第13章 荊の棺に釘を(1)
175*
知っていた。
君が、妹への初恋など比べものにならない、生涯ただ一つの恋をすること。
知っていた。
君が、そのことによって、誰よりも不幸になること。
知っていた。
事態のカラクリの全てではない。けれどそれに近いほとんどを知っていた。知っていて君に黙っていた。君を利用するために。
――そこのお兄さん! ちょっとこっち来て呑まない?
――はぁ?
出会いは公式でそうなっているような、王城での父王との会見の時に、とかそういうものではない。実はエヴェルシードの城下町の安い酒場だった。とても当時世継ぎの王子だった者と、帝国宰相って呼ばれていた者の初の対面に相応しい場所じゃない。それでもあの時間は、僕としては意外なくらいにはっきりと、記憶の中に留めてある。あそこから全てが始まったんだから。
――お兄さんのお名前はー?
――お兄さんはやめろ。だいたい、あなたの方が年上じゃないか。私は……シエル。
――そう。じゃあ、僕はルキとでも。
――じゃあ、ってなんだ。とでも、って。
――そのうちわかるよ。
後日エヴェルシード王城で再会して、顎外れそうなほど驚いていたなぁ。隣にいた王様が吃驚して、どうしたんだ!? って思わず叫ぶようにして問いかけてたもんねぇ。
それから正体を明かして、先日の偽名による邂逅も全部明らかになって、でもそれを誰に報告したからって利益を僕たちが受けるわけでもないし、そんなぐらいならって、また二人して性懲りもなくお忍びで城下に出て酒飲んだり遊びまわったり。彼のやる事はどう見ても王子様って感じじゃなかったけれど、それが逆に小気味よかった。当時はまだ僕のこの姿より年下の彼を、連れまわしていた僕にもそりゃあ原因はあるんだろうけどさ。
でも、そんなことはもうない。そんな風にじゃれあう機会を、僕自身が永久に捨ててしまったから。
「シェリダン王を殺せ!!」
「大逆人を赦すな!!」
「あの男を地獄に落せ!」
民衆を扇動し、その死を切望するように事態を仕向けた僕には、もうシェリダンに対しどんな言葉をかける立場にもない。
後はただ敵に回るだけ。僕は僕でシェリダンを利用し、シェリダンは真剣に僕を殺しに来るだろう。僕はもう彼の友人なんて、そんな甘酸っぱい立場にはいられない。
僕が選んだんだ。僕が選びそうなるように事態を動かしたんだ。
僕が望む未来の光景には、どうしても彼の存在が必要不可欠だったから。だから僕はシェリダンを彼に気づかれないように誘導して、その道を辿るように仕組んだ。
なのに、何故。
紅い光景が消えない。《預言者》の能力によって見る事ができる未来の景色。
深紅の血だまりの中に、二人の人間がいる。いや、人間と言うには相応しくない。二人のうち一人は、白銀の髪と紅の瞳を持つ、忌まわしい魔物なのだから。
わかっているはずだ。
このまま僕が願うとおりに事態が進めば、必ずその道を辿るだろう。彼は、彼の手にかかり死ぬだろう。……わかって、いるはずだ。
なのに何故、その時を思うとこんなにも胸が痛い。
◆◆◆◆◆
擦り切れた背に触れる石の床が冷たい。
「ごちそうさまでした」
不機嫌で凄みのある、しかしふざけた様子でそう言ってドラクルは襟元の最後のボタンを留めた。小さく舌を出して皮肉に笑うその表情をいつもの様子に戻すと、いまだ地面に黒髪を散らして横たわったままのハデスの顔を覗き込む。
「卿? いつまでもそのままでいますと、病を得ると思いますが?」
「だ……れのせいだと、思ってるんだよ……・・」
紅い唇を歪め嫣然と皮肉るドラクルの言葉に、ハデスは掠れて途切れ途切れの声で返した。屋外で無理矢理犯された全身が痛い。
「私を挑発するあなたが悪い。だいたい、被虐趣味なのは卿の方でしょう?」
「あっ……つ!」
ドラクルが再び、先程さんざんに弄んだ心臓の上の尖りを強く抓む。赤く腫れ上がっていたそこを乱暴にされて、ハデスは痺れて甘い声をあげた。
くす、とドラクルがまた笑う。
「ほら。こうされるのが気持ちよいんでしょう? 痛めつけられるのが。若い肌を切り刻まれ、滑らかな背を鞭打たれ、その可愛らしい白い尻を叩かれて赤く染められるのがお好きなのでしょう? 口に猿轡をはめられ、目隠しをされ、手首をきつく縛られて無理矢理脚を開かされるのが楽しいのでしょう?」
「ち、ちが……っ、あ、ああ!」
揶揄する口調にハデスが反論しようとしたところで、今度はドラクルが下肢に手を伸ばした。内股を撫でられて、際どい部分に触れそうな指に翻弄される。
「無理なさらずとも、好きなものは好きと言えばいいのに」
「そ、それは……おまえの、方だろう!」
何とか叫んだ次の瞬間、ハデスはそれを握りこまれて息を詰めた。
「ひっ……!」
「そういえば」
わざとらしく芝居がかった口調でドラクルは、愛撫する内にゆるゆると芯を持ってきた少年のものを巧みに昂らせながら言った。
「先程は私の方は楽しませてもらったというのに、ハデス卿に対しては奉仕の一つもせずに申し訳ありませんでした。これから楽しませてあげましょうか?」
「ふ、ふざけるな! お前国で仕事あるんだろ! さっさとローゼンティアに戻れよ!」
「どうせここまで来たら、あと四半刻ぐらい留まっても同じことですよ。こちらの懸案事項の一つは、あなたに潰していただいたわけですし」
「!」
暗にミカエラを殺したことを言われて、ハデスは瞬間、体にこめていた抵抗の力を抜いた。
「あっ……」
その隙を狙うようにして、ドラクルは彼の昂りを絶頂に押し上げ、解放に導く。長い指が、少年の若々しいものを弄んだ。
「ああ……!」
頭の中で白い闇が快楽となって弾け、堕ちていく。一瞬の恍惚の後に虚脱感。ハデスは全身の力を抜いた。
「卿」
「ん……む、ぐっ」
薄く唇を開いて浅い呼吸を繰り返していたハデスの口に、いきなりドラクルが指を突っ込んできた。独特の苦味と生臭さが口腔に広がって、ハデスはそれが先程彼がハデス自身を慰めていた手だと知る。
「さすがにこのまま戻るわけにはいきませんので、この手は清めていただかないと」
言うドラクルの手は、勝手にハデスの口内を荒らしていく。一度息苦しさに顔を背けて吐き出したハデスは、再び目の前に示された指を、今度は自分から大人しく舐め出した。ここで言う事を聞いておかないと、後で何をされるかわからないことはもう知っている。しかも、その無体を受けとめるにはすでに彼の身体の方が限界だ。
サディズムとマゾヒズムは切っても切れない関係にある。マゾヒストがサディスティックなことを行うこともあれば、サディストは潜在的マゾヒストだとも言われる。傷つける快感は、傷つけられた側の威力を知らねば想像できないものだからだろう。
甚振っているのはどちらで、甚振られているのはどちらなのか。
熟れた果実のように赤い舌をドラクルの白い指に絡め、瞳に涙を浮かべながらもそれを舐めるハデスの様子を、ドラクルは無表情に見ている。
やがて唾液で洗われた指をゆっくりと引き抜くと、ハデスの頬に手を添えてその額に口づけを落とした。
「よくできました」
子どもに言うようなその口調にハデスの苛立ちが募る。その一方で、彼はロゼウスに対してもこんな接し方だったのだろう、ということがなんとなく思いやられた。
「それでは、私は戻ります。ハデス卿もごきげんよう」
ずたぼろに犯した相手の言う台詞ではないと思うが、ドラクルは自分だけ身なりをもう一度整えると、言葉通りさっさと戻ってしまった。長靴の音も聞こえなくなるほど距離が離れて、一人路地裏に死体のように討ち捨てられたハデスは空を仰ぐ。
エヴェルシードの青い空。あの時、ミカエラ王子も見ていただろう空。
傾いた建物の寄せ集まる暗い路地裏の隙間から見上げるそれは虚しいほどに爽やかに蒼い。
「僕は……」
下腹部にまだ鈍い痛みと違和感が残っている。乱暴に遊びつくされた後ろからは、赤と白の液体がとめどなく零れている。破られた服は散らばり、露になった肌には陵辱の赤い痕が残っている。
――被虐趣味なのは卿の方でしょう?
先程のドラクルの言葉が耳元で甦り、ハデスは小さく、違う、と口にした。
甚振られるのが好きなわけではない。ただ、そうでもしないと確かめられないだけ。
自分が、「ここにいる」ということを。
「僕は……」
伸ばした手は短すぎて、あの空には届かない。