第12章 宿命の子らに捧ぐ挽歌(1)
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花は何度でも繰り返し咲くけれど、前と同じ花などない。それはあまりにも明らかな事実だけれど、人は言われなければそれを重要視しない。
足元の花などどんなに美しくても、所詮はそれだけの存在。
人の世の思惑など知りもせず、我関せずと花は美しくそこに咲く。
それこそがこの世で、もっとも残酷な世界の理であるのかもしれない。
――たとえあなたが死んだところで、私がともに死ぬわけではない。
あなたがいなくなったとしても、この大地にまた繰り返し、別の花々が咲き誇るように。
かつて私はそう思っていた。
「でも、シェスラート……」
今はもういない人の名を呼ぶ。
朽ちた廃教会で、あなたの亡骸すら今はないこの場所で、その血の痕の上に立って私は地獄に最も近い天を仰ぐ。
――あなたと共に生き、あなたの命に、未来をあげたい。
願いは叶わなかった。叶えられなかった。
何一つあなたに与える事ができなかった。そうして私はあなたの救いになれず、その心を寂しさと憎しみと悲しみでいっぱいにしたまま死なせてしまった。その未来がわかっていたのに止められなかった。
「愛しているの」
愛していた。
「愛しているの、今も」
愛していた。誰よりも。
本当に好きだった。守りたかった。守れなかった。
自分が不甲斐なく情けなく悔しい。もう一度機会が与えられるのなら、今度こそこの存在の全てを懸けて、あの人に、何かたった一つ、一つでいいから暖かいものをあげたい。
「――神よ、この生涯をあなたに捧げた巫女の言葉です。どうか、聞き届けたまえ……」
未来などいらない。来世など、転生など、そんな先の可能性はいらない。
私の花はここに眠る。別の花を繰り返し繰り返し咲かせる意味などない。そんな永遠はいらない。
だからせめてこの一瞬に、まだ機会をください。この命で、あの人を包む機会を。
どうか、どうか。
もしもまだ機会が与えられるのだとしたら、
「シェスラート」
あなたを救うのは、どうかこの私であるようにと。
神に願いは通じ、そうして私は今も、ここにいる。
◆◆◆◆◆
酷く懐かしい夢を見た。
硝子の割れた廃教会。虹色が欠けた窓に、歪な陽光が差し込んでいる。足元は瓦礫が転がり、一歩歩くたびに埃が舞って、それがきらきらと光を弾いていた。
長椅子の布が破れ、薄汚れた灰色の綿が露出している。祭壇の像は無惨に欠けて首がない。天井の高いその部屋にでは、沈黙が針のように痛かった。すぐ近くで動いた人の気配も息遣いも体温を伝える空気の流れも何もかも感じていたけれど、シェスラートはその場を動かなかった。あの灼熱が脇腹を貫くまで。
――俺は、あんたのものだって、言った……のに……。
ああ。お前は俺を裏切った。
――信じられない。
俺を拒絶した。
――あんたも、ヴァルターと……同じだ。俺は…ずっと、側に……いるのに……。
シェスラートは本当は捧げるだけで良かったのだ。どんなに想っても報われないのなら、無理強いはしない。そんな風に相手を手に入れても仕方がないと、もう十分知っていたから。
深い傷口からどくどくと命の源が流れ出ていく。このままでは自分は死んでしまう。わかっていたのに、シェスラートは動けなかった。目の前にロゼッテと言う、あんなに美味しそうな“餌”があったのに。
しかしどうやってもシェスラートがシェスラートである限り、ロゼッテを殺すなんて考えられない。もしもあの時、彼が自分の命を優先して生き延びるためにロゼッテを殺していたのなら、それはもうシェスラートではない。
好きだった。
大好きだった。
本当に愛してた。だから拒絶されるのを覚悟で気持ちを告げたし、それを拒んだロゼッテを恨むこともなかった。ただ静かに諦めてシェスラートはシェスラートとしての幸せを掴んで、それで終わりにしようと考えていた。けれどロゼッテは。
――お前が皇帝になんかなったら、俺は永遠にお前を手に入れられない。サライにも誰にも渡したくない。シェスラート……ッ!
嘘つき。
この、大嘘つき。
お前の感情なんか理解できない。お前が俺のことを少しでも想っていたなんて信じない。
だってそうだとしたら、何故殺す?
お前は俺が憎いから、だから殺したんだろう、ロゼッテ。愛する者を殺したいと思う奴がいるもんか。心から愛した存在ならば当然何百年でも何千年でも幾億の夜を、生かし続けたいと思うはずだ。シェスラートにとってロゼッテの発言は意味不明で理解不能だった。
――……さ、…い……
――シェスラート。
――赦さない。
そう、だからシェスラートは、ロゼッテを赦さない。シェスラートを裏切り、殺してもかまわないほどにシェスラートを憎んだのはロゼッテが先なのだから、だからシェスラートはロゼッテを憎む。
――愛してい《た》よ。今は憎むべきお前。
昔は確かに愛していたし、その想いが変わることなどないと信じていた。シェスラートにとって、ロゼッテは一つの世界だった。決して手に入らないけれど眺めているだけで幸せになれる光の庭のような、そんな場所。
好きだったのに、ロゼッテはシェスラートを裏切った。せめてただ放っておいてくれればよかったのに、シェスラートから何もかもを奪わずにはおれないほど。
そんなにも俺が憎かったのか? ロゼッテ。
――お前が、この世界を導け――シェスラート=エヴェルシード。そしてロゼッテ=ローゼンティアはここで逝く。
その命に呪いをかけよう。
――憎んでいるよ、シェスラート=エヴェルシード。
お前は俺を裏切り、俺はお前を憎んだ、しの証拠に俺はお前に罠をかけよう。
――俺はお前を憎むよ、だから……。
懺悔など、告解など許しはしない。優しい振りをしながら内心は酷く傲慢なお前の話を聞いてくれる存在などもういない。だから俺だって、憎いお前の話などもう聞かない。後はお前に俺の望みを押し付けるだけ。お前の意志など関係ない。
もう、心など、いらない。
だってお前が一番最初に、俺の心など「いらない」と切り捨てたのだから。
――そうだよ。それだけの年月を、お前は世界のために生きるんだ。《帝国》のためにその命を捧げろ。俺を憎みながら。
愛しながら。
シェスラートはロゼッテのものだと言った。ロゼッテはそう誓った。ならば、名前を交換したシェスラートはロゼッテ=ローゼンティアとして、シェスラート=エヴェルシード。お前の全ての感情を連れて行く。
――何故だ……シェスラート……。
――だって、俺はお前を……。
赦さない。
俺は絶対に許さないし、赦さない。
――神の一番の教えは、赦し、受け入れることよ。
苦笑する妻の顔を思い返すが、どうにも心が理解を拒む。赦す? 赦せ? 俺が、彼を?
ふざけるな。どうしてあんな男を赦す必要がある。あいつは俺から全てを奪っていった。
だからシェスラートは赦さない。決して赦さないから、ロゼッテを残していった。ロゼッテの望みどおりになどさせないために。
死者は想いを語らない。死に逝くことによって、シェスラートはロゼッテへの憎しみを永遠にした。そしてロゼッテが、シェスラートから赦される術も永遠になくなった。
赦さない。だから憎む。憎ませろ、俺に。
そしてお前は殺されてしまえばいい。お前の存在になどもはやいっぺんの愛情も感じない。
むしろ俺を拒絶し殺したお前が今も転生してのうのうと生きているのが赦せない。それならお前は、またもう一度死んでみればいいんだ。いや、今度は……今度こそ。
この俺がお前を殺してやるから。
そこで夢から覚めた。
「ん……」
「お目覚めですか? 兄様……いいえ。始皇帝、シェスラート……」
「んー……」
シェスラートが目を開けた瞬間飛び込んできた景色は遥か昔の景色でもなく、ここ最近見慣れた森の風景だった。強行軍と野宿を繰り返し、確実に距離を埋めていく。
シェスラートが名前を大々的に出してロゼッテを批難するだろう事はこの程度が最大だ。命を奪われたにしては、ささやかな意趣返しだろう。目の前の少年について自らが思い出すより先に、この身体の正当な持ち主が答えを出してきた。
「……おはよう、ジャスパー」
「おはようございます」
甲斐甲斐しく世話をやかれ、身支度を整えられる。全て一人の侍従がそれをやっている姿は、はっきり言って間違っても高貴な身分のものではない。けれどそんなこと、どうでもよかった。
そうだ。全てはどうでもよい。だって俺は死んで――。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「いいや。なんでもない」
訝るジャスパーへと首を振りながら、シェスラートはもう一度自らに問いかけた。
本当にどうでもいいはずなのに、一度その生が終わった今もなお、どうしてあの男のことを忘れられないのだろう。