荊の墓標 32

第13章 荊の棺に釘を(2)

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 夢の中で。
 《――》。
 誰かに、呼ばれたような気がした。

「……リダン様、シェリダン様」
 目を開けるとまず視界に飛び込んできたのは、全く同じ二つの顔。金髪に緑の瞳の美しいその二人が心配そうにこちらを覗き込んでいたので、天井など見えない。
「……ローラ……エチエンヌ……」
「シェリダン様!」
 シェリダンの意識が覚めたと見るや、二人はその首筋に飛びついてきた。病み上がりの身体には結構な負担なのだが、二人もそろそろそんな気を遣っていられなくなったらしい。
「シェリダン様! シェリダン様! ご無事で良かった!」
「良かった!」
 見た目は十一、十二歳の子どもにしか見えないが、これでこの二人も今年で十五だ。けれどエチエンヌもローラも今この時だけは、まるでシェリダンと出会った頃の幼い子どもにでも戻ってしまったように、幼い口調でただ良かったと繰り返す。
 二人は瞳に涙まで浮かべて感極まっている。きらきらとした生命力に溢れたその頬が上気し、触れた肌が暖かい。その感覚に、何故か違和感を覚える。
「お前たち……どうし……」
 双子人形の小姓と侍女が側にいることはわかったが、起き抜けのシェリダン自身まだあまり事態を把握できてはいない。どこかぼんやりとした頭で簡単に思い出そうとして、彼は口元に手を当てて俯いた。
「陛下」
 軽いノックの音と共に、部屋の扉が開いてリチャードが入ってくる。彼だけならまだしもその後に続いた人物を見て、シェリダンは一気に昏倒する前の自分たちがこれ以上ない非常事態に置かれていたことを思い出した。
「アンリ王子」
「目覚めたんだな、シェリダン王」
 硬い顔つきの青年を見て、シェリダンはこれが好ましい状態でもないのだと気づかされた。寝台の上に上半身を起こして、ぐるりと部屋の中を見回す。エヴェルシードの王城で使っていたような天蓋付の寝台ではなく、極普通の寝台。普通とは言ってもそれは王族基準の普通であり、使われている木は滅多にとれない高級素材だ。部屋に並ぶ調度は無駄なものこそないが、その用途や配置を考えた構成を見ていると洗練された美的感覚と実用性の高さに知らず脱帽する。他にどう言えばいいのかわからない、ただ見事としか言いようのないその部屋だった。
 しかし、シェリダンには全く見覚えのない場所であることも事実だ。立場上建物構造や部屋の様子を探るのが得意なシェリダンは一度訪れた場所は忘れない。その彼ですら記憶のない部屋。
 ふと、気づいて窓の外を見ればそこには縹色の空が広がっている。そして地上には虹色と言っても過言ではない色とりどりの花が溢れていた。まるで寝物語に語られる楽園のよう。窓枠も精緻な細工が施されていて、さしずめ外の景色を1枚の絵に見立ててそれを窓枠と言う額縁で飾っているようだった。
 ここはいったいどこだ?
「あの後……何があったんだ?」
 あの後、とは言うもののシェリダン自身のなかでも「あの」時というものははっきりとしない。一繋がりの道筋と言うより、むしろ断片的と言った方がいいような記憶だけが残っている。
 こちらを見る深紅の眼差し。その、あまりにも冷ややかなこと。込められた憎悪。
「ロゼウスは……」
 思わず口をついて出た名前に、ぴくりとアンリが身を震わせる。
「シェリダン王、あなたは、この事態を――」
 彼がシェリダンに対し何か言いかけたところで、もう一度ノックの音が聞こえた。
「ようやく気がついたのね。役者が揃ったというべきかしら」
「っ、皇帝陛下!」
 現れたその姿に、シェリダンは純粋に驚いた。長い黒髪の巻き毛と黒曜石の瞳。豊満な肢体を隠そうとする気もないような扇情的なドレスに包んだその姿は、間違いなくこの世界の皇帝だ。
「そんなに驚かなくてもいいでしょう? 別に私はあなたたちをとって喰おうというわけではないのだから」
「は? はぁ……」
 シェリダンは起きたばかりで顔も洗っていないだとかまだ寝巻きのままだとかいろいろ皇帝との対面に関する問題があるのだが、その彼女の言葉に、臨戦態勢に入る前から気が抜けた。
 彼女とはまたいろいろあった。ドラクルとエヴェルシードの森の一つで邂逅しローゼンティア王家の真実を知らされた時にも横槍を入れられたし、そもそも彼女は今回シェリダンを罠に嵌めたあのハデスの姉だ。
「そうだ、陛下、ハデスは……」
 シェリダンが覚えている限りでは、ハデスはロゼウスに戦いを仕掛けて逆に瀕死の重傷にまで追い込まれていた。虫の息だった彼を助けるためにデメテルがあの場に来て……それ以降の記憶がシェリダンにはない。
「あの子は無事よ。あれだけのことをやらかしたし、あなたたちと今顔を合わせるのもまずいだろうから別の棟に運んだけれど。傷が深かったから、まだ目も覚めてないし」
「そう……ですか」
 良かったというには今の立場はお互いあまりにも複雑だが、少なくとも彼があのまま死んだらそれを喜べるとも思えない。結局反応とも言えない反応を返したシェリダンに、次に事態を説明する役を引き受けたらしいリチャードが淡々と言葉を重ねた。
「他の方々……ミザリー姫とエリサ姫はまだ精神的な負荷が大きく休んでいますが、ロザリー姫は別室にいらっしゃいます。ユージーン侯爵もロザリー姫と一緒に。あの時、ロゼウス様の攻撃から逃れる際、デメテル皇帝陛下のお力で、私たちはここ、皇帝領へと運ばれたのです」
「皇帝領? そうか、ここが……」
 シェリダンが先程楽園のように感じた外の景色、あの穏やかさも、皇帝領ならば納得だ。
「シェリダン様、私たちはアンリ王子殿下たちと別れた後、この土地へと、皇帝領へと向かいました。はじめは始祖皇帝にも仕えたという我がリヒベルク家の縁でも頼るつもりで訪れたのですが、途中で皇帝陛下とお会いすることが叶い、このようになりました」
「このように……と、言われても、一体どうすればこんな風になるのだか、私にはよくわからないのだ」
 ローラがいる。エチエンヌがいる。リチャードがいる。久しく顔を見ていなかった部下たちの存在は心強いが、一緒にいる人物の方は問題だ。以前を思えばけっして味方とは思えない皇帝の存在はもちろん、今回の出来事は何もかもが、シェリダンの理解の範疇を超えている。
 それに、頭が冴えてくれば冴えてくるほど、胸の内では今ここにいない存在のことがちりちりを心臓を焦がす。紅い瞳。
 シェリダンは表情を引き締め、室内の一同を見回した。知らなければならないだろう。自分の、自分たちの身に降りかかった正確な事態を。
 それが、彼を取り戻す一番の近道なのだろうか。
「知っているなら教えてくれ。ロゼウスのことを」

 ◆◆◆◆◆

 打ち捨てられたラクリシオン教会。色硝子を透かして、七色の光が差し込む。シェスラートの白銀の髪が虹色に染まったが、朱に染められた体は禍々しいような色を変えることはなかった。深紅という色彩はとかく強い。
 ――好きなんだ……。
 ――拒絶したくせに……。
 ――でも好きなんだ。シェスラート。でもお前が、俺以外の人間に笑いかけるところなんて見たくない。
 廃教会で行われたのは血塗れの告白。
 ――俺は、あんたのものだって、言った……のに……。
 永遠に愛している。
 永遠に愛していた。
 ――……さ、…い。
 ――シェスラート。
 ――赦さない。
 ――ロゼ……お前は最後まで酷い男だったよ。
 ――愛してい《た》よ。

 だけど今は、誰よりも憎い。

 唐突に、忽然と、本当に何の前触れもなく彼らは消え去った。
「い、一体何が……!」
 目の前から煙のようにかき消えてしまった自分の兄妹たちと憎い敵の交ざった一行。予想外の状況に動転するジャスパーに対し、ロゼウス……シェスラートは冷静に現状を解説した。
「大地皇帝の力だ。あの女、デメテル=アケロンティス。皇帝は全知全能だからな。瞬間移動と言うやつだ」
「で、でもハデス卿のように次元を開く様子は見られませんでしたよ? それだったらもう少し予兆があるはず」
「次元移動ではなく、使ったのは座標転移だろう」
「……どう違うんですか?」
「言ってもわからないだろうから、覚えないでいい。要するに、皇帝にしか使えない力を使ったんだよ」
 ロゼウスは足下に屈みこみ、その身体を引き上げる。
「ご丁寧に、可愛い可愛い弟のウィルを置き去りに、ね」
 ロゼウスが殺した弟の身体。ウィルの亡骸だけはシェリダンたちと共に転移せず、その場に残されていた。もっとも亡骸と言っても、ロゼウスほどの力があればすぐに生き返らせることができるものだが。
 デメテルは何故彼の身体だけは置いていったのだろう。
「全知全能の皇帝だが、死人を蘇らせるような力だけはないからな。あれだけは何がなんでも例外だ」
「ここですぐに生き返らせないのですか?」
「場所を移動する。どうせあの様子じゃすぐに奴らがまたここへ戻ってくることもないだろ。待機するなら、せめて雨風を凌げる屋根のある場所の方がいいだろう?」
 そう言ってロゼウスの身体を使うシェスラートはウィルの身体を抱き上げ、歩き出した。国境の森からローゼンティア側へと近づいていく。
「今のこの国に入るのは危険ではないかと」
「俺たち吸血鬼の容姿では、どこの国にいったってどうせ同じじゃないか。まさかエヴェルシードに留まるわけにもいかないし。それに心配しなくていい。別にどこかの街や村を訪れるわけじゃない」
 もうすぐだ、というシェスラートの言葉に半信半疑ながらジャスパーが彼の後をついていくと、やがて森の一角が開けて崩れかけた建物が現れた。
「ここは?」
「教会だ。大昔のな」
 その建築物の様式はジャスパーには見覚えがなかった。古い時代の建物というのを通り越して、もはや遺跡の部類だ。今にも崩れそうな石積み。
「ここは……」
 先程と同じ問を思わず繰り返しながら扉などとうに腐食して入り口だけとなったその四角い空間をくぐる。中身は確かに教会らしく、かろうじて正面に描かれた十字架と、祭壇があるのがわかる。中央の祭壇へと向かう道の脇には礼拝用の席が並んでいて、窓には割れた虹色の硝子がはまっていた。
 ここに入るにいたって、シェスラートがほんの少しだけ魔術を使ったのがジャスパーにもわかった。ほとんど石の崩れた外観だけで何も残っていなかったこの廃教会に、十字架や硝子を今彼が再現したのだ。
 ローゼンティア国内から出ることのない吸血鬼の王族は自国の地理に強いのだが、ジャスパーはこんな場所は知らない。恐らくこれまで誰も足を踏み入れたことはなかったのだろう。人が足を踏み入れない建築物は、過ぎる年月のままにただ荒れるだけだからだ。
 それにしてもシェスラートが多少の魔術を使うまでのこの建物は廃墟の名を冠するに相応しかった。硝子を窓枠にはめてみた今の状態でも廃墟と呼んで差し支えはない。
 シェスラートが望んだのは元から廃墟であったこの場所ということだろうか。一体この教会はなんなのだろう?
 疑問に思うジャスパーを気にも留めず、寝台替わりの祭壇に抱えてきたウィルを横たえながらシェスラートは追憶する。
 三千年の昔、この場所で起こった出来事を。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝デメテルの力によって、シェリダンたち一行は世界の果てにある皇帝領薔薇大陸へと連れてこられた。
 イスカリオット伯爵ジュダの裏切りによって彼の兵にエヴェルシード王城を襲撃され、シェリダンが異母妹カミラに玉座を奪われてはや数ヶ月。
 シェリダンは王城襲撃の際に離れ離れとなった腹心の部下たち、ローラ、エチエンヌの双子人形とリチャードの三人とようやく再会した。しかも当初ローゼンティア王族のアンリたちと行動を共にしていた彼らは、船旅における事情から彼らと別れた後、皇帝領を目指したのだという。
 だから今、シェリダンたちがこの場にいるわけだ。驚いたことに、三人は皇帝デメテルを動かすことに成功したのである。
 世界を統べる支配者。全知全能の力を持つと言われる皇帝陛下を味方にできれば、怖いものなどない。
「まぁ、私は正確にはあなたたちの味方ではないけれどね」
 とはいえ、デメテル本人は早々にそれを否定した。
 豪奢な年代ものの調度が並ぶ、皇帝の宮城の一室だ。そこに、彼女の能力によってこの場に連れてこられた一行、シェリダン、クルス、ロザリー、アンリ、ローラ、エチエンヌ、リチャード、そして皇帝デメテル自身が雁首を並べている。
 ミザリーとエリサはさすがにこれまでの疲労と心労がたたり、まだ起き上がれないのだという。ロゼウスに瀕死の重傷を負わされたハデスも、傷自体はデメテルに治療されたがまだ目を覚ましてはいない。魔術で傷を治す事はできても、それまでに蓄積された痛みや疲労まで取り除く事はできないのだ。
 しかしそれ以外の面々は、こうして皇帝と顔を合わせていた。窓の外は、これまでの殺伐とした戦いとは裏腹に明るい。ローゼンティアやエヴェルシードは大陸のどちらかと言えば北方寄りに位置する国なので、短い夏の間でも、太陽の煌きは弱かった。
 常に薄曇の灰色の空が広がるローゼンティアよりの国境にいた彼らにとって、当然のような空の青さが眩しい。ローゼンティアよりはまだマシとはいえ、エヴェルシードの青も落ち着いた青だ。皇帝領の虹色の花畑を照らす金色の日差しには敵わない。
 ただ、室内で交わされる話題は決して明るいものではなかったのだが。
「もともと私たちが皇帝領に辿り着いた時も、皇帝陛下がご自分から姿を現してくださったので」
 ローラはそう説明する。皇帝の協力が得られたというのはどうやら彼らの思い違いで、デメテルは自分の目的のために動いているらしい。
「陛下。あなたの目的は?」
 現皇帝デメテルと帝国宰相ハデス。その仲が「微妙」であることは、ハデスの友人であるシェリダンが誰よりも知っている。けれどデメテルは、ハデスを助けにあの場所に来た。そして事のついでかも知れないが、シェリダンたちまで助けてくれた。
 しかし、現在はほとんど一方的に宣戦布告されたと言ってもいいような状態だが、シェリダンとハデスは決定的に敵対している。その両者をまとめて助けたデメテルの意図とは何なのか。
「目的?」
 カチャリ、と白い陶器に金の縁取りをされているカップを置いて、デメテルは小首を傾げた。見た目はついつい妖艶な女性と言いたくなるデメテルだが、実際にはその外見はまだ十八歳の少女と変わらない。それが彼女が皇帝に即位して身体の成長を止めた歳だからだ。
 ふとした瞬間に思いがけず若い様子を見せるデメテルが、何を言おうかと考える風情になる。
「そうねぇ……私の目的はただ一つだけれど、それをそのまま説明するとやっぱりよくわからないことになりそうね。でもねぇ」
「……陛下?」
「とりあえず、私の目的はハデスを助けることよ?」
 エヴェルシードとローゼンティアの国境でのロゼウスとの争い。しかし、その理由はまだわからない。
 そして、ハデスがロゼウスの命を狙うわけも、シェリダンを罠に嵌めたわけもわからない。
「ハデスを助ける? それは、あの場限りのことですか?」
 デメテルの言い回しは絶妙に核心を捉えさえない。「とりあえず」というのは、どういった意味での「とりあえず」なのか。
「それも含むわ。だって、私の大事な大事な弟だもの」
 全てを煙にまくにっこりとした笑みを浮かべた彼女をしばし見定めるように真剣に見つめてから、シェリダンは口を開いた。
「皇帝陛下」
「なぁに?」
 デメテルの思惑は、やはり知れない。ハデスを助けると言いつつ、その彼女こそハデスの敵か? 味方か?
 だがそれを判断するにはまず、シェリダン自身が現在の状況を把握する必要があった。
 ロゼウスのこと、ハデスのこと、ドラクルのこと。
 そして皇帝のことと、次期皇帝などと呼ばれていたロゼウスのこと。
 ハデスやサライの言葉の中で出てきた「シェスラート」という名前。
 そこまで考えてシェリダンはふと気づいた。
「……サライは?」
「へ?」
「あ!」
 そういえば、彼女がいない。あの銀髪に紫の瞳の美少女が。
「え? やだ何? あの場にまだ生きている味方がいたの? 死人の王子様は私の力じゃどうしようもないから置き去りにしてきちゃったけど」
「死人の王子?」
「ウィル……のことですか」
「ええ。そう。私じゃ死人を生き返らせることはできないからね。ロゼウス=ローゼンティアに生き返らせる気があるなら、そちらに任せた方がいいでしょう。死んだままで放置されたなら、それまでよ」
 デメテルはやはり味方とは言いがたい。あっさりと残酷な言葉を吐いて、彼女は口を閉じる。ローゼンティア王族であるアンリやロザリーは表情を険しくしたが、シェリダンは違った。
「死者か……ならば、サライのことは放っておこう。あれも一応は死者のようだしな」
「そういえばサライさんのことも、まだ何一つ解決してませんね……」
 古代の巫女姫を名乗る彼女の事はとりあえず放っておいて、シェリダンたちは話を進めることにした。
「皇帝陛下。教えていただきたい。私たちに、いや、ロゼウスの周囲で、今何が起こっているのか」
 多少反則的だと言えなくもないが、これが多分すべての真実への近道だ。
 皇帝は全てを知っている。
「……長い話になるわよ」
 デメテルは溜め息をついて、そして。
 意を決した様子で語り始めた。