇帝の即位は止められない。未来は変わらない。むしろあの王子に関われば関わるほど、お前の人生は地獄へと転落し続ける」
「そんなの、今に始まったことじゃない!」
 転落? 地獄? 今更だ。何を気にすることがある。
 最初からこの命に意味も価値もなかったんだ。
 最初から僕は地獄に堕ちるために生まれてきたんだ。
 何もしなくたって、どうせ地獄に堕ちるんだ。
 だったら最期まで、足掻いて足掻いて足掻いて生きる。このままただ緩やかに死を待つだけなんてことは、絶対にしない!
「最初から僕は姉さんのために生まれた。姉さんを満足させるためだけに。禁じられた近親相姦を犯して、いつ実の姉を孕ませるのかと怯えながら、他方では皇帝の愛妾だと蔑まれ罵られ……っ、帝国宰相になってもそれは変わらなかった。姉さんが生きている限り、僕の人生は地獄だ!」
「ハデス……」

「だから僕は、姉さんを殺す」

 あの人がいるからいけない。あの人さえいなければ、僕は幸せになれるのに。
 ――でも僕はきっと、姉さんから離れては生きていけない。
 腕を突っ張って、覆いかぶさる魔物を押しのける。特に抗うこともなく、魔物はすぐに僕の上から退いた。
「ロゼウスが次の皇帝になるというのなら、姉さんはもうすぐ死ぬということだろう」
 薔薇の王子、ロゼウス。
 ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
 彼こそが次の皇帝。第三十三代皇帝。
 薔薇の皇帝。
 ハデスはその運命を知っている。魔術に優れた黒の末裔は様々な能力を持っている。その中の一つ、《予言》と呼ばれる予知能力によってハデスは未来を知った。ロゼウスが皇帝になる未来を。
 次の皇帝がすでに決まっているというのなら、今の皇帝はもうすぐ退位するということだ。ただしそれは普通の国の、普通の王の話。彼女は《皇帝》である。
 皇帝になった瞬間から年齢を止める不老不死の存在。彼女を殺せる者などいない。
 皇帝を殺せるのは、皇帝だけだ。つまり次の皇帝が、力の衰え始めた前の皇帝を殺すのだ。順番から行くならハデスの姉、デメテルはロゼウスに殺される。
 そんなことは許さない。
「あの女を殺すのは僕だ。僕が姉さんを殺して皇帝になるんだ」
 ロゼウスなどに邪魔などさせるものか。
 ハデスはぬるま湯の泉から立ち上がる。裸身に冥府の風が吹き付けた。露になった右腕に、漆黒の紋様が浮かび上がっている。これは皇帝を選ぶ選定者の証。
 まだ変わらずにこの腕にあるその紋様を見て、決意をさらに硬くする。
 ハデスのその様子を見ていた魔物が、ぽつりと呟いた音が耳に入り込んできた。
「愚かだな。人間と言う生き物は……変わらないとわかっている運命に、結果の見えている戦いに、それでも身を投じるのだから。まるで遠回しな自殺志願者だ」
 だいたいなんであんな短い寿命で悲惨な人生ばかり生きる人間が多いくせに、親は不幸になるとわかっていて子供を生むんだ? 理解できないと言った風情の魔物に、ハデスは薄く笑いかけた。
「そうだよ。人間なんてみんなみんな、根暗で悲観主義の自殺志願者ばっかりだ」

 そして、人生など、白骨にばかり祈る永遠の夜。