第13章 荊の棺に釘を(3)
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皇帝領の天気は滅多に崩れることがない。四季を通じて枯れることのない虹色の花畑が広がっている。
しかしそれすらも、皇帝にとっては意のままに操れる現象の一部だという。今現在の皇帝領の景色がこのように穏やかであるのは現皇帝デメテルの精神が安定しているのと、彼女が意識してその景色を変えようとしていないから、というのが主な理由らしい。
その気になれば辺りを一面の銀世界にも荒野にも、皇帝の住まう宮城を荒城にも変える事ができるというが、それに模様替え以上の何の意味があるのかはさっぱりわからない。基本的に皇帝領には皇帝の身近に仕える者以外は住んでいないので、農業的な天候の事情なども気にしなくていいのだ。
その、皇帝の精神によって支えられるという不思議な土地《薔薇大陸》を彼らは今、後にしようとしていた。
身支度、装備を整えて宮城の前に立ち、居残り組との別れを済ませる。
「じゃあな、ミザリー、エリサ。行って来るよ」
「ええ」
「いってらっしゃい、アンリにいさま、ロザリーねえさま」
アンリが妹二人に声をかける。シェスラートとの決戦当日だった。
相手方から指名を受けた当人であるシェリダンはもちろん、クルス、リチャード、ローラ、エチエンヌ、そしてアンリとロザリーが同行することにした。
アンリやロザリーが行くのは二人にとっても弟であるウィルを、そしてロゼウスとジャスパーを取り戻したいからだが、これにもまた一悶着あった。クルスやローラたちシェリダンの部下が彼についていくのはともかく、相手から指示されてもいないのにアンリやロザリーが行っては、ただでさえ何をしでかすかわからないシェスラートの気を逆なでするのではないかと言う危険性があったのだ。
しかし一行の杞憂は、デメテルのあっけらかんとした一言によって解決された。
「どうせ真正面からやりあえばあんたたち全員が束になってかかっても瞬殺される力の差なんだから、そんなこと気にしないで行ってきなさい」
「しかし、皇帝陛下」
「象と戦うのに蟻が何匹かかっていったところで無駄でしょ? つまりはそういうことよ」
シェスラート(ロゼウス)=象
「……陛下……」
「私はもっともなことを言っただけよ。それだけの実力差があるんだからしょうがないじゃない。それに、向こうの狙いはロゼッテ=エヴェルシードの生まれ変わりであるシェリダン王、あなただけよ。向こうがそれに執着してくれればやりやすくなるし、同じヴァンピルなら弱点もわかるだろうからその二人は連れていけば」
こうして鶴の一声により、アンリとロザリーの同行が決まったのだ。今のシェスラートはロゼウスの肉体を乗っ取って甦った状態だと言うが、それが一番厄介らしい。ロゼウスの力を、シェスラートが使うこと。その威力や効果は計り知れない。
本気のロゼウスの力と言うものは、誰も見たことがないのだという。
「吸血鬼は滅多に本性を表わさない。俺たちヴァンピルの本性。それは人の血肉を喰らう化物。そんなもの、よっぽどの事態でなけりゃあ見せらんないよ」
アンリがどこか寂しそうに言ったのが、彼ら吸血鬼一族以外の者たちの胸にはひっかかる。
「気をつけてね」
幼い妹エリサと手を繋ぎながら、ミザリーが決戦に赴く者たちへと言葉をかけた。
もともと身体的にも精神的にもそう強くない彼女はデメテルが話をした時には休んでいたために皇帝や生まれ変わり云々という事情は聞いてはいないのだが、それでも何か察するものがあったらしい。
無理に情報を得たがらず、大人しく彼らを見送るのが自分の役目と思っているようだった。姉の様子につられたようにエリサも大人しく手を振る。
「……大丈夫、なのよね?」
「ミザリー?」
「私、私はもう……家族を亡くすのは嫌だからね」
「……ミザリー」
弟、ミカエラの死に一番のショックを受けていたのは彼女だった。憂いを帯びたその顔は世界一の美姫の名を裏切るものではなかったが、それでも長く見ていたい表情ではない。
かなうならどうか幸せに。幸せそうに。
けれどその望みの行末は、シェスラートと直接対峙する彼らの方へとかかっている。
「大丈夫だよ」
妹を安心させるようにアンリは微笑んだ。
「必ず帰って来る。ウィルもきっと連れ戻してみせるから。そうしたらロゼウスとジャスパーのことは、ミザリーが姉さんなんだからしっかり叱ってやるんだよ?」
「私が?」
「そう」
「わかったわ」
兄の言葉に口元を綻ばせたミザリーが、せめてもと精一杯の笑顔を作る。
「じゃあ、行くわよ」
デメテルの言葉に、一同は彼女の近くへと集まった。合図らしい合図もないまま、この土地に来た時同様、一瞬で一行の姿が掻き消える。
それを呆然と見送ったミザリーの耳に傍らからか細い声が届いた。
「……よ」
「え? エリサ、何?」
ミザリーと同じく、留守番組に命じられてしまったエリサが何事か呟いている。小さすぎるその声はヴァンピルであるミザリーの耳にも届かず、エリサもなんでもないと首を横に振った。
虹色の花畑のずっと向こう、シュルト大陸がある。その果てのエヴェルシードとローゼンティア国境近くで、戦いが始まる。
「もう、会えないよ……兄様……」
予感めいたものがエリサの胸を塞ぐ。目の前の美しい花畑の様子も彼女の心を慰めず、ただ深い悲しみだけが、後から後から沸き起こってくる。城の中で待っているように言われたのに、何故かその場を動く事ができなかった。
◆◆◆◆◆
踊るのは蒼、黒、銀。
そして橙と紫。
漆黒の深淵。
伸ばした手は血に濡れて、冷たい絶望に浸る。そこから引き上げてくれたはずの手が、また絶望に突き落とす。
瞼の裏で、古の光景が踊る。
人質となる自分を悲しい笑顔で送り出してくれた村の者たち。自分に斬りつけて、その最期には不自然なほどあえかな笑みで死んだヴァルター。燃える王城から連れ出してくれたロゼッテ。無愛想だけれど面倒見の良かったソード。優しいフィリシア……。
銀髪に紫の瞳の美しい巫女姫、サライ。
閉じた瞼の下で、古の光景が巡る。故郷の小さな村から始まって、繰り返される出会いと別れ。そのたびに記憶は甘い感傷と疼くような痛みを連れてくる。
思いもかけずロゼッテに刺され、最期に思い出すのはいつも彼と、銀髪の少女だった。ロゼッテの橙色の瞳に走る澱んだ狂気を見ながら、サライの笑顔を思い出す。
何一つできなかった。何も築けず、何も成さずに自分は終わってしまった。
恨みも悲しみも、心残りもあって当然だ。だがその感情がただ一人の男に向けられて、醜い憎悪に集約されていく。
止められない。止める気もない。
悪いのは全て、自分を殺したロゼッテなのだ。彼は王者としての才を持っているから、あの時は世界から導き手たる《皇帝》を奪うわけにはいかなかった。自分が死ぬのなら、なおさら。けれど今の彼は誰のものでもない。世界のものですらない。だから。
今度こそ、俺のものに。
シェスラートはぱちりと瞳を開く。
次の瞬間、彼とジャスパーが待ち構えていた廃教会の前に、複数の人影が突然姿を現した。
ずっとこの時を待っていた。
「仲間を連れてくるなんて―――」
「いい。ジャスパー。好きにさせろ」
「でも」
「どうせヤツラが何人でかかってきたって、俺に敵うわけないんだから」
余裕綽々のシェスラートの台詞にシェリダン一行は内心安堵の息を漏らしながら、表面上は顔色を変えずにこの一連の事態の仕掛け人であるシェスラートへと目を向けた。
ドラクルとのいがみ合いのことがある。ハデスにミカエラ王子殺しの罪を着せられたこともある。シェリダンから簒奪したエヴェルシードの玉座に座り続けているカミラのことがある。しかし、その何よりもまず先に、彼と決着をつけねばならない。
ローゼンティアの森の奥深く、エヴェルシードとの国境近いとは言っても国境から眺めただけではとうていこんなものがあるとはわからないその場所。崩れかけた廃教会が建っている。高い尖塔が崩れ、十字架と呼ばれる祈りの象徴も砕け、ドアのない入り口から荒んだ内部を晒している。この建物は、もう何千年も前に朽ちたもののようだった。
シェリダンたち、その中でも特にアンリとロザリーがその建物の様子に魅入られたように動かない。これだけ古い建物なら、某かの状況が王家にまで伝わってくるはずだ。けれど、二人にそんな心当たりはなかった。見逃す恐れがあるのは規模の小さい祠などだが、この教会ほど大きければ誰もが気づかないはずはない。けれど何故。
「どうしてこんなところにこんな建物が、って?」
他の面々とは違う反応に気づいたのか、シェスラートがゆるりと紅い唇を歪める。ロゼウスの顔に浮ぶそれら見た事のない表情に、アンリとロザリーは背筋に寒気が走るのを感じた。
「簡単な話だ。この空間はずっと、皇帝の力によって閉じられていたのだから」
「どの皇帝に?」
「さぁ。お前たちだって、もうわかってるんじゃないか?」
シェスラートは思わせぶりな言い方で明言を返さず、シェリダンの方を向いた。
蒼、と言うよりは藍色と言った方が正しいような、夜空を切り取ったような見事に艶やかな光沢のある髪。橙色というより朱金と言える、燃える炎の色をした瞳。
彼の目に映る少年は美しかった。最初はただただ魂の様子からロゼッテの生まれ変わりだということに目が行ってしまったが、改めて見ると、シェリダン=エヴェルシードは美しい。
王子と言うよりは凛々しい美姫を思わせるような華やかな容貌。しかし体格や姿勢は少年以外の何者でもなく、こちらを睨みつける瞳の力は強い。
この少年が、あの男の生まれ変わり。
何か言おうとシェスラートが口を開きかけた、その時だった。
「ロゼウス!」
シェリダンが叫ぶ。
「シェリダン!?」
「エヴェルシード王!?」
共に連れて来た者たちの様子も顧みず、シェリダンが見ているのはただシェスラート一人だった。否、彼が見ているのはシェスラートではない。
燃える炎の瞳が求めているのは。
「ロゼウス! いるのだろう! その男の中に!」
恐らく大地皇帝デメテルが全てを説明するだろうとは同じ皇帝の力を持つ者の連帯感とでも言おうか、なんとなくわかっていたシェスラートだったが、このシェリダンの言葉でやはりと確信した。当の皇帝デメテルは二つの勢力のどちらに加担するでもなく、ただやりとりを見守っている。
「私は始皇帝のなりそこないなどと話をしに来たのではないぞ! お前を取り戻しにきたんだ! いつまでも寝てないで、さっさと起きろ!」
シェリダンはシェスラートがロゼウスの中で甦っていることを、知らないのではない。
知っていて、それでもシェスラートを無視しているのだ。彼が呼びかけるのは、その唇が紡ぐ名はただ一人。
「ロゼウス!」
薔薇という意味を持つその名。薔薇の王子。薔薇の皇帝。神に選ばれし代行者。
そんなこと全て関係がないというように、強く、ただひたむきに呼びかける。
彼が呼ぶのはシェスラートではない。決して、シェスラートでは――。
彼はぎりりと唇を噛み締めた。シェスラートの行動によりロゼウスの唇に傷がついて、薄く血の味をさせる。
始皇帝のなりそこないと言われた男の魂の中で、何かの感情が爆発する。
「俺を無視するな!!」
どうしてお前はいつも――いつも、俺を見ようとしない!!
◆◆◆◆◆
掲げられたシェスラートの右手に凄まじいまでの力が集まっていく。
「避けて!」
真っ先に叫んだのはロザリーだった。彼女は即座に、すぐ近くにいたローラとエチエンヌの二人と、リチャードの襟首を掴んで地面に引き倒す。アンリは咄嗟に炎避けの結界を作り、クルスとシェリダンは剣を抜いた。
「!」
第一撃は魔術だった。そのことに、ロザリーやアンリといったローゼンティアの面々は戦慄を禁じえない。ローゼンティアのヴァンピルは魔族だが、地上に出てきてその能力のほとんどを失って久しい。特に魔族の要とも言うべき魔術は、個人によって力の差が激しい。
つまり、ほとんど魔術を使えず人間と変わりないようなヴァンピルもいれば、それこそ冥府の魔族にも劣らぬ力を行使できるヴァンピルもいる。
そして恐ろしいことにアンリとミザリーは前者であり、ロゼウスは後者だった。魔力の強さではノスフェル家の人間に敵う者はいない。それがヴァンピルの最大の力である《死人返り》を左右するのだから。
アンリの結界は彼らを包む膜というよりは盾状になって、正面からロゼウスが放った炎を防ぐ。
「ま、魔術!?」
咄嗟に剣を抜いては見たものの、クルスやシェリダン、それにローラたちもその威力に度肝を抜かれていた。いつもハデスが使っているのを見ているとはいえ、それでも魔術師などそこらに普通にいるものではない。驚いて、透明な盾を避ける炎を見ている。
「くっ!」
「アンリ、二撃目もいける!?」
「無理だ! 結界を張りなおさないと!」
魔術の力量は個人差が激しいと言った。ローゼンティア国内でも、魔術を呼吸をするように自由に使える者は数少ない。
もともと、魔術など普通に暮らしている限りは必要のない能力だ。火をつけるのも水を汲むのも、魔術を使うより自分の手でやった方が早い。
その魔術が目に見える効果を発揮するのが戦闘なのだが、それすら凄腕の剣士や武闘家は魔術に頼らず己の力で戦う方が効率よいという。
けれど一つだけ単なる体術剣術よりも魔術が優れた場面があって――それはこのように、少人数で複数の敵を相手にするときだ。二対七のこの状況で、だからシェスラートはいきなり炎撃を繰り出してきたのだろう。
「エリサ連れてくれば良かったかも」
もとより様々な面で能力差の激しいローゼンティア王族だが、戦闘能力に至っては、これを考慮しなければ話にならない程の差がある。
政治手腕から戦闘能力、剣術、魔術、戦略、全ての面において秀でているのはドラクルとロゼウス。この二人だけだ。その後はそれぞれの特技が違って比べようがない。アンリは剣術も魔術もそれなりにこなすが、あくまでもそれなりなのである。そしてロゼウスが相手では、この場面で戦略など立てようがない。
ロザリーは身体能力の高さ、素手での戦闘力はドラクルをも凌ぎロゼウスと拮抗するが、代わりのように彼女は魔術全般において不得手だった。魔術がそこそこ使えるのは第二王女のルースと、そして末っ子のエリサくらいなのだ。
そして更に彼らを追い詰めることには、シェスラートのぽつりと漏らしたこんな一言がある。
「炎が弱すぎたな……」
彼はロゼウスの身体、炎を吐き出した白い手をひらひらと振って具合を確かめている。いくら生まれ変わりと言ってもその肉体との相性には違いがあるのか、どうやらシェスラートは本調子ではないらしい。
しかしその、不調のシェスラートの様子見程度の火を防ぐだけでアンリの力では手一杯なのだ。
現時点ではこの場で最強の力を持つはずの皇帝デメテルも、この戦いには介入する様子がない。
どうすればいいのか。なまじロゼウスの力を知る分アンリとロザリーが思考を巡らせたその時だった。
「ローラ、エチエンヌ」
シェリダンが彼の懐刀である二人に向けて呼びかけた。
「はい!」
「は!」
「お前たちの得物は用意しているだろうな?」
「ええ!」
「もちろん!」
双子人形の方を直接見はせず、シェリダンはその視線だけは真っ直ぐにシェスラートに固定したまま尋ねる。主君に応えて、二人は己の得物であるナイフとワイヤーを取り出した。二人の得手は、飛び道具による遠距離攻撃。
「それを使って、こちらが不利と見たら援護しろ。クルス、お前は剣で私の補助だ」
「御意」
「要はロゼウスに魔術を使わせなければいいのだろう?」
ヴァンピルであるアンリやロザリーがこの対魔術戦では使いものにならないとさっさと見て取ったシェリダンは、戦法を頭でさっさと組み立てた。
ただの人間であり、ハデスのような黒の末裔でもない彼は魔術など一切使えるはずもない。だが非力な人間には人間としてのやり方があるのだ。
「行くぞ!」
シェリダンが地を蹴るのと同時に、ローラ、エチエンヌ、クルスが構えた。
「っ! 速……ッ!!」
ジャスパーが深紅の瞳を見開き、シェスラートは電光石火の速度で仕掛けられた自らへの一撃を淡々と受けとめた。淡々と、とは言ってもそれこそ目にも留まらぬ速さで抜かれた剣がシェリダンの攻撃を受け止める際に、派手な硬質な音を立てる。
魔術を使うのに重要なのは、ある者は呪文を唱えるための「口、喉」。そして魔方陣を描いたり魔力の制御をする「手」だ。彼に剣を抜かせることで、シェリダンはシェスラートの魔術を封じる。本来人は目には目を、歯には歯をの精神で魔術には魔術で対抗しがちで、アンリやロザリーが咄嗟に動けなかったのもそれが原因だが、実際には魔術師にとって一番戦いにくい相手はこのような剣士である。
世界最強の軍事国家エヴェルシードの国王の座に、一時的とはいえ着いたのは伊達ではない。身体能力が違いすぎるヴァンピル相手でも、剣の腕前さえ拮抗していれば彼らエヴェルシードが勝てたのはこれが理由だった。
速さと技。それは日々の弛まぬ鍛錬から培われた彼らの実力だ。強大な力を持ってはいてもその使いどころを知らない波のヴァンピルでは思わぬ敗北を強いられることもある。
もっとも、並どころでないシェスラートは簡単に負けてはくれないようではあるが。
それでもシェスラートの間近に接近し、彼が魔術を使うどころか十分な腕力を剣に乗せるのも待たないシェリダンの猛攻に、シェスラートは舌打ちを隠せなかった。
「っ、まったく、たかだか人間のくせに、忌々しい相手だな、お前は!」
シェリダンの繰り出す剣は、その速度からしてみれば驚嘆に値するほど寸分違わずシェスラートの急所を狙う。彼らとしてはロゼウスは生かして取り戻したいが、もとよりノスフェル家のヴァンピルとして彼が人一倍頑強であることが念頭にあるためだろう。致命傷を与えようとする動きにも迷いがない。
シェリダンの恐ろしいところは、その躊躇いのなさだった。彼の繰り出す攻撃一撃一撃自体も素早いものだが、それを選んでローラたちに指示を出し、シェスラートに仕掛けてきたあの短い時間こそがシェリダンの真価だった。次代皇帝候補、それもヴァンピルとして、明らかに自分より強いと知れている相手に勝つために最善の方法を選択して即座に実行できるだけの神経が並ではない。並でないヴァンピルと、並でない人間の闘いだ。
「貴様こそ、人間を舐めるなよ!」
返すシェリダンの口調には揺らぎがない。炎の瞳は、空恐ろしいくらいに真っ直ぐだ。
シェスラートはそれに苛立ちを覚える。シェリダンのその眼差しは、彼の心の奥底に封じていた何かを刺激するのだ。
だが、苛立つことによって逆に戦況を冷静に見極められるというのも彼の才能の一つだった。目にも留まらぬ速さの攻撃など、そう何度も続けられるはずがない。ましてや、シェリダンはそれこそただの人間なのだ。初速こそシェスラートの眼を瞠るものではあったが、数を重ねるうちに速さの落ちる攻撃を的確に防ぐ。
そうしながら、シェスラートは彼と、その背後でシェリダンが息を整える間を確保するようにタイミング良く援護をするローラたちの様子を測る。
彼女たちの援護も、それは見事なものだった。敵として攻撃を受ける側から見れば、これほど嫌なものもないと言った様子だ。シェリダンが少し攻撃の手を休める素振りを見せようとするその瞬間には、ローラとエチエンヌのワイヤーが入る。そうしてシェスラートが背後に距離をとろうとすれば、そちらへ移動したクルスが剣を構えている。
本当に厄介な奴らだ。
だが、それでもシェスラートの敵ではない。
(ここだな)
シェリダンの攻撃の合い間をうまくつき、シェスラートは彼の剣を弾き飛ばした。
「!」
得物を奪われては、さすがにシェリダンも攻撃の手がない。回転しながら弧を描いて飛んでいく剣の行く先を一瞬目で追った、それが彼自身の隙となった。
「シェリダン様!」
クルスの叫び声が聞こえるのと同時に、伸びてきた白い手にシェリダンは地に叩き伏せられる。シェスラートにしては剣を弾き飛ばした腕とは逆の腕をその反動で伸ばし、素早く簡単に目の前のシェリダンを薙ぎ倒しただけだろうが、攻撃を加えられた方はそうもいかない。
一瞬息がつまり、呼吸ができなかった。込み上げるものに苦しみながら咳き込んだシェリダンの上に、先と変わらない淡々とした表情で佇むシェスラートの影が落ちる。
「っ……!」
純粋な身体能力では、さすがに敵わない。
「確かに人間にしては強い。よくやるものだ。だが、俺には敵わないよ」
シェスラートの……その顔立ちはロゼウスのものの、紅い唇が嫣然と弧を描く。
「大人しく死にな」
「くっ……」
シェリダンが悔しげにシェスラートを睨む。シェスラートが一歩足を進める。
「駄目だ! 兄様!」
幼い影が、そのシェスラートの身体に体当たりを仕掛けた。