荊の墓標 30

第12章 宿命の子らに捧ぐ挽歌(2)

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 黒い城。黒曜石を削りだして作られたような城。ぴかぴかに磨かれた床が鏡のように彼の姿を映す。ローゼンティアのヴァンピルは肌も髪も白いからこそ、この黒い床や城の中で一際その存在が映えるのだ。
 王城へこうして足を踏み入れるのは初めてではない。
「どうした? 《――》」
 その人が自分の名を呼ぶ。血塗られた手で奪い取った玉座に座し、優雅に微笑を浮かべながら。
 彼の前で立ち止まる。膝を折って頭を下げ、忠誠を尽くす姿勢となる。
「ドラクル=ヴラディスラフ大公」
 国王の椅子に座っている人をわざと本来の立場たるその名で呼ぶと、きつい視線が俯く自分のうなじに返ってきた。咎めるようなその眼差しは、けれど他にその言葉を聞く人間がこの場にはいないことで緩和されている。
「一体何を考えている? 《――》。他の者がいないからまだしも、誰かに聞かれたらどうするつもりだ?」
「その時はその時かと。ドラクル=ヴラディスラフ大公閣下。私にとって、あなたはいつもそうでした」
 この言葉に嘘はない。私はいつだって、嘘などつかないよ。つきたくないからこそ誤魔化しを重ね、嘘をついたわけではないから、真実を明かす機会さえ失ったけれど。
 それでも、私の《本当》は確かにここにあった。
 兄上。ドラクル兄さん、私にとってはいつだって、あなたこそが大公爵位を継ぐべき存在でした。
「私がヴラディスラフ大公? 馬鹿を言うな。その称号は、爵位は、もともとはお前が継ぐはずだったものだろう? お前にとって、私がそうなることは目障りだったはずなのではないか?」
 自分たちは同じ女の胎から生れた兄弟だ。それが我が父たちの愚かな策略と不和による敵対関係に巻き込まれたために、こんな歪な関係となった。
 兄であるドラクルはその出生を偽られ、ローゼンティア王家の第一王子として育てられ、彼はヴラディスラフ大公爵の嫡子として扱われた。けれど、彼は自らがもともと不要な存在であることを知っていた。父はよく王城の様子を眺めながら言ったものだ。あの王子様が、お前の兄なんだよ、と。
 その言葉の本当の重みを知ったのは、情けなくもつい最近の話。
 ドラクルが、この国の王ブラムスも、自らの両親である大公とその侍女も殺して革命を起こしてからだった。
 途方もなく愚かだった我らの両親の起こした悲劇の結末。きっと彼らは殺されたところで文句など言える立ち場にない。けれどいくら殺したところで、今更現実が覆らないのも事実。
 事実は、受け止めるべきだとは言うけれど。
「いいえ。私は本当に、心の底からドラクル様……兄上、あなたがヴラディスラフ大公となることを望んでいました」
 頭脳も武芸も平均そこそこ、多少情勢を読み取る能力に長けているとはいえ、自分には貴族として何事かを成し遂げるほどの実力などもとよりない。そのぐらいなら、最初から優秀な兄が爵位を継いでくれればいいと、どれほど願っただろうか。
 けれど、そのような消極的ですべて成り行き任せのこの態度が、ドラクルを救うこともできずにただ彼を 蛮行へと走らせる一因となったのも事実だろう。
「……私がヴラディスラフ大公になれば、お前に与えられる爵位はない。ヴラディスラフとしてはじめから生まれてきたというのに、それでは、お前は一体何と名乗るつもりだったんだ?」
 あなたは目を細め、静かな口調で、弟も思えないだろうほど滅多に会わなかった私を玉座から見下ろしながら訪ねた。
 その答に私は口元を緩め、そうして告げた。彼の兄妹たちには何度もそう言って誤魔化してきた、その名前を。
「日和見、と」
 情勢の有利な方を見計らってそちらに味方する。優柔不断で利己的な。
 多分私が名乗るのに、これ以上相応しい名前もないのだろう。
「日和見……? 何だ? 審判者にでもなるつもりだったのか? それともただ単純に、形勢の良いほうへつこうというだけ?」
「いいえ。どちらかといえば、まだその答がでていない胡乱なわたくしという存在を一言で表現してみたまでです」
 私は結局いつまで経っても、ドラクルに味方することも、彼と完全に敵対することもできなかった。本気で彼を支援するつもりならば革命の名乗りを挙げた時に積極的に馳せ参じるべきで、彼と敵対してこの国を守ろうと考えるなら、これまで共にいたアンリ王子たちに、もっとドラクルの弱点などを教えてくるべきだった。
 結局のところそのどちらにも突出することができずに、私は自分自身ですら自身の基本精神が曖昧なままここにいる。
「《――》、面白いよ、お前は」
「ありがとうございます、けれど」
 私の言葉に返答につまり、何と答えていいのかも上手く思いつかなかったのだろう疲れたようにそう言ったドラクルに私は笑いかけた。
「もう、《日和見》はやめようかと思いまして」
「《――》」
「ええ。そうです。《日和見》でなくなるのであれば、私は確かにそう呼ばれるべきでしょう。それでも、まだなんだか納得できないんです。ヴラディスラフの家名を関するその名は、真に私のものではないような気がして」
「……お前は現ヴラディスラフ大公だろう」
「ええ。兄上。あなたが父であるフィリップ大公閣下を殺してくださったから……ええ、でも、それでも」
 私は真っ直ぐに玉座を仰いだ。端正な面差しが私を物憂げに睨んでいる。
「やはり私の中で、ヴラディスラフ大公はいつだって、ただ、あなたお一人でした」
 私ですらなく、あなたお一人でした。
 だから、日和見でもなく、ヴラディスラフ大公でもない私など――。
「待てッ! 何をする!?」
 自らの首筋に短刀を当てて、真っ直ぐに動脈を掻き切った。人間と違って鮮血が派手に噴出す事はないが、赤黒い血が体中を染めていく。
「何と言う事を……《――》」
 呼ばれたかったのはその名前。返したかったのは、この名前。
 もしもドラクル兄上が王太子として王族の一員に連なったままでおらず、素性が知られてヴラディスラフに戻されれば、今度は私の立場がない。ブラムス王の実子であるロゼウス王子によって同じような目に遭わされたくせに、自分が私にそれと同じ事をすると知った時に、あれほど悲痛な、苦痛な顔をした兄上。
 だからこそ、私はあなたを信じられる……。冷徹で酷薄で、でも本当は誰よりも優しいと知っていたから。
 日和見主義はもうやめよう。今まであなたの背を押し出す度胸もなければ、あなたを止める勇気もなかった私。ならば、と命を懸ける。これは盟約。
 世界が少しでもあなたに優しくありますように、と。
「……さよなら――」
 私には、ドラクルを止めることも救うこともできないんだ。だからこそ、彼らにその希望の一端を託した。
 どうか、どうか。
 果たして私の願いが叶えられたのかどうか、今となってはわからない。

 ◆◆◆◆◆

 あの人は酷い人だった。
 容姿はこの上なく美しい。真っ直ぐ通った背筋、凛と顔を上げ、胸をはり、まさしく「王」という雰囲気であった。ブラムス=ローゼンティアは確かに素晴らしい王であった。だけど、だからこそ……赦せなかった。
「ヴラディスラフ大公、本当に亡くなられたの?」
「ダリア」
「あの方、だってドラクル様……陛下の弟君なのよ? これまでだって特に私たちの邪魔をしてきたというわけでもないのだし、厳重注意くらいで生き返らせた方が……」
「そうだな。エヴェルシードを利用した先の侵略で貴族として使える者の数が減ってるし、無理に今人材を殺してしまうのは」
「カラーシュ伯」
 彼らは王城の一室に集まっていた。エヴェルシードと取引し、ローゼンティア国内の治安も改善させたとはいえ、まだまだ国内は不安定だ。少しでもドラクル王の側にいて、彼の力にならねばならない。
 ここにいるのは彼を含めて四人、ダリア=ラナ、フォレット=カラーシュ、ジェイド=クレイヴァ。そしてこのアウグスト=カルデール。彼らはドラクル王が王として玉座につく前からの部下であった。
 あの方の指示に従い裏で手を回し、あの方を王にするための部下であった。
「ヴラディスラフ大公閣下は亡くなったんだ。何があろうとも、それが事実だ」
 アウグストの言葉にラナ子爵ダリアもカラーシュ伯フォレットも黙った。ドラクル王と付き合いの長い二人は、陛下が好んで弟君を殺したのではないということをきちんとわかっている。だからこそ、陛下の気持ちを気遣う。
 しかし、どんなことを言ってもかつて日和見と名乗った、この国で本当の意味で中立をうたった青年は還ってくることはなく、ドラクルもそれを望まないだろう。同父母弟の死を歓迎するような者ではないが、死んだ弟を無理矢理ノスフェラトゥ……死人返りと呼ばれる化物にできる性格でもないことを、ここにいる者たちは全員知っている。
 あの方の脆さ弱さ。
 それはもしかしたら王には向かないものなのかもしれない。けれど、あの方が抱える心の傷は、あの方の責任ではない。
「一刻も早く、この国の状況を整えねば」
 アウグストは言った。ダリア、フォレット、クレイヴァ公爵ジェイドがこちらを向く。
「ローゼンティアはドラクル様が治めるべき国だ。ロゼウス王子に渡してはならない」
「ええ。もちろんだわ、カルデール公爵」
 アウグストの言葉にクレイヴァ公爵ジェイドが頷く。 
 自分たちはドラクル様が即位する前からの付き合いだ。
「今は、ほんの少しでも他者に弱味を見せることは出来ないんだ。ヴラディスラフ大公のことは残念だが、諦めよう。彼が薔薇王子方に味方しなかっただけでも恩の字だ」
「それはそうね」
「ロゼウス王子をこの国の王にするわけにはいかないしな」
「ああ」
「あの、ブラムス王の子など」
 ダリアが憎憎しげに呟いた。それに触発され、アウグストたちもかつてのこの国の様子を思い返す。
 それは、アウグストたちが生まれてからこれまでずっと同じ人物の治世、ブラムス王の御世だった。
「表向きの顔は確かに良かった。お顔立ちは確かに優しげだった。政務だって、何も無能と言うわけではない、普通の王だった。民から人気があったことを考えれば良い王だとも言えるだろう。けれど」
 けれど、アウグストたちはかの王をそれだけで済ますことはできない。
「あの男が裏でドラクル様にしたことを考えれば、当然赦せるはずがないわ」
 そうだ。優しくて慈しみ深い、よくできた王の顔はあくまでも表向きだけ。他の子どもたちの前では良い父親の顔をしていたあの王が、実の子ではない自分の子とされている王子王女たちの中でも、特にドラクルに対して扱いが決してまともではなかったことを彼らは知っている。
「もちろん、それを差し引いても私はブラムス王よりドラクル陛下の方が優れた能力を有すると考えているわ。だからこそ玉座の簒奪に協力したのよ」
「簒奪などと人聞きの悪いことを言うな、ラナ子爵」
「あら、ごめんなさい」
「ああ。……ブラムス陛下はあくまでも、エヴェルシードの侵略によって崩御されたんだ」
「ええ。そうだったわね」
 迂闊なことを言って、どこで誰が聞いているかわからない。嗜めたアウグストに、ダリアは肩を竦めて見せた。
「ブラムス王は良い王ではあるが、優れた君主ではなかった。人当たりが良いから部下から反発を引き起こすことも少なかったが、逆に人を跪かせるだけの気概もない。その上に、裏でしていたことを考えれば人格的にも褒められたものではない」
「ヴラディスラフ大公のことは……だけど、それでも計画に支障があるわけではないのでしょう」
 アウグストとダリアが言い、フォレットとジェイドが頷いた。彼らは視線を合わせ、これからの計画を確認する。
「ああ」
「とにかく、私たちは今までどおり、ドラクル様を支えるだけさ」
「ああ」
「ええ」
「もちろん」
 すべては、我らが王のために。

 ◆◆◆◆◆

 室内には重苦しい沈黙が降りていた。誰も何も言葉を発する事はなく、ただ先ほど聞いた話を各自の中で反芻する。
 持てる情報のすべてを出し合い、状況を把握する。自分たちは皆それぞれ手札が違う。だからこそ、声に出して確認せねばどれが正解かわかりやしない。
 それでも、ローゼンティア、この薔薇の国の秘密は、あまりにも重く苦しい。
 日和見と名乗った青年は館を去った。シェリダンたちにここを好きに使えと告げた後、彼は何の未練もなく、やけに清々しい顔つきをして自らの屋敷を出て行った。一度は他でもない自分の国、シェリダンに、エヴェルシードに侵略されたからこそ順位変動が起きて今は誰がどの役職についているかもよくわからなくなったローゼンティアで、暫定的にヴラディスラフ大公と呼ばれるべき人物だったのだと言う。
 ――もしもできるならば、どうかあの方を救ってあげてほしい。
 シェリダンには彼の心は理解できない。事の中心軸に巻き込まれているのはわかるが、シェリダンはローゼンティアの人間でも、ドラクルの家族でもない。その自分があの男、ドラクルを理解も救済もできるはずがない。もちろん日和見はシェリダンに向けて言ったのではなく、これまでの人生をドラクルの家族として過ごしたローゼンティアの面々に向けて言ったのだろうが、それでもまだなんとなく、しこりのようなものが残る。落ち着かない。わだかまり。この気持ちは一体なんだろう。答が出ない。苛々する。
 こんな時に側にいて欲しい相手は誰もいない。ローラとエチエンヌ、それにリチャードの三人の従者に関しては吸血鬼と行動を共にするのは危険だからと、ロザリーたちは途中で別れたのだと言う。クルスはシェリダンにとって誰よりも信用のおける部下だが、それでも彼の目線はひたすら優秀なエヴェルシード貴族的であって、そのすべてを共有できるわけではない。
 ただ理由もなく縋り付きたいあの紅い瞳とは、もう一月以上会っていないのだし。
 焦りばかりが募る。シェリダンはイスカリオットのことを終えてから、何一つできないままにここまで来た。こんな状態で、こんな様子で何ができる? ローゼンティアに乗り込んだところまではいいが、それから先どうするか? 今のシェリダンにはわからなかった。
 このままでは、またもや咄嗟の状況で事態に反応できず、乗り遅れてしまう。エヴェルシードでカミラに玉座を簒奪された時のような失態を、そう何度も繰り返すわけにはいかない。
「なぁ、俺たち、これから――」
 シェリダンと理由やそこに至るまでの思考の経緯は違うのだろうが、同じ事を考えたらしいアンリが口を開きかけた。すると。
「あ!」
「ウィル? どうした」
 突然、ウィルが叫んだ。視線の先を周囲の人間が追うと、彼の目はどうやら窓の外を見ている。
「ジャスパー兄様の使い魔!」
「なんだって!?」
 彼の言葉に、ローゼンティアの面々が一斉に動いた。全員で窓に張り付いて、その黒い生き物を迎え入れる。ウィルの手に向かって飛んできた蝙蝠を、真剣な顔で取り囲んだ。
「僕宛だ」
 ウィルがそう言って、蝙蝠につけられた手紙を外す。ジャスパー兄様、とすぐ上の兄の名前を小さく呟いて、文面に目を通した。
 その顔が、歓喜に輝く。
「ジャスパー兄様、ドラクル兄様のところから抜け出したんだって! それでね、今、ロゼウス兄様と一緒なんだって!」
「何!?」
 聞こえたその名にシェリダンは立ち上がり、ウィルに詰め寄った。
「それは本当なのか!?」
「う、うん……」
「まぁまぁ。ちょっと落ち着いてくれよシェリダン王。それで、ウィル、ジャスパーからの手紙には他になんて書いてある?」
「あ、ええと……」
 皆の前で、一度ウィルはその手紙の全文を読み上げた。
 それによると先ほどのように、一度はドラクルたちについていったジャスパーが今はロゼウスと共にいることなどが書かれている。二人が現在いる場所も。
 ふと、セルヴォルファス王ヴィルヘルムのことが気にかかった。ロゼウスは彼に囚われているのではなかったのか? シェリダンがイスカリオット伯ジュダと話をつけたくらいだから、向こうも何かの取引をしたのかもしれないが……何か、手紙の送り主がロゼウスではなくジャスパーであり、シェリダンではなくウィルに宛てたためのものだからか、どうにも腑に落ちないことがある。
 けれどそんなことは、とにもかくにも早く彼らと合流してからの問題だ。
「この場所なら、ローゼンティアまで、もうすぐだ……アンリ兄様、僕が、二人を迎えに行って来てもいいですか?」
「ウィル、だけどそれじゃあ」
「お願い。僕が頼まれたんです。だから、僕が行きたいんです」
「……わかったよ」
 警戒厳しい今のこの国で、ロゼウスたちをローゼンティア国内に手引きするのは協力者の存在が必要不可欠だ。二人を国の中へ連れて来るつもりならば、必ず誰かが一度はローゼンティアを出て、ロゼウスたちを迎えに行かねばならない。
 その役目を、まだ十二歳のウィル王子がかって出た。
「いいのか? 本当に」
「ええ。大丈夫です。任せてください」
 彼は力強く頷く。その表情に、迷いも恐れも、微塵も感じられなかった。