第15章 聖者の葬列(1)
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何も失いたくないのならば、最初から手に入れなければいいのだ。ないものは誰も奪えない。喪失の痛みに苦しくて引き裂かれそうだというのならば、もともと何も持たなければいいのに。
あるいは、今あるものもそのために手放すのか。
「いいね、エリサ。これを持って、とにかくローゼンティアともエヴェルシードとも離れた国に行くんだよ」
「おにいさま……」
「今までのような暮らしはもうできないけれど、辛抱してくれ。お前はこれから民に交じって生きて行くんだよ。畑を耕したり、お皿を洗ったりして生きて行く。……できるね」
末の妹の手に路銀を押し付け、目線の高さを同じにしてロゼウスはそう言い聞かせる。
「お金の使い方、わかるだろ? アンリ兄様がやってたの、見てたね? 大丈夫。お前ならできるよ。だから……」
ロゼウスの言葉に、十歳の妹は目に涙を浮かべた。
「エリサはもうおにいさまたちといっしょにいたらダメなの?」
「エリサ」
「もういらないの?」
赤いつぶらな瞳が見上げてくる。
「エリサはもういらないの? エリサが足手まといだから? だからいらないの? エリサ、たたかえるよ! もっと強くなるよ! だから、だから」
「……違うよ、エリサ」
涙目で見上げてくる妹の様子は哀れだが、今回ばかりはここで折れてやるわけにはいかない。たとえこれが、今生の別れになろうとも。
この数週間であまりにも多くの犠牲を払った。大切な兄妹たちを失ってきた。
ミカエラ、ウィル……そして今度はミザリーまでも。
ドラクルのもとにいる他の兄妹のことはわからないが、三人だけでももう充分だ。もうこれ以上、誰も失いたくない。
だから、失う前に手放すのだ。
「……ごめんね。エリサ。俺のせいで、変なことに巻き込んで」
運命というものはあるのだろう。ひとは生まれてくる場所を選べない。
ローゼンティア王家になど、生まれてこない方が彼らは幸せだった。今ならそう言える。ロゼウス以外の王族は、王家にさえ生まれて来なければもっと幸せになれたはずなのに。
けれど今ここでそれを言っても仕方がないから、ロゼウスは末妹の手を離す。
「お前がいらないわけじゃないよ。俺が、いらなかったんだよ」
「ロゼウスおにいさま……」
「だからお前は、もう俺と一緒にいちゃ駄目だよ。俺から離れて、幸せな人生を生きるんだ。俺も、アンリ兄様もロザリーも、他のみんなもお前の幸せを祈ってるよ」
ごめんね、と抱きしめて耳元で告げた。エリサだけではない。ミカエラにも、ウィルにもミザリーにも。彼らの死を経たからこそ、エリサまでそんな目に遭わせることはできない。ミカエラとミザリーは間接的に、ウィルは直接この手にかけてしまった。ロゼウスの宿命の闇は深い。もうこれ以上巻き込みたくない。
それでもドラクルを止めるため、自ら残って戦うと決意したアンリとロザリーの心まではロゼウスにも動かせなかった。だが、このまだ幼い末の妹だけは……
――シェリダン、デメテル陛下。もしもこのままエリサと離れて、ハデスがこの子を狙ってくる可能性は?
――ない。
――ないわね。
――ハデスだってそこまで鬼じゃないだろう。お前に自ら手を貸す者は憎んでも、お前を見捨てた妹にまで手は出さないだろう。
――ありがとう。
「エリサ、お前は生きてくれ」
他には何も望まない。
「戦わなくていいよ。強くなんて、ならなくていい。ただ、生きて幸せになってくれれば、それだけで」
エリサが小さな唇を震わせる。
「はい……」
まだ十歳の少女は己の役割を悟ったのだ。自分がここにいても役に立てることはほとんどない。むしろ兄たちの心労を増させてしまうだけならば、と。
「さよなら、おにいさま」
一人で生きていくのは辛い。だが死ぬ事も辛いのだ。
どちらかを選ばねばならないのなら、ロゼウスもアンリもロザリーも、エリサに生きる方を選んで欲しい。
だから、答はさよならだった。
荷物を背負い、デメテルのつけた兵に送られて皇帝領とバロック大陸を繋ぐ橋まで向かうエリサの後姿を彼らは見送る。
「さようなら、エリサ」
二度と会えなくても、このままお互いの死すら知れなくとも。
それでも生きていてほしいから。
「さよなら、さようなら、おにいさま、おねえさま、さよなら」
さよなら、ローゼンティア。