荊の墓標 45

第19章 君が久遠を望むなら(2)

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 城中で働く人々を追い出したせいで、廊下は暗い。燭台に火をつけるのも忘れて、彼はただ歩く。
 白亜の石の宮殿は、生まれてこの方慣れ親しんだ場所だ。視界が利かずとも特に苦労もなくハデスは歩いて、その部屋に辿りついた。
「……ただいま」
 ポツリと無機質な言葉を落としたその場所は彼自身の部屋だった。本来誰かに向けるはずの言葉は帰らない主を待ち続けていた空虚の部屋に虚しい独り言として響いた。
 気にせずハデスは後手で扉を閉めると、まっすぐに寝台へと向かった。彼がいない間も使用人たちが掃除を欠かさなかったらしく、部屋には埃の一つも積もっていない。寝台はきっちりと敷布が整えられていて、チェストや応接用のテーブルまで磨き抜かれている。
 冷えた寝台に転がりその柔らかな感触を堪能すると、ようやく身体から力が抜けた。
「はぁ……」
 今日でこの部屋ともおさらば。そう思えば、複雑な感慨が胸の内に押し寄せる。
 ハデスは天井を見上げた。皇帝の居城の作りに手抜かりなどない。高貴な身分の者の私室の天井には美しい絵が描かれている。
 昔々の神話になぞらえて、白い羽の生えた人間と黒い羽の生えた人間。視線を身体の脇に向ければ、壁際にも絵画が飾っている。用途不明の壷などが無造作に壁際の棚に飾られていたりして、我が部屋ながらなかなかに胡散臭い。
 この部屋で眠った事は、そう多くはない。ハデスはその立場から皇帝領に戻ってくれば必ず姉であり皇帝であるデメテルと顔を合わせなければならない。それが嫌で、帝国宰相という役職を頂いてからも、この城に、この部屋にほとんど帰ることはなかった。
 そんな場所なのに、いざ捨てるとなれば惜しいのかと。
自分も大概愚かだと、嘲笑う。
 本当ならば様々な言い訳を各方面に対してしなければならない立場にあるのだが、そんな工作はまったくしていない。先程ジャスパーが少し突っかかってきた以外は、皆ハデスに対して無関心なものだ。これは彼らが彼に寝首をかかれることなどないと安心しているのか? それとも馬鹿にしているのか? どちらとも知れない。どちらでも構わない……。
 一番話をしなければならない、話をしたい相手は一番話をしたくない相手と共にいる。
 だから、ハデスはこの場で寝台に無造作に手足を投げ出したまま動かない。
 どうせ部屋を出たところでシェリダンと話をできるわけでもないし、動かないでいい。
 疲れすぎてちりちりと焼け付くように熱いまぶたを手で押さえながら、彼は深い溜め息をつく。
 明日の今はこうして息をすることもないのだろうかと思いながら。
 様々な感情が胸の内に湧き上がっては消えていく。否、消えていくのならば別に良い。消えていかないから今少しだけ困っている。数々の思いが心の底から湧き上がり、また沈み、その攪拌を繰り返す。記憶と記録と思いは交じり合い、自分でも自分がわからなくなってくる。
 瞼を閉じたその裏に、嘘のように鮮やかな景色、けれど自分がその時何を考えていたのかを覚えていない。
 人の記憶など脆いものだ。あの時何を自分は思っていたのか? そんな簡単事すら忘れてしまう。
 だからこれでいいのかも知れない。
 ひらひらと風に舞う頼りない木の葉のように自分が何度もその立場を変えてきた自覚はある。口では他者を責めながら、そんな自分をも心の内では馬鹿にしながら生きてきた。確実なものなどこの世に何一つないのだと、未来は見えていても案外わからないものだな、なんて。
 そう、預言者が未来を見ても、その結末が本当に予言をなぞるとは限らない。
「だからこそ」
 いつの間にか手に力が入っていた。知らず握った拳に骨が白く浮かび上がっている。
「未来を変えたい」
 思いは虚しく唇を上滑り、希望した端から絶望が胸を覆う。ハデスは自分の予言の精度が異様に高いことを知っている。予言と言っても未来の全ての出来事を見渡せるわけではなく、得られるのは常に断片的な情報だ。なのに、その断片的な情報はいつも物事が終わった最後にからくりを知って繋ぎ合わせると見事な一枚絵のように完成する。
 力を出し惜しみはしない。見える未来を片っ端から見て、己の能力を制御する。まだ完璧とは言いがたいが、それでも自分の得た情報を状況と繋ぎ合わせ推測し、未来に起こる出来事を当てる勘は発達したものだ。
 あるいは予言の中には、どう見ても間違いようのない残酷な場面を無理矢理ハデスに知らせてくるものもある。
 明日行われる戦いについても後者だった。一片の希望も打ち砕くように無慈悲なまでに鮮やかに、その光景がハデスの目の前に広がる。初めて見たときはさして気にもとめなかったその映像。だが今は自らの能力が優れているという事実を、これほど恨むこともない。
 ゆらりとハデスは身を起こし、誰に話しかけるのか虚空に目を向ける。それは異教の神に祈る者のように懸命で切なる眼差し。
「まだ、未来は始まっていない」
 可能性は残されている。あの残酷な場面からでも、大逆転できる可能性が。
「だって今は……生きているんだから」
 明日の戦いについて、文字通りの最終決戦についてはハデスもあまりに断片的で繋ぎ合わせても要領を得ないような情報しか見ることができなかった。わかったのは二つだけ。
「ロゼウスはシェリダンを殺す。そして皇帝になる」
 それだけが、これまでハデスの見ていた全てだった。確信をもって言えるのはこれだけ。後は何が何だかわからない。どうしてそうなるのか見当もつかない。
意識を集中して瞼を閉じると、闇に映像が浮ぶ。
 紅だ。
 一面の深紅。一人の人間の身体から流れ出したとは到底思えないほどの量だ。灰色の床を占める赤、赤、赤。
 その深紅の中心で、誰かが泣いている。全身は彼もまた紅に染まっている。自らが殺した人の血を服に吸って真っ赤になりながら、こんなはずじゃないと泣き叫ぶ。
 そして彼は狂う。
 彼を狂気に陥れるためだけに、その紅はある。その血だまりはある。
 ハデスにはよくわからない。ロゼウスがシェリダンを殺してようやく本当の皇帝になるという理屈が。
 世界最強の力を持っているというのであればさっさと皇帝になればいいのに、何故そんな条件じみたことが今更必要なのだろう。
 ハデスにはわからない。ロゼウス自身にも多分わかっていない。
「……姉さん」
 ぽつりと、こらえに堪えていた名前を思わず呟いた。それは常に彼を導いてきた名だった。良くも悪くも。
 自分の無力さを噛み締める。皇帝を殺す?
次の皇帝も殺す? そして自分が皇帝になる? 大それた野望を一途に抱いてきた己の愚かさをこそ今憐れむ。馬鹿な自分。本当に。
 皇帝を殺すなんて、ほとんど不可能だ。唯一皇帝を殺せる可能性があるとしたら、それは皇帝になる可能性を持っているのと同義だ。
 ハデスにはその器がなかった。
 本当はずっと前からわかっていた。それでも知らない振りをしていた。
 自分ならできると、やって見せると勢いこんで目的のためなら誰彼構わず捨て駒の犠牲にして血の道を歩いてきた。その辿り着く先がかつて夢見たあの凄惨な血だまりなのだとわかっていても、それでも歩き続けた。
 目標を、目的を失ってしまえばそれこそ自分が惨めだから。選定者は皇帝のために生まれてくる。ハデスはデメテルのために生まれた。けれど彼はジャスパーがロゼウスに心酔するようには、姉に傾倒できなかった。偽りの絆で結ばれた主従は、世の中に新たな偽りを生み出し続ける。
 皇帝の慰み者になるためだけに生まれてきた自分。たまらなく惨めだった。だから逆転してやろうと思った。皇帝の玩具ではなく、《皇帝》へと。
 それがどういう事態を引き起こすことになるのか、考えもせず。
 そう、自分は。
「……後悔してるんだ」
 今、この上なく後悔している。
 胸の奥がぎゅっと締め付けられたように痛む。この感情の名を後悔という。これまでは自分にこんな宿命を与えたデメテルが悪いのだと責任転嫁することによって自らを保っていた。けれど今、何よりも後悔している。そして明日、本当の意味で後悔しないために彼はこの城へと戻って来たのだ。これが理由。
「死なせない」
 脳裏を蒼い髪が過ぎる。朱金の瞳が穏やかに細められて自分を見る。その笑顔が失われるように差し向けたのは、紛れもなく自分だ。
 それを今、例えようなく後悔している。
「だから、死なせない。シェリダンが死ななければロゼウスだって皇帝として目覚めない。姉さんへの復讐は果たした。後は、明日の結末を変えることだけ」
 これまでの人生、一体何のために生きてきたと思っているのだ。シェリダンが死んだらロゼウスが皇帝になるというのであれば逆を言えば彼さえ死ななければロゼウスが皇帝になることもない。ならば、シェリダンの死さえ回避できれば世界は自分の思い通りだと。
 大切なものを失う耐え難い不安と恐怖に苛まれながら無理矢理損得勘定の算盤を弾いて、自分を奮い立たせる。
 後悔している。今までしてきたことを。
 だから。
「もう、これからはしたくない」
 それが叶わない願いだと知っていても、彼を死なせないために彼はこの城に戻って来たのだ。

 ◆◆◆◆◆

 星のない夜空を仰ぎ、空と同じ黒い瞳を伏せる。白い瞼を彩る睫毛も黒で、全身漆黒の衣装に身を包んだ彼女の白い面だけが、静かに闇に浮かび上がる。
 近くから遠くから聞こえてくるのは薔薇の花の香り。ここは薔薇の国。薔薇の死神の眠る国。
 もう少しして、準備が整ったら早々にこの地を離れることになる。訪れるのは彼女が長年親しんだ、家とも言うべき場所。世界の果てにある薔薇大陸皇帝領。そこが最終決戦の場となる。
 同行者たちを待ちながら、ローゼンティア王城の外で一人プロセルピナは夜空を見上げる。
 その漆黒の闇の果てに、何があるのだろうか。
「……馬鹿ね。何もないに決まっているのに」
 あると言えばあるのだろう。帝国に住む普通の人間は知らないが、空の果てには宇宙という暗黒の空間がある。それはこの世界で皇帝だけが知っていること。
 そのことを知るのに、どれだけの対価を自分は払って来たのだろうと考える。
 皇帝という存在になるために、どれだけの……。
「自分で望んだわけでも、ないのにね」
 独り言は止まらない。彼女にとっても、これはある意味で最後の夜だ。この戦いが終わってしまえば、もはや自由などない。どんなに未来を見る予言能力を駆使しても、この先のことは彼女には朧のように霞がかってしか見えない。
 ロゼウスの力は、皇帝としても強すぎる。彼が正式にその座に着けば、もはや誰も敵いはしないだろう。プロセルピナが未来を見ることができないのは、その未来におけるロゼウスの存在感が強すぎるためだ。
 燃え盛る地獄の業火のような強い、魂の輝き――。
 さすがに始皇帝となるべきだった男、シェスラート=ローゼンティアの魂を継ぐ者は違うということか。
「ローゼンティア王家も、厄介な化物を生み出してくれたものだわ……」
 呪われた薔薇の国の王家。今となってドラクルが祖国への反逆を起こし玉座の簒奪など考えたが、それもあるいは当然の成り行きだったのかもしれない。この呪われた国においては。
 そもそもローゼンティアの初代王ロザリア=ローゼンティアが愛したのは彼女自身の兄。魔族は通常自らの種族としか結婚しないという近親婚の風習。連綿と続く血の流れはいつの時代も澱み、腐りかけていた。根元から腐った果実が今になって、その樹から落ちただけ。
 しかしそれに伴う犠牲は甚大だ。
「運命とは残酷なものね……シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。あなたがエヴェルシードの王でなければ……いいえ、あなたが生まれて来なければ、こんなことにはならなかったのに」
 人は自らがどんな場所に、どのように生まれてくるのかなど選べない。エヴェルシード王国の王子として、王になるべき人物として生まれてきたこと、それはシェリダンのせいではないが、そのために《世界》の歯車が噛みあってしまった。
 狂ったのではなく、噛みあったのだ。
「あなたたちが出会わなければ……」
 出会わなければ。
 ロゼウスとシェリダンが出会わなければ、今のこのような事態にはきっとならなかったに違いない。
「しかしそのおかげで、世界は歴代最高の真なる《皇帝》を得ようとしている」
 世界に住まうあらゆるものたちの生活は、命は皇帝によって左右される。どんな王国でもそれは同じだ。名君を得れば安寧と幸福を、暗君を得れば破滅と苦渋を。
 皇帝とはしかし世界のその全てを揺らす存在。どんな名君の治める王国に生まれても、皇帝の性質によっては幸せに生きること叶わない。
 皇帝、それは世界を統べる者。
 だが名君であることがその帝本人にとって幸せであるとは限らないのだ。
 才能や技術や意志があれば必ずしも名君になれるとは限らない。偉大なる支配者になるために努力をすればそうなるとも限らない。
 皇帝になるための条件、それは――。
「……残酷ね」
 プロセルピナは繰り返す。
神に選ばれ世界を支配せしめる皇帝となるために、彼女自身も辿った道がある。それは獲得ではなく、限りない喪失への道だった。
 けれどプロセルピナの場合はまだマシだ。彼女はそれを失う代わりに、弟であるハデスを得た。彼女にとって唯一無二であり最愛の弟。例え彼が自分を愛することが、永遠になくとも。
 だから彼女はこれでいい。自らが望んだわけでなくとも、皇帝になったことを永遠に嘆き続けることなどない。むしろこの至尊の座を得たことを最大限に利用して、彼女はやりたいようにやってきた。
「でも、ロゼウス=ローゼンティアは違う。彼は……」
 ロゼウスは喪失を代償として手に入れた結果に満足することは、決してないだろう。 
 赦せない罪が確かにこの世にはある。その罪を一生背負っていくことになる彼は己を赦さない。一生己を赦せない。己だけでなく、その道を作った全ての者を赦さないだろう。
 だが、シェリダンの「死」なくしてロゼウスが皇帝になることはありえない。
たった一人の人間の死が世界に何を及ぼすのか。一見何の意味もないように思えるだろう。けれどそこには、シェリダン=エヴェルシードの死はロゼウス=ローゼンティアにとって何よりもの意味がある。
 この上もなく、残酷な意味が。
「シェリダン=エヴェルシードを殺せばロゼウス王子は、もはや狂うしかない」
 狂うしかない。
 狂うために彼を殺す。
 狂わせるために、彼は死ぬ。
 神よ、人はいつか必ず死ぬのに何故生まれてくる? いつか必ず終わる人生であるならば、何のために、そんな運命を彼らに与えた……
「可哀想な子たち」
 可哀想、と憐れみを呟く彼女の瞳は翳りを帯びている。可哀想、と彼らを憐れみながら、しかし彼女自身も彼らをその運命へと駆り立てた者の一人だ。
 ハデスが歪めようとした運命を、プロセルピナことデメテルと巫女ルースの二人がかりで軌道修正した。皇帝を得るべき世界のためなどという大義名分を掲げて、しかし本当はもっと些細にして身勝手な私利私欲のために。
 残酷な運命。
 残酷な自分。
 自分がその役割を負いたくないばかりに、ただ、愛する者の生を願うだけの少年の幸福を全て奪うのだ。
 しかも自分の逃げ道だけはちゃっかりと用意している。それが何よりも酷い。
 プロセルピナもわかっている。己の残酷さは。
 けれどそれを捨てることができない。そのためにシェリダンが死に、ロゼウスが苦しみ、またその決して癒やしを得ることのない苦しみを慰めるためにロゼウスが何人もの鮮血で世界を染め上げるとわかっていながら。
「プロセルピナ姫」
 ふと名を呼ばれて物思いから冷めた。
「あら、ドラクル王」
「もう王ではない」
「そう。それで、準備はできた?」
 こちらにゆっくりと歩み寄りながら小さく頷く青年の顔色は悪い、もともと吸血鬼は蒼白な顔色をした種族だがそれを差し引いても。
 彼の人生を歪め、残酷な運命へと導いたのもまた彼女自身だ。
 ロゼウスの皇帝への即位のためにシェリダンの死が必要とされる。そして、このドラクルの狂気と破滅もそのために必要とされた。シェリダンが光ならばドラクルはその影として存在している。誰が気にせずとも、彼もまた死ぬ。
 わかっていて彼女は彼をその墓場へと送り届けるのだ。
 世界は《誰か》の望んだ破滅へと向かっていくのか――。
「さぁ、行きましょう」
「ああ」
 最後の言葉を交わし、異空間への道を開きつなげる。